「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

なんとなくの思惟空間

2020-12-16 09:31:59 | でたらめもよい
以下 昔の(と言っても3年前)の記事その2 
3年前の自分のほうが今の自分より自由に発想している!
歳かしら・・と思うと憂鬱になるが、
面白いから自由になれるようにオープンにしようと思う

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行き詰まるとは、空間的に立ちはだかるものがあることを意味している

それでそこでウロウロだらだらしてね

立ちはだかるものの向こう側について色々想像してみたりする

そこでは何を求められているのか考えたり

なんとか…抜け穴とか、ワープとか、方法があるはずなのだ

「立ちはだかるもの」が何か?とか、そもそもそれってあるのか?とか

で、思い付いたのは、そういう風にあれこれ思うことでそこに出来上がる踊り場みたいな空間 それこそが回り扉の新しい通路なんじゃないか?ということ

これからは進むときに通路を作りながら歩くのかもしれない

思考が大事というのは、思考して得られる内容というよりも、思考行為によって出来る空間 のほうが大事なんじゃないか?

これを思惟空間と呼んでみたいと思う

シュタイナーの気迫

2020-12-16 09:16:58 | ゲーテ的世界観の認識論要項
以下、2017年に書いてほったらかしになっていた下書きなのだが
今自由の哲学を読んでいてつながってくる
シュタイナーの気迫と題をつけていたのも今の自分にとって
励ましとなる気がする

13. 認識

認識論によってのみ
「思考が世界の核心である」
という見解に到達できる


認識論=思考と(思考以外の)現実の関連を示す

(思考以外の)とつけるのは、シュタイナー的には思考も現実だから

思考と経験の関係を知るには認識論以外には無い

「ある精神的または感覚的存在=世界の原動力」
ということを知るためには、
その存在と現実の関係を探究しないわけにはいかない


その存在=ある精神的、感覚的存在=人間=世界の原動力

ある事象の本質を見いだそうとする場合
この探究は常に世界の理念内容に立ち戻ることを意味している





表象とは個別化された概念である件

2020-12-16 09:05:22 | 第6章 人間の個体性
なんとかシュタイナーの意図をくみ取ろうと自由の哲学を開いてみる
よくわからないことがあった時
自分の思った疑問は、他の人はどう思ったのだろう?と
すぐにweb上に答えを見つけてしまおうとする
でも同じ疑問を抱く人がいないときはそれが見つからない

人の意識が外界に向かった時
それについて何かを考える場合には
人は内界にも空間を持つと言っていい
外界vs内界の構図がその時に生まれる
でも外界の何かについて考えるのであるから
外界の印象を内界で扱うことになる
隔たっている世界をまたいで、どのように外界は内界に入り込むのか?

その疑問を持つこと自体がなんだか変な気がしてしまう

だが論旨がそのように展開して
知覚内容はうんぬんうんぬんと様々な論客を相手取って
シュタイナーは反駁論を繰り広げた
そして最終的には世界の側から
何かの情報が人の中に入り込んでくるという
その考え方そのものが違うのだという

表象は、その方向からでは
知覚との関係をはっきりさせることは出来ないとのこと

だから別のやり方で、正しい道を行くのだそうだ

表象とは個別化された概念であるという
あんなに表象についての他の説に対して反駁していて
急に今それを言い出されるとびっくりしてしまう

表象とは一定の知覚に関わりを持つ私の直感だ
表象は知覚に従って形成されたもので
観察の瞬間に概念と知覚が提携することで生まれる
概念は、知覚を通じて個別的な形態をとり
この特定の知覚との関りを獲得したと言える

表象は知覚と概念の中間にあって
知覚を指示するような特定の概念だ

その表象を形成する事物の総和を、経験と呼ぶことが出来る


・・だそうだ
なんだ、それを先に言ってはだめだったの?
あまりに長くややこしい反駁に疲れてしまって
少し恨みがましくなってしまう

「指示する」は観察の瞬間にも、これはリンゴだ、ミカンだというように
概念(言葉の)側から指し示すという意味かな
「指示する」ことが含んでいる意味は人間の意識の場での出来事として
意識に対して二つの方向性の力が働いているということだと思う
「見えたものの像」と「それを指示する概念」が
意識に同時に知覚されるときに新たな個別的な表象となる?
こらは人の意識の舞台上での出来事とは言え
意識的に行っているというより、ほとんど無意識に行われていることだろう
何かを見たその瞬間にも、内側(概念の側)からの働きかけがあって初めて
そのものがそのものとして出現するということ?

外から中に入り込むことばかりに気を取られていたのは
シュタイナー自身がそこに注目すると言ったからなのにな

でもその経過を踏んだことで、意識に普段気付かないうちにも働いている
概念というもののあり方をはっきり認識することが出来たのかもしれない
それがシュタイナーの意図なら、それを理解できてよかった
(そうかどうか、確信が持てないけれど)

知覚内容は外界からのものだけではないから
知覚も二つの方向性があることになる
その知覚が瞬時に同時に可能だということ

ゲーテに近づいてきた気がする

おさらい ↓

表象は外から与えられた知覚像だとばかり考えてきたが
実は内界(概念)からの働きも加わって形成されたもので
私が出会った個々の事物に対応した個別的な概念である
それが蓄積すると自分の経験値となる

表象が概念だとすると・・

2020-12-14 11:07:39 | 第6章 人間の個体性
「自由の哲学」の序で
この本の中でまずは抽象的な概念の世界
エーテルの国に入って
概念の鋭角的な輪郭付けを行うと言い
また、どこで見たのか忘れたが
この本の中では思考が有機的に発展していると
シュタイナー自身が言っているのだが
それはいったいどんな輪郭なのか
どう有機的なのかということを
なんとか見つけながら読んでいきたいと思っているけれど
まだよくわからない
彼自身の考えの道筋を自分も辿ろうとする
でも途中で行方不明に(私自身が)
すぐにわからないことも面白がって
さらに呑気に読んでみようと思った

昨日少し記事を書いて
朝起きてみると、あ、そうか、昨日書いたことは少し違うと
頭の中で何かが起きて、私にその内容が流れてきた

人間の表象がいかに頼りないものか
知覚器官や環境の条件に左右され
それについて人間のイメージすることなど
信頼するに足らない
ましてやさらに抽象的な意味づけなど
まったく学問的に扱うべき分野ではない
そういう考えは今日でも主流だ

しかし人間の持つ表象は
単に外から与えられただけのものではなくて
人間の内部からの価値づけがすでに行われているからこそ
表象となりうる
ということは
それに対してどのような意味があるのだろう?

と、自分も問うてみる・・
こんがらがってくるのは知覚内容、表象・・
感覚器官、概念・・外界から、内界から
もう一度整理、確認してみよう
自分の言葉にしてみたことで
間違いも発見しやすくなるといいな

久しぶりすぎる「自由の哲学」 

2020-12-11 11:44:21 | でたらめもよい
久しぶりもいいところで、自由の哲学を開いてみると
前よりわかる気がするところもあれば
わかったけれどシュタイナーはこの論理で大丈夫なのだろうか?と
思うところもあったり
これはシュタイナーが言い出したというより
他の人が前に言っていたことでは・・と思うところもあったりする

結局全部の哲学者の言ったことを理解しきれず
断片で判断しているだけだ

そもそも、彼の言っている自由とは
どのような意味合いのものなのかも
あらためてわからなさが増している

わからないことだらけ
それだけは間違いない
でもすぐにわかってしまうのもつまらないから
ちょっとずつわかっていけばよい
ということに、今はしておこう

それより、なかなか難しい論戦を一生懸命行っていると思われるシュタイナーに
そのエネルギーを生きた証のように身近なものに感じることが出来るのは
自分が年を取ったからかな

そんなこんなで
また少し取り組んでみようと思う