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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】法然院,浄土宗単立寺院である法然院-思考の探索とそこには芯となる思考が要る

2023-11-16 07:01:14 | 写真
■静けさの法然院
 鹿ケ谷にある法然院で防衛備忘録などの構想を練っていると話しましたら鹿ケ谷だけに何か陰謀めいていますねと云われてしまいます。

 法然院、実はここは腰かける場所が、ご本堂は公開されていませんので方丈縁側とか、堂々と陣取るのではなくそっと腰かける程度の場所しかなく、あとは寺院の事務用駐車場の長椅子くらいで長時間居つく寺院ではないのですが、長居してしまう寺院という。

 茅葺数奇屋造の山門から始まって、いまの紅葉の季節だからこそ多少は往来があります寺院なのですけれども、青椛と椛が漸く冬支度を始める頃合いまでは、これこそ静寂、というものがありまして、そこから思考の探索を進めるには素晴らしい寺院なのです。

 思考の探索、といいますが結局のところ、雑念という一括りではなく、わたしが撮影する様々なものの考察の角度には、機械的に事実の羅列だけを百科事典のように溢れさせるだけでは文字羅列を文章として成立させられません、そこには芯となる思考が要る。

 浄土宗単立寺院である法然院、そして気づかされたのは、金戒光明寺も知恩院も浄土宗大本山がそう遠くない場所に敢えて江戸時代に、塔頭寺院ではなく単立寺院として法然院が造営された背景です、ここを歴史で紐解けば、静けさの理由がわかる、成程、と。

 萬無さん、此処に法然院を、と思い立ちましたのは知恩院三八世の萬無さんという方でして、時代は上記の通り江戸時代、そして浄土宗というのは徳川幕府には三河一向一揆などの所縁もあり、幕府としてはその実力と共存を選んだという経緯があるのですが。

 知恩院はいまも堂々たる三門を構えていまして、なにより高台から京都を俯瞰しています。これには幕府のもう一つの意図があり、知恩院の始まりは吉水草庵という、まあこの法然院と同じくらいの、法然さんと語り合う草庵がその始まりであったのですけれど。

 京都一望というのは、その眼下に御所を含めているわけでして、幕府は自ら朝廷を示威するのではなく、浄土宗の威光を支えることで、知恩院が御所も俯瞰風景に収めることで示威することとし、直接の対立を避けた背景があり、故に知恩院は巨大化しました。

 吉水草庵、もともと浄土宗教団は信徒の多さから最大規模の影響力を誇るよう成りましたが、大きすぎることが目的でない事は法然さんの足跡を辿れば気づかされることでして、萬無さんからみても、六時礼讃行が形だけになっているようにおもえたのか、なと。

 阿弥陀如来坐像をご本尊としまして奉じる小さな庵を建てて、六時礼讃行に邁進する本来の姿に回帰したい、法然院は江戸時代にそうした願いから生まれたところでありまして、念仏道場として、門弟の忍澂とともにひらいたのが、この法然院、なのですね。

 哲学の道もほど近い、すると思考の探索というには最適な立地ではある。故にここが静けさの寺院という表現で考えますのは、その歴史的経緯を考えれば正しいものでして、そしてこの直ぐ降りたところには哲学の道が広がる、それは滔々と続いています。

 朱筆発祥の地、法然院さんは六時礼讃行回帰の寺院として開山、いや法然さんの時代から経て中興したというべきなのでしょうが、もう一つ、江戸時代には経典の誤字脱字を正す役割も担ったといい、誤字脱字には朱筆で赤線と赤く訂正を入れた、という。

 文字を文章とする過程では、この朱筆というものは若干怖くもある誤字脱字なのですけれども、法然院さんの経蔵にもう一度一礼しまして、お山を下りることとしました。夏の猛烈な熱さは異常でしたが、秋を飛ばした様な寒さも異常、紅葉の季節を待ちつつね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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