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【日曜特集】第14旅団創設6周年-善通寺駐屯地祭【2】旅団観閲行進開始(2012-04-29)

2019-02-10 20:09:18 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■第14旅団長永井昌弘陸将補
 第14旅団長永井昌弘陸将補による整列した旅団及び駐屯地駐屯部隊の部隊巡閲と訓示に続き来賓祝辞と祝電披露が完了、いよいよ観閲行進準備の号令がかかりました。

 善通寺第14旅団、中部方面隊隷下旅団で第15普通科連隊、第50普通科連隊、第14特科隊、第14戦車中隊、第14偵察隊、第14高射特科中隊、第14施設中隊、第14通信中隊、第14化学防護隊、第14後方支援隊、第14飛行隊、第14音楽隊など、を基幹とする。

 善通寺駐屯地創設62周年記念行事、善通寺駐屯地の歴史は非常に長いのですが当方にとっては初めての駐屯地、撮影位置を選定するにあたって初めての駐屯地というのは言い換えれば周りの多くの方のご近所で馴染みの駐屯地、ベテランぞろいへ単機進出したかたちだ。

 第14旅団記念行事、折角部隊も休日を式典として駐屯地を開放してくれましたので良い写真を仕上げたい。中部方面混成団隷下部隊の整列と合せ、指揮官巡閲と観閲行進準備の号令がかかると共に、式典も行進も良好な撮影環境といえ、この撮影位置は良かったと思う。

 四国善通寺の善通寺駐屯地はJR善通寺駅から駐屯地へ向かう道程に旧陸軍第十一師団時代の遺構や広大な師団本営の名残が垣間見えまして、弘法大師空海所縁の善通寺の伽藍に隣接する善通寺駐屯地も師団駐屯地並に広大である、ということは前回も紹介しました。

 軍都、という響きが今日的に有する意味合いと響きについては様々な考察があり得るでしょうが、善通寺も日本にいくつか挙げられる軍都の一つである事は市街地の形成とともに第三キャンプ地区に残る旧陸軍第十一師団司令部庁舎、現在の駐屯地資料館に垣間見える。

 第十一師団司令部時代には創設当初、もう少し師団司令部という事で華美な調度品と豪華な装飾品が並んでいたとの事ですが、乃木希典中将は軍事施設に豪華絢爛は不要として、一つだけを除いて華美な調度品と装飾品を司令部庁舎から撤去させた、と伝わっています。

 師団司令部に唯一輝きを放っていたのは菊の御紋章で、この一つを例外として質実剛健の装いとしたと伝わる。乃木希典は陸軍大将として日露戦争で第三軍を指揮し旅順攻防戦で知られる指揮官で、その質素倹約と質実剛健が今日に伝わる通りの歴史といえるでしょう。

 乃木希典、調べれば調べる程に、実は人間味溢れる人格者として好きになります。数ある自衛隊行事の中で善通寺駐屯地祭へ行った理由の一つは乃木大将かもしれない。もう一つは、千僧駐屯地にて四国出身の方に善通寺駐屯地も凄いですよ、とお勧め頂いた御縁から。

 幕末慶応長州征討では山縣有朋奇兵隊指揮下で幕府軍の大軍を相手に巧みに戦い、慶応年間には命令により伏見御親兵兵営での仏式軍事教練を受ける、当時はナポレオン三世の厚意にて日本は大陸軍式の教練を採用しつつあるところで、明治二年に陸軍少佐を拝命する。

 熊本鎮台歩兵第十四連隊長として明治8年の秋月の乱鎮定を主導します。しかし、大河ドラマ“せごどん”で改めて注目された西郷隆盛の西南戦争にて乃木連隊長は大敗を喫してしまいます、第十四連隊駐屯地は小倉、不穏情勢受け即座に熊本へ向かうも少々遅かった。

 第十四連隊は熊本鎮台籠城部隊へ合流するべく急ぐ最中、熊本城熊本市植木町にて西郷軍と遭遇、連隊長以下200名の部隊は400名の薩軍と激戦となり、その最中に連隊旗手が戦死、結果連隊旗を奪われてしまうのですね。日本史上、連隊旗を奪われたのはこの時のみ。

 連隊旗といいますと自衛隊では連隊に付与される部隊旗の一つですが、旧軍においては戦車連隊や砲兵連隊に騎兵連隊には連隊旗は無く、歩兵連隊のみが天皇より連隊創設と共に下賜され連隊長と共に日本陸軍の象徴として掲げられたという、それはそれは凄い重みが。

 連隊旗手は優秀な新任少尉が担い、万一敵の手に奪われる危機に際しては奉焼、つまり焼いてしまい、奪われないようにしました。現在のスポーツ優勝旗の旗竿が槍のように鋭利に仕立てられる由来も、万一にも奪われぬように時には短槍として使う為の配慮の名残り。

 田原坂の戦いという西南戦争一つの天王山となった戦いは植木町での遭遇線と共に形成された戦線において展開し、第十四連隊は連隊旗を奪われるほどの激戦ながら良く防戦し、乃木連隊長は負傷を圧して増援と共に徐々に薩軍を潰走させ、熊本城包囲を解きました。

 連隊旗奪われる、これは相当に堪えたらしく乃木連隊長は東京歩兵第一連隊長を命じられるも、理想の軍人像を失したままに新橋領国の料亭通いという放蕩を尽くし、戦術は単調で、佐倉歩兵第二連隊との対抗演習では側面機動の奇襲を受け惨敗したという歴史もある。

 児玉源太郎が第二連隊長であったということで、CGS陸上自衛隊指揮幕僚課程の玄関に肖像が掲げられる児玉源太郎と乃木の繋がりが垣間見えます。二人は日露戦争の旅順攻防戦で共に戦うと共に、先の西南戦争では熊本鎮台にて連隊長と鎮台参謀長という関係でした。

 ドイツ軍参謀総長カール-ベルンハルト-フォン-モルトケとの出逢い、政府から命じられたドイツ留学においてこの世界軍事史上の最良の出逢いが乃木を変えたといわれていまして、野外要務令としてドイツが当時進めていた初級指揮官教育課程の重要性を説かれたという。

 ナポレオン三世の派遣した軍事顧問団の教育を受け明治天皇の下で西郷隆盛を相手に戦い、カール-ベルンハルト-フォン-モルトケに直接軍人教育の在り方を説かれ山縣有朋は直属上官で児玉源太郎は生涯の戦友、なんというか、明治時代とは、凄い時代だったのですねえ。

 綱紀粛正質実剛健、乃木希典の理想像はここに固まったといえまして、日清戦争前には先の遊興とは程遠い生活とともに軍服を着用し粗食に耐え、騎馬にて隷下部隊の訓練を毎日視察するという、現代では乃木神社に祭られる程の人物像が醸成されていったといいます。

 日清戦争では東京歩兵第一旅団長として大陸へ出征し旅順要塞を即日攻略、蓋平会戦では包囲された友軍第三師団を敵包囲の間隙を運動戦で突き瓦解させる巧みな戦術を発揮、この勲功が評価され第二師団長を拝命、下関条約の後の台湾乙未戦争を制し初代総督となる。

 台湾総督としては過度な質実剛健を強いた事で殖産産業として東京が進める工業化政策に固執と云えるほどの公正を要求し産業開発や軍閥宣撫工作が進まず、結果的に辞任します。しかし、公正と綱紀はその後の台湾価値観を変え、今日までの日台関係基礎を築きました。

 第十一師団新編とともに初代師団長に任命された乃木中将は、毎日隷下部隊訓練を視察し、騎馬にて隷下部隊の丸亀駐屯地や高松駐屯地などを廻ったという。簡単に聞こえますが、善通寺から毎日丸亀と高松を廻る事、鉄道ではなく騎馬で行き来は非常に長距離といえる。

 太平洋戦争開戦時には満州駐屯、ソ連の満州侵攻に備え訓練を重ねていましたが、戦局の悪化と共に連合軍の本土進攻が現実的な課題となり、1945年4月に師団創設の地四国善通寺へと戻る事となりました。この当たりの歴史については第14旅団資料館の展示に詳しい。

 師団はその後太平洋戦争終戦まで残り、師団から派遣された三個大隊がグアム島攻防戦に派遣され、全滅するまで戦い抜いたことが戦史に記されています。駐屯地に隣接し香川護国神社が五岳山を駐屯地と共に遥拝していまして、当時の厳しい歴史を現代に伝えている。

 丸亀歩兵第十二連隊、徳島歩兵第四十三連隊、高知歩兵第四十四連隊、騎兵第十一連隊、山砲兵第十一連隊、工兵第十一連隊、輜重兵第十一連隊、第十一師団通信隊、第十一師団制毒隊、第十一師団野戦病院、第十一師団防疫給水部、第十一師団病馬廠、が基幹部隊だ。

 第二次世界大戦の日本敗戦とともに四国はイギリス軍が進駐軍として展開しました。旧軍施設の中でも第十一師団施設は終戦時の荒廃も無くイギリス軍が丁寧に接収した事が今日の施設から見て取れる、という事なのでしょうか。残る赤煉瓦倉庫群は1909年のものです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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2 コメント

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Unknown (パラベラム9)
2019-02-11 20:14:49
私は徳島県出身なので、第14旅団の記事が出たのは嬉しいです。
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よろしくです (はるな)
2019-02-12 22:54:51
旅団祭特集は始まったばかり、今後ともよろしくです
返信する

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