■三〇〇年-今の京都へ
大きな寺院ももとは小さな庵というのは京都では当たり前の出来事なのですが、その今日に至るまでの歴史の流れに中々感じ入るものが多いのです。
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立本寺。京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町に在ります隠れた桜花の名所は、静かな観桜を好まれる方には、じっと座って春の訪れを愛でるに適したところです。しかし寺域の風情風景は落ち着いているのですが、その歴史は波乱万丈というものなのですね。
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日蓮の弟子日像が開山となりました御寺は、御溝傍今小路といういまの上京区あたりに妙顕寺は、小庵として始まったという。ここは日蓮宗最初の寺院ともいわれまして、今でこそ後に公武の帰依というかたちで後醍醐天皇の勅願所ともなっているのですが、さてさて。
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日像は下総国の出身、建治元年の西暦1275年に出家しました、日蓮とは実兄の日朗が子弟関係にあり、兄が兄弟子という。そして日蓮との出会いから直弟子となりまして経一丸の法名を授けられます、日蓮宗は辻説法という街に出て活動し救いを広める新しいものです。
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辻説法は、なにしろ社会保障も福祉の概念も無く身分格差だけが存在した中世の時代です、仏僧は安穏と寺に籠り修行と称して読経と食事に明け暮れてよいのかという焦りがあり、大覚寺の僧大覚の帰依を受ける等、日蓮の直弟子としての日像は共に歩む人が増えました。
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延暦寺、東寺、仁和寺、南禅寺、相国寺、知恩寺、錚々たる寺院の名は、逆に辻説法は邪道であるとして圧力を加えたものなのですが、とうとう朝廷に訴追され京都を追放され、これは三年間に及びますが、帰京後も再度訴追を受け後醍醐天皇より綸旨を賜るまで続く。
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後醍醐天皇より綸旨を賜りましたが、あわせて寺領を下賜され、こうしていまの立本寺へと繋がる寺院が造営されてゆきますが、幾度も遷座を重ねます。それでもその都度再興するというのは、やはり町衆に寄り添う新しい信仰の在り方が、寄る辺となったのでしょう。
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四条櫛笥こと四条大宮に遷りましたのは暦応4年こと西暦1341年のこと、しかしあの日蓮宗ですので嘉慶元年こと西暦1387年、比叡山の僧徒による攻撃を受け破却されます。再建成ったのは明徳4年こと西暦1393年、三条坊門堀川という今の二条城あたりなのでした。
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妙本寺、再建に際しては妙顕寺龍華院という塔頭から名を妙本寺と改めたのですが、応永20年こと西暦1413年、またしても比叡山の攻撃を受け破壊されます、応永23年こと1416年、今度は本応寺と号し再建します、名前を変えて比叡山の目につかない様に、という。
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四条櫛笥に寺院を再建したのは日実という僧侶なのですが、しかし此処で対立が、応永20年に比叡山の攻撃を受けた際の門主は五世月明となっていて、北の丹波に逃れていました。五条大宮に妙本寺を再興しました月明は、勝手に再建した本応寺との間で摩擦を引き起す。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/ee/17ae8e7c8c034315bac43e621f51ebda.jpg)
立本寺と称するようになりましたのはこの頃と云う。しかし四条櫛笥というと四条通沿いになるのだから此処は上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町、全然場所が違うじゃあないか、と思われるかもしれません。そうです、またしても焼けてしまう歴史なのですね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/af/7b0dee6eb5138b5f4a8f38f87acca386.jpg)
天文法華の乱、天文5年こと西暦1536年に法華宗寺院とともに破壊され京都から一掃されました。後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下したのは天文11年、二年後の天文13年に今度は新町三条に再建されました。今度は焼けなかったのですが文禄3年こと1594年には。
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京都大改造という豊臣秀吉の変革により寺町今出川という今の同志社大学当たりの好立地へ移転しました。ただ、ここは宝永5年こと西暦1708年、宝永の大火の貰い火を受けてしまいます、こうして現在の位置に遷ったのですが、それから三百余年は当地にあります。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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大きな寺院ももとは小さな庵というのは京都では当たり前の出来事なのですが、その今日に至るまでの歴史の流れに中々感じ入るものが多いのです。
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立本寺。京都市上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町に在ります隠れた桜花の名所は、静かな観桜を好まれる方には、じっと座って春の訪れを愛でるに適したところです。しかし寺域の風情風景は落ち着いているのですが、その歴史は波乱万丈というものなのですね。
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日蓮の弟子日像が開山となりました御寺は、御溝傍今小路といういまの上京区あたりに妙顕寺は、小庵として始まったという。ここは日蓮宗最初の寺院ともいわれまして、今でこそ後に公武の帰依というかたちで後醍醐天皇の勅願所ともなっているのですが、さてさて。
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日像は下総国の出身、建治元年の西暦1275年に出家しました、日蓮とは実兄の日朗が子弟関係にあり、兄が兄弟子という。そして日蓮との出会いから直弟子となりまして経一丸の法名を授けられます、日蓮宗は辻説法という街に出て活動し救いを広める新しいものです。
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辻説法は、なにしろ社会保障も福祉の概念も無く身分格差だけが存在した中世の時代です、仏僧は安穏と寺に籠り修行と称して読経と食事に明け暮れてよいのかという焦りがあり、大覚寺の僧大覚の帰依を受ける等、日蓮の直弟子としての日像は共に歩む人が増えました。
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延暦寺、東寺、仁和寺、南禅寺、相国寺、知恩寺、錚々たる寺院の名は、逆に辻説法は邪道であるとして圧力を加えたものなのですが、とうとう朝廷に訴追され京都を追放され、これは三年間に及びますが、帰京後も再度訴追を受け後醍醐天皇より綸旨を賜るまで続く。
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後醍醐天皇より綸旨を賜りましたが、あわせて寺領を下賜され、こうしていまの立本寺へと繋がる寺院が造営されてゆきますが、幾度も遷座を重ねます。それでもその都度再興するというのは、やはり町衆に寄り添う新しい信仰の在り方が、寄る辺となったのでしょう。
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四条櫛笥こと四条大宮に遷りましたのは暦応4年こと西暦1341年のこと、しかしあの日蓮宗ですので嘉慶元年こと西暦1387年、比叡山の僧徒による攻撃を受け破却されます。再建成ったのは明徳4年こと西暦1393年、三条坊門堀川という今の二条城あたりなのでした。
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妙本寺、再建に際しては妙顕寺龍華院という塔頭から名を妙本寺と改めたのですが、応永20年こと西暦1413年、またしても比叡山の攻撃を受け破壊されます、応永23年こと1416年、今度は本応寺と号し再建します、名前を変えて比叡山の目につかない様に、という。
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四条櫛笥に寺院を再建したのは日実という僧侶なのですが、しかし此処で対立が、応永20年に比叡山の攻撃を受けた際の門主は五世月明となっていて、北の丹波に逃れていました。五条大宮に妙本寺を再興しました月明は、勝手に再建した本応寺との間で摩擦を引き起す。
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立本寺と称するようになりましたのはこの頃と云う。しかし四条櫛笥というと四条通沿いになるのだから此処は上京区七本松通仁和寺街道上ル一番町、全然場所が違うじゃあないか、と思われるかもしれません。そうです、またしても焼けてしまう歴史なのですね。
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天文法華の乱、天文5年こと西暦1536年に法華宗寺院とともに破壊され京都から一掃されました。後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下したのは天文11年、二年後の天文13年に今度は新町三条に再建されました。今度は焼けなかったのですが文禄3年こと1594年には。
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京都大改造という豊臣秀吉の変革により寺町今出川という今の同志社大学当たりの好立地へ移転しました。ただ、ここは宝永5年こと西暦1708年、宝永の大火の貰い火を受けてしまいます、こうして現在の位置に遷ったのですが、それから三百余年は当地にあります。
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