北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】二条城,南海トラフ地震臨時情報に関東大震災101年目と耐震補強成ったこの夏の京都の二条城

2024-09-11 20:23:30 | 写真
■関東大震災101年
 防災の日の話題とともに。実は技術的問題からこの記事は防災の日に近い先週に掲載する予定の記事が遅延となったという事情があります。

 防災の日、この日を忘れていたわけではないのですが、政府防災訓練も台風10号接近により中止されるというさなかにあって、関東大震災から101年目という節目の日にも若干その存在感の軽さを感じていいたところです、が災害のリスクというものは認識していまして、いや実感している。

 関東大震災から101年、そして、現実として例えば首都圏巨大地震を題材にした映画"地震列島"では冒頭に"東京にはこの50年間巨大地震は来ていない"として、次の地震が切迫しているという警鐘を鳴らした映画でしたが、あの映画"地震列島"がもう1980年の、つまり40年以上前の映画だ。

 地震列島、映画では主人公に地震学者を据えて、次の地震が切迫している、と政府に警鐘を鳴らしながら、自信でも得ない自動車の研究をするなど、切迫していたとしてその自動車を普及させるのに何年かかるのだよ、とちょっとシナリオの限界を超えていたような気もしましたが、いい作品でした。

 防災の日に併せて二条城の話題を、と考えていたのですが実際、この二条城では耐震工事が長年行われていました、2005年頃にこの二条城の大名屋敷が震度五強で倒壊の恐れ、という、姉歯物件問題により耐震強度偽装が全国的に問題となった際、姉歯さんと無関係でも調査した結果わかったリスクのひとつ。

 二条城、無事耐震修理が一段落したとのことで、本丸御殿の一般公開が再開されました。耐震工事といいますと、がちがちのH鋼で周りを固めるとか、外見が悪い意味で一新してしまう中にありまして、さすがに現存する唯一の大名屋敷を備えた二条城はまともな、耐震工事となっていました。

 耐震工事、防災の日という現実を再認識しなければならない機会とともに、改めて考えますとわかっているようでわからないことばかり。能登半島地震など今年もすでに、といいますか元日から、災害に見舞われている我が国ですので、そのあり方というものを考えずにはいられない。

 酷暑、そう、考えてみると三週間前までは日本の災害というものは異常気象のほうに意識が向いていまして、二週間前に台風迷走がたい変と書きましたそのあと一週間前は伊勢湾台風や第2室戸台風の再来といわれていましたが、そう、このあたりになりますと、地震、関東大震災を思い出さねば。

 関東大震災、日本列島が大陸外縁弧状列島であるかぎり、この国土は火山性地形故にうまれたものなのですが、どうじにその特性から地震とは不可分の地形でもあります。花折断層が京都市の真下には走っているわけですが、逆断層地震のように活断層に沿って起こる地震も、正断層地震のように活断層を生む地震も。

 古都の防災、と書きますと伝統家屋の多い京都は人口密集地域であると同時に耐震性に限界のある建物が多いこともその特色となっています、そして過去の地震と比較して耐火性は向上しても電化が進んだことで火災への震災時における脆弱性は高まってしまっているのですから、被害を考えると憂鬱に。

 寺社仏閣、文化財の耐震化は進められているというけれども、京都の真下は岩盤ではなく帯水層であるため、揺れの特性も帯水層の軟弱地形として、増幅される懸念がある。過去の歴史地震では洛中では液状化被害の記録がないことは幸いなのですけれども。市域全体の防災の重要性を感じてしまう。

 復旧復興、もう一つ考えるのは都市の景観というものを留意し、そのときが来てしまい、それなりに大きな被害が出たときの復興を、どのように震災前の水準に戻すのかという事前計画が絶望的に立てにくい、ということが。復興住宅として中層アパートを大量建築してしまうと、都市の景観が変わってしまう。

 復興について、これは京都だけにかかわらないのですが、大規模半壊と全壊建築物について、倒壊した建物を戻すことは難しい、ということならば理解するのですが、全壊したが倒壊していない建物の復旧を建て替え以外に安価に実現させる工法を、これから我が国では検討してゆかねば、と思うのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】二条城,二条武衛陣の御構えは宮城事件に至る行政中枢の城塞化という日本文化と価値観の原点

2024-09-11 20:00:45 | 写真
■二条城の歴史
 撮影は八月後半に散策した際なのですがなんで今も熱いのだろうかと思うのは気候変動というかなんというか。

 元離宮二条城、逃げ場のない京都の暑さの一丁目一番地は何処だろうと誰も得しない事を考えていましたならば、自然と古都の中心部が思い浮かびました。そして二条城の耐震工事が終わったという報道もありましたので、この話題とともに探訪した情景を。

 徳川家康が江戸時代へと至る慶長年間に京都における拠点として造営した城郭、それがこの二条城です。ただ、歴史を紐解きますと二条城は幾つもあり、いや実は洛外を含めて京都には調べると案外驚くほど城郭が造営されていて、少し調べるだけで驚くのだが。

 足利義輝の御所、二条城という名称が歴史に初めて出てきますのは、そんな歴史に在っても案外新しく、室町幕府13代将軍足利義輝の御所として造営された城郭が始まりです。幕府管領斯波氏の邸宅である武衛陣という堅固な邸宅を改造して造営されたという。

 二条武衛陣の御構え、としまして応仁の乱を終え揺動期の幕府に基盤固め、なにか大阪の西成警察署のような発想、こう思い立ち、応仁の乱で最初に焼かれた花の御所のようなことの無いよう、防御力にかなり思い切った割り切りを行った政治中枢となった。

 永禄の変、しかしこの二条城は完成寸前、三好三人衆に襲撃されて焼かれるという永禄の変が起きます。すると、完成前に焼けているのだから初代二条城、と表現するのも若干気後れするのですが、未成でも二条城として計画されたのだから、と言い訳してみる。

 武家の統領たる将軍は御城に住まう、さて、ここ重要なのは江戸時代であれば江戸城、時代劇などではしばしば姫路城が代役を担うのだけれども、将軍が城郭に、というのは鎌倉時代では無かったことでした。鎌倉が一種の総構えであったのはさておき。

 江戸城など、いや天下人という意味では短期間ではあったが大坂城も含めるべきなのか、行政中枢がある程度防衛を考えた城郭に住まう、という伝統は此処から生まれたのかもしれません。それは脆弱な行政機構という室町時代の産物ではあるのだけれども。

 宮城事件。いきなり四百年近く話を飛ばすのですけれども、熱かった八月の記憶がまだ確かですので、終戦記念日に起きました一部将校の決起事件に話を飛ばしますと、結局、終戦の玉音放送を録音したレコードが奪われなかったのは場所が場所だったため。

 第二次世界大戦の無条件降伏に反対した一部部隊、近衛師団の一部や横浜警備隊と水戸航空士官学校一部による東京の皇居占拠や首相官邸襲撃事件、その総称である宮城事件がありましたが、あの時、昭和天皇の終戦の詔勅を録音したレコードが狙われた。

 玉音盤、ただ、上記の通りこの最初の二条城以来、政権中枢は防御を強化する、という鎌倉時代や、室町時代の花の御所焼失からの反省が江戸城にも反映されていたわけでして、いわば遥か時を超えてですが、第二次大戦の終戦を実現したのかな、と考える。

 国会議事堂も、先ず強度からして艦砲に耐えるということですが、外周に柵がある。アメリカ連邦議会議事堂襲撃事件を見ても判る通り、各国議会議事堂は開かれている必要性から柵さえないところが多い、日本の場合は、開かれるよりも守りを重視している。

 京都には日本の価値観や常識の源流になった基点が多いという、散策の旅に何か実感する事が多いのですけれども、行政中枢は開放よりも防御という保守的、いや防守的な日本の、他社への不信感という裏返しはあるのですが、価値観の源流を見た思いがしました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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9.11アメリカ本土同時多発テロから23年-台湾海峡とウクライナに続く世界の混沌分岐点の原点

2024-09-11 07:00:37 | 国際・政治
■鎮魂9.11
 本日はアメリカと世界にとり鎮魂の祈りの日です。あの日から大きく転換すると共にあの日を起点に大きう運命のかわった最中での方々への鎮魂の願いも込めて。

 本日でアメリカ同時多発テロから23年となります。世界貿易センタービルはアメリカ映画などで幾度も描かれ、ニューヨークの象徴的な風景となると共に、昨今のCGを多用した映画では市街地の情景を省くところも多く、文化的に見れば、あの高層ビルがもうないのだ、と考えますと、時代を感じると共に、もう23年なのか、という驚きもあります。

 インド洋対テロ給油支援、海上自衛隊は先ず第一次は県として護衛艦くらま主体の補給艦部隊を、続いて護衛艦はるな主体の補給艦部隊を派遣、これにより日本の安全保障環境は本土決戦主義から国際公序維持へのステイクホルダーとして変革の端緒を歩み、危機管理を神学論争から現実主義へと転換させる入口に至りました。ただしかし、なのですが。

 中東からのアメリカ影響力を排除する事を狙い行われたテロ組織アルカイダにより行われた同時多発テロ、その後の情勢変化もあり中東からは米軍基地の多くが撤収した事でシリアにはロシア軍が展開し、ISILイスラミックステイトの武装勢力が拠点化、結果的にミクロ的問題とマクロ的問題を同一視したことは現代の中東と世界の混乱に拍車をかけました。

 アメリカはあの同時多発テロを契機としてテロとの戦いを宣言、有志連合を組みアフガニスタンとイラクのテロ勢力掃討に乗り出しました、社会主義革命を経て建国されたイラクとイスラム原理主義の関係をどう受け止めたのかが、当時のアメリカの政策決定には疑問符は残るのですが、戦車から耐爆車両へ、駆逐艦から沿海域戦闘艦へ、戦力転換が進んだ。

 テロとの戦いが20年にもわたり継続されると共に、アメリカと有志連合をくん国々の多くは軍事機構を対テロ任務へ転換させてゆき、2010年代に気付けば沿海域戦闘艦は十数年で近代化度合いも規模もけた違いに増強された中国海軍の駆逐艦に対抗出来ず、2020年代に気付けば対テロ用装備は戦車を中心としたロシアのウクライナ侵攻に打つ手なしという。

 世界の混沌たる状況、その転換点は間違いなく2001年9月11日のあの瞬間、世界貿易センタービルと国防総省に乗客もろともハイジャック機が体当たり加えたあの瞬間です。その影響は、アメリカのポテンシャルに影響するとともに、今日の台湾海峡や南シナ海の緊張とウクライナでの戦争に続いている、23年目の今日、改めて鎮魂の日としたいものです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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