「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

自由と動機はどういう関係?

2012-08-18 10:38:24 | 第1章 人間の意識的行動
まったく・・整理が悪くて、本が行方不明に

先日電車移動中に一章を読んでみたので、
バッグのどれかに入っているはずなのだけど・・

思い出せる内容としては

人間が何かを行う自由について考えるとき
その行動の動機がどんなものか?を
本人がわかっているかどうか?

そこに注目することなく
自由について云々されてきたけど

「動機が自覚的かどうか?」に注目してみたい

という話だった・・

人間の自由と、動機の自覚
どうつながるのだろう?

なぜ、今ブログを書こうとしたか、自分でわかっている?
その動機は、う~んと、暇ができたし書きたかったから
なぜ書きたかったかというと・・

外界の印象がどんどん流れていくと、
ちょっと待ってくれよ!という気持ちが強くなってくる
何かを書くと落ち着く
頭がそれを要求する
そういう時間が必要である
ブログで書くのは、この過程をだれかと一緒に楽しめるとしたら嬉しい!
そう思っているから

そもそもは、
自由の哲学を丁寧に読みたいからよ

なぜ丁寧に読みたいかというと
なぜ?
あまり自覚できていない

やっぱり、一緒に読む過程を楽しめるオキツさんがいてくれるのが嬉しいから
(勝手に名前出してごめんなさい)

それから
シュタイナーの世界を、ただの迷妄としてしまわないためにも、
彼の霊学の根拠となる(?)この本の言葉を、
ちゃんと理解しておきたいから

じゃ、なぜ彼の霊学の根拠となる言葉を、理解したいのか?

それは、彼の霊学・・というより、
自分自身の人生の霊学?神秘学を面白いと思っているから・・か・・

詩的言語と、科学的言語が、つながる可能性があるのか?興味があるし

あと、この世界を無価値にしたくない・・ということもあるかも

え?それどういうことだろう?

・・きりが無いが
それにしても、今、自分の「中に」この動機が
存在しているということは間違いない

この動機を私がはあくしているのとしないのと、
何が違うのだろう?

やりたい→やる
やりたい動機を発見→やる

大脳を通過したかどうか?かな

「やりたい」は先にあるのが絶対なのだろうか?
やりたくない→動機を発見→やる
もあるか?

あと・・ついでに思い出したのは・・
何かをやるのは奨励されるけど
やらないことは認められない傾向がある

それはそうだ
やらないことは見えないから
でも、やればいいってものでもないのに、
やらないことを選ぶことが必要な時に
それが必要だと認めてくれる人は少ない
だから自分でそれを選ぶことは労力がいる場合もある

シュタイナーが「やらない衝動」を認めてくれる一文に出会ったとき
すごく嬉しかったのを覚えている
でもそれが何に書いてあったのか忘れてしまった

これは、今思うと動機に関係しているのではないだろうか?
動機の自覚が無いままに、何かをやる、頑張ることがいいと
思っていることもあるだろう
周りの人間も、わかりやすいからそれを応援するし

でもふと立ち止まりたくなるときがある
行動が、自分が行っているのに受動的になってしまっているとき
仕切りなおすために、しばらくの間完全に静止することが必要になることが
あるのではないだろうか?
それはすごく積極的な価値のある行為なのだけど
みんなは心配してしまい、どうしてやらないの?となるだろう

動機は自分の中にあるものだけど
自発的なものと、外から与えられたもの、押し付けられたもの、
自然に芽生えるもの、いろいろあるだろうな

つらつらとイメージしてみたら・・

自覚的な動機、無自覚な動機
それが
人間の行動の自由にどう関係しているのか
見えてくる気がした

動機の内容を完全に理解しているかどうかというより、
動機がちゃんと自分の内部に存在しているか?が
自由な行動に関連しているのではないだろうか













最新の画像もっと見る

コメントを投稿