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「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

対象と思考/対象と感情

2014-02-17 16:55:55 | 第3章 世界認識に仕える思考
理解のためのメモ

☻思考と対象

自分自身の活動地点1において

観察1は、対象1が私の体験の場に現れると同時に行なわれる

思考1は、対象1が現れ、観察1されたのちに行なわれる

この思考1を観察2する場合、対象1の観察1、思考1と同時には行うことは出来ない

思考1を観察2、思考2する場合は、私はまず、自分自身の活動の外側の地点2に、自分を置き移さなくてはならない

☻快楽の感情と対象

快楽は、それを引き起こす対象と同じように与えられている

それは対象によって産み出されたもので、私の意識的な活動によって形成されたものではない

したがって、観察に対して、思考と感情を同列に置くことは論外である






観察対象としての、感情と思考の違い

2014-02-16 10:15:43 | 第3章 世界認識に仕える思考
観察対象として、思考は特殊なものである

観察対象として、感情と思考では全く違う

と、シュタイナー氏は言う

でもその説明が、私にはよくわからない

思考以外の精神的活動を観察することは、思考を観察するときと比べてどうなのか

わかった気もするのだが、まだピンとこないのである

(エーテルの国で、くっきりとした輪郭を描くほどには…)

生産後の思考を観照する側の意識

2014-02-14 14:42:19 | 第3章 世界認識に仕える思考
(↓シュタイナーbotさんより引用させていただきます)

@R_Steiner_jp:

思考についての思考が、思考の精神的観照に変化すると、普段自分の前に外的な感覚的対象があるように、思考が自分の前に存在します。

人間は外的な感覚的対象を、目と耳で知覚します。

思考は精神的に観照する魂によって知覚されます。

-ゲーテ・精神世界の先駆者-


久しぶりにTwitterをのぞいてみたら、シュタイナーbotさんのTweetに上記のものがあった

シュタイナー氏の力説する、思考を思考する場合の特殊性が理解出来なくて、次の章に進むことがためらわれる私としては有難いTweetである

なになに?
思考についての思考が、思考の精神的観照に変化する
精神的観照て?
webで調べると
観照=
主観をまじえずに、物事を冷静に観察し、その意味を明らかに知ること


主観を交えずに、冷静に、対象としての思考を、精神的に観察する
すると、

普段自分の前に外的な感覚的対象があるように、思考が自分の前に存在します


「思考を思考するとき、自分が移動する」というのがピンと来なかったのだが、これはヒントになりそう

意識は、対象を自分の外側に発見する

意識には、そういう性質があるのだ

だから、その対象が自分の生み出した思考内容であるときには、不思議な、しかし意識の性質からすれば当然とも言える現象が起きる

あー、だからシュタイナーは二章で、意識の性質をはっきりさせる必要があったのかもしれない

意識は、見た対象の世界と見る側の世界を二分する

だから、対象が自分の内世界の側に存在する思考であれば、内世界は観察する意識の側と観察される側に二分されることになる

思考を思考するにあたっても、やはり前に強調されていた「観察→思考」の手順を踏むのだから


思考を観察する側の意識は、内世界の中で、外の世界を肉体的器官で観察した内容を思考した場よりも、一段奥の間に移動することになる

思考は精神的に観照する魂によって知覚されます。

その、奥の間の意識、「思考を観照する側の意識」を、シュタイナーは「観照する魂」と名付けている

奥の間の意識=魂

というわけ

うーむ、なんとなくイメージ出来てきた感じ(^-^)





思考を思考する時の移動先について

2014-01-24 07:02:01 | 第3章 世界認識に仕える思考
「知性的把握」(noein)をする我々自身は、生きている我々自身の外に出る

↑プラトン イデア論のまとめより

思考を思考するときは、通常の場所から移動する

というシュタイナー

この意味が不明だった

この二つに共通性はあるか?

生きている我々自身は、カントが物自体に至ることは出来ないと言った時空の中にいる

この時空は普段私が肉体を持って生きている場

外へ出る、移動するというのは、時空ではない場を想定して言っているのだろう

その、我々が生きている場ではない場は、どのようなものなのか

肉体的には生きていない場は、死者の場と言ってもいいのだろうか

そちらの場から考えれば、私たちがその中に「入る」と表現できる

外から眺める時と、中にいる時とでは、状況はまったく異なっているのではないだろうか

変な例えだが、お風呂を外から見ている時と、入っている時では、私自身が違っているのである

その中にいる時の私は、どんな状態なのだろう?


なんだか…哲学って、幾何学とか、数学に似ている

ぐるぐると…思い巡らす

2013-11-13 09:13:44 | 第3章 世界認識に仕える思考
色々とやることがあり、あまり読書にかける時間がない

しかし何度も三章を読み返してみている

なんだかぬかるみに足を取られるような、わけのわからなさにがんじがらめになる感じ

思考を思考する場合の特殊性も、相変わらずよく理解出来ない

思考は感情と違って自我そのものの中で行っており、感情の場合には自我が受動的なのだから、同じ精神活動でも違うとのこと

感情は、感情を抱いているさなかに観察できるものかな?
感情的になりすぎたときには無理かも

でもその時には、自我は受動的なのだから、思考と同じように扱うことは出来ないとのこと

感情では、事象と私は密着しているけれど
思考の場合には、事象と私は同じ場にいない
という違いがあるとのこと( ? _ ? )

まあ、そうだとしてみれば、
自我がその分フリーなわけですね
密着しすぎると自我はちゃんと働けないのかな

確かに、誰かと喧嘩している時にも、それを冷めた目で見ている自分は別にいるということはあり得るかもしれない
あるいは、我にかえってみれば、我ながら軽率だった…などと思う場合には、我はどこかに置き去りにされていたり

一方、自我が全面的に中心となって、意思的に主体性を持って行うのが思考ということを、どう考えればよいのか?

思考は自我による宇宙的生産活動なので、生んでいる最中にはそれを俯瞰する余裕はないとのこと

そうなると自我の、本来の仕事は思考ということなのでしょうね
思考中はフル回転てことなので

思考は自我の中心で、観察によって点となって現れた事象の関係性を導き出すことで、世界、宇宙を包み込む

宇宙のラッピング?
それなら…
リボンをつけてあげようかな^o^

思考がどんなラッピングをするかによって、宇宙の色彩は変化する気がする

それとも、それが宇宙の実質なのかな
肉付け的な

その結果を自我が再び見て、また考察するに、

その時には、実質と実質の関係もわかります

だったら楽しいな^o^

いやそんなものではなくて、もっと厳密なもの?

自我、思考という言葉が曖昧だと、何もかもわからなくなりそう

うーんと…
でもそれでも、思考の働き、それを行う場の感覚が、少しはっきりしてきたかも







植物のぐるぐる巻き