「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

表象 イメージ

2016-07-27 10:13:19 | 第4章 知覚内容としての世界
どのようにして外界が思考の舞台となる意識に入るのか?

その人なりな表象、イメージという形を与えられて、その形を舞台に載せるということになるのだと思う

表象とは聞き慣れない言葉だ

他の著作では表象についてシュタイナーはどんなことを言っているのだろう?

「感覚界から自由な表象は、感覚性に満ちた表象とは全く別の影響を人間の本性に及ぼす」

「古代秘秘教講義」より

人間が作る表象であるはずが、
その表象が人間に影響を及ぼすと言う

感覚界から自由な表象

感覚性に満ちた表象

それぞれどのような影響を及ぼすというのだろう?!









わからないことを大切にしたい

2016-02-01 20:33:44 | 雑感
全く投稿しなくなってしまったのだけど、何もしていないわけでもない

では何をしているのであるか?

自由の哲学を読んでいくうちに、だんだん大きくなってくる問いに、多少なりともアプローチしてからでないと読み進められなくなったのである

その問いとは、どのようなものであるか?

そもそも、浮かび上がってくる問いの存在というものには、どんな性質、意味があるのだろうと思わずにはいられない

問いを一つの働きと捉えると、それはまるで種のようである
そこから話は展開していく

いったいなぜその問いを、シュタイナーは立てるのだろうか?という問い
私にとってその必然性というか、話の自然な流れと感じられない問いをシュタイナーが立てる時、なんで?と感じること、それ自体にも注目してみたい

言葉の使い方への問い
私にとって違和感を感じさせられる言葉の使い方があることにも注目したい

世界観への問い
自明のように語られるが、私にとっては自明ではない世界観、世界の構造に対する問い

問いへの答えを完全に見つけることは、すぐには難しいだろう

今は木田元さんという方の「私の哲学入門」という本を読んでみている

そもそも哲学への素養が乏しいので、本質とか主体とか存在とか、そういう根本的な言葉にいちいち引っかかってしまう

またそのひっかかりに注目してみることで、哲学の源流をたどることも楽しい

哲学とは、形而上学のこと
それは言葉の世界である

そこには一定の構造がある

その構造そのものへの疑いもあって当然だと思う

それは現代ではほとんど否定されている構造ではないだろうか

何をシュタイナーは肯定し、現代は否定しているのだろうか








世界と私と、それを認識するものと

2015-08-23 08:55:49 | 1918年の再販のための序文
ブログを書く時間がなかなか取れない

この場に記してみたいことは、たいてい考えの芽、あるいは種みたいなもので
書いてみることで光があたり、また伸びていく可能性が生まれるのではないかと思っている

ずーっと「自由の哲学」を読む課題が続いていて、いつ終わるのかも見通しが立たない
でも気にせずに、のんびりと無理なく楽しみたい

今気になっているのは、彼が立てる『問い』に持った違和感である

話の流れからして、なぜその問いを立てることに必然性があるのか?
と思ってしまい、自然な流れとして受け止めることが出来ない

つまり、「なぜ彼はその問いを立てるのか?」という問いを、私自身も立てることになるのだ

もしかしたら、私がその疑問を持つことのほうにも疑問を持たれることがあるかもしれない

ひねた考えかもしれないが、ここにヒエラルキーのような価値観が隠れている場合がある

偉い人に対する疑問を持つこと自体が疑問だという

それで思い至るのは、シュタイナー氏が言う人間の存在形式についての話である

人間は世界の一部として、世界に包まれて存在している
と同時に
世界に対峙して、自分を個として認識しながら存在している

……………………………………………………………………………………


ここまでが、以前書いていた文

下書きに入ってほったらかしになっていた
悪くない着想ではないか?と引っ張り出してみた

このあといったいどう話を続けようとしたのか
今の私にはわからない

でも、もしかしたらこうかも?と
今の自分が過去の自分の考えを引き継いでみる

……………………………………………………………………………………

この、シュタイナーの言う人間の存在形式の文は
あらためて考えてみると、思いの他発見がある

その発見というのは……

自分にとっての
世界vs自分

という図式において
というか、言葉において

世界は、世界と自分という分断として現れる
しかし実際には、その2つだけではなくて
その二つを見ている私というものがある

そうなると3つになるのだろうか?
でもその3つを見ている私は?

3つ目の私はどこまでも下がっていって
無限に退いて行けるだろう

3つ目の私は、特殊な性質を持っている


「世界に包まれる」という時の
その世界部分というのは、いわゆる自然界のもの以外も含まれている
自分が、これぞ自分だと思う、厳密に完全に自分であると思える部分以外は
世界の側に含まれる

世界に対峙して、自分を個として認識すると言うその個として認識している部分は
自分であると言える
それ以外の部分は、たとえそれが自分の肉体や脳の働きであっても世界の側に含まれるのではないだろうか

てことは、私というのは視点であって、どこまでも退いていけるし、世界と視点の間に何層もの思惟空間を作ることができるんじゃない?

その空間というのはいったいどんなものなのだろう?

それにそんなに身軽に退いていった私という視点は、勝手に色々なところにもぐり込んで行けるんじゃないだろうか?

この、トンチのような空間を進むとシュタイナーの言う「霊的」なものにもたどりつくのだりうか?







言葉においてこそ死者と出会う

2015-07-14 18:48:09 | 読むと黄泉
「読む」とは、死者の語りを聴くことである、と感じていたのはアランだけではない。

……

哲学者池田晶子もまた、「読む」とは死者の言葉にふれることだと言った。

彼女にとって哲学を「読む」とは、それを書いたものと語らうことだった。

……

「かつての哲学者たちは、今は皆死んでいる人たちです。

つまり、死者の言葉をわれわれは読んでいるわけです。

……

この世のわれわれの話している言葉は、すべて死者の言葉というふうに見えてきます。

……

生者が死者の言葉を語っているのです。

そうすると、動いていないのは実は言葉の側であって、生きたり死んだりしているのは人間の側だというのが見えてきますね。

言葉はまったく動いていないのです。

あるいはまた、この動かない言葉においてこそ、生きているものは死者と出会うことができる。

死者に語るという不思議な行為をわれわれはします。

それは死者に向けられた言葉、鎮魂としての言葉です。」


「涙のしずくに洗われて咲きいづるもの」若松英輔著 より


死者の声を聴く

2015-07-14 18:02:37 | 読むと黄泉
以下引用

フランスの哲学者アランが、「読む」ことをめぐって、次のような興味深い言葉を残している。

「明らかに、私たちの思想は読書によって形づくられる。

そして読書とは、不滅の存在たちの意見を聞くことなのである」

『感情、情念、表徴』古賀昭一訳

……

この一節で「不滅の存在たち」とアランが呼ぶのは、死者である。

アランにおける死者とは、単に生者の記憶にある存在でないことは、先の一節が明らかに語っている。

たとえ生者が忘れるようなことがあっても死者は存在する。

書物を手に取るまで、私たちはその作者を知らないが死者となった作者は「生きている」。

死者は生者とは異なるかたちだが存在している。

この実感は、アランの哲学の根柢を形成している。

アランにとって「読む」とは、それを書いた者、すなわち死者と会い、その声を聴くことだった。


「涙のしずくに洗われて咲きいづるもの」若松英輔著 より