■二条城の歴史
撮影は八月後半に散策した際なのですがなんで今も熱いのだろうかと思うのは気候変動というかなんというか。
元離宮二条城、逃げ場のない京都の暑さの一丁目一番地は何処だろうと誰も得しない事を考えていましたならば、自然と古都の中心部が思い浮かびました。そして二条城の耐震工事が終わったという報道もありましたので、この話題とともに探訪した情景を。
徳川家康が江戸時代へと至る慶長年間に京都における拠点として造営した城郭、それがこの二条城です。ただ、歴史を紐解きますと二条城は幾つもあり、いや実は洛外を含めて京都には調べると案外驚くほど城郭が造営されていて、少し調べるだけで驚くのだが。
足利義輝の御所、二条城という名称が歴史に初めて出てきますのは、そんな歴史に在っても案外新しく、室町幕府13代将軍足利義輝の御所として造営された城郭が始まりです。幕府管領斯波氏の邸宅である武衛陣という堅固な邸宅を改造して造営されたという。
二条武衛陣の御構え、としまして応仁の乱を終え揺動期の幕府に基盤固め、なにか大阪の西成警察署のような発想、こう思い立ち、応仁の乱で最初に焼かれた花の御所のようなことの無いよう、防御力にかなり思い切った割り切りを行った政治中枢となった。
永禄の変、しかしこの二条城は完成寸前、三好三人衆に襲撃されて焼かれるという永禄の変が起きます。すると、完成前に焼けているのだから初代二条城、と表現するのも若干気後れするのですが、未成でも二条城として計画されたのだから、と言い訳してみる。
武家の統領たる将軍は御城に住まう、さて、ここ重要なのは江戸時代であれば江戸城、時代劇などではしばしば姫路城が代役を担うのだけれども、将軍が城郭に、というのは鎌倉時代では無かったことでした。鎌倉が一種の総構えであったのはさておき。
江戸城など、いや天下人という意味では短期間ではあったが大坂城も含めるべきなのか、行政中枢がある程度防衛を考えた城郭に住まう、という伝統は此処から生まれたのかもしれません。それは脆弱な行政機構という室町時代の産物ではあるのだけれども。
宮城事件。いきなり四百年近く話を飛ばすのですけれども、熱かった八月の記憶がまだ確かですので、終戦記念日に起きました一部将校の決起事件に話を飛ばしますと、結局、終戦の玉音放送を録音したレコードが奪われなかったのは場所が場所だったため。
第二次世界大戦の無条件降伏に反対した一部部隊、近衛師団の一部や横浜警備隊と水戸航空士官学校一部による東京の皇居占拠や首相官邸襲撃事件、その総称である宮城事件がありましたが、あの時、昭和天皇の終戦の詔勅を録音したレコードが狙われた。
玉音盤、ただ、上記の通りこの最初の二条城以来、政権中枢は防御を強化する、という鎌倉時代や、室町時代の花の御所焼失からの反省が江戸城にも反映されていたわけでして、いわば遥か時を超えてですが、第二次大戦の終戦を実現したのかな、と考える。
国会議事堂も、先ず強度からして艦砲に耐えるということですが、外周に柵がある。アメリカ連邦議会議事堂襲撃事件を見ても判る通り、各国議会議事堂は開かれている必要性から柵さえないところが多い、日本の場合は、開かれるよりも守りを重視している。
京都には日本の価値観や常識の源流になった基点が多いという、散策の旅に何か実感する事が多いのですけれども、行政中枢は開放よりも防御という保守的、いや防守的な日本の、他社への不信感という裏返しはあるのですが、価値観の源流を見た思いがしました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
撮影は八月後半に散策した際なのですがなんで今も熱いのだろうかと思うのは気候変動というかなんというか。
元離宮二条城、逃げ場のない京都の暑さの一丁目一番地は何処だろうと誰も得しない事を考えていましたならば、自然と古都の中心部が思い浮かびました。そして二条城の耐震工事が終わったという報道もありましたので、この話題とともに探訪した情景を。
徳川家康が江戸時代へと至る慶長年間に京都における拠点として造営した城郭、それがこの二条城です。ただ、歴史を紐解きますと二条城は幾つもあり、いや実は洛外を含めて京都には調べると案外驚くほど城郭が造営されていて、少し調べるだけで驚くのだが。
足利義輝の御所、二条城という名称が歴史に初めて出てきますのは、そんな歴史に在っても案外新しく、室町幕府13代将軍足利義輝の御所として造営された城郭が始まりです。幕府管領斯波氏の邸宅である武衛陣という堅固な邸宅を改造して造営されたという。
二条武衛陣の御構え、としまして応仁の乱を終え揺動期の幕府に基盤固め、なにか大阪の西成警察署のような発想、こう思い立ち、応仁の乱で最初に焼かれた花の御所のようなことの無いよう、防御力にかなり思い切った割り切りを行った政治中枢となった。
永禄の変、しかしこの二条城は完成寸前、三好三人衆に襲撃されて焼かれるという永禄の変が起きます。すると、完成前に焼けているのだから初代二条城、と表現するのも若干気後れするのですが、未成でも二条城として計画されたのだから、と言い訳してみる。
武家の統領たる将軍は御城に住まう、さて、ここ重要なのは江戸時代であれば江戸城、時代劇などではしばしば姫路城が代役を担うのだけれども、将軍が城郭に、というのは鎌倉時代では無かったことでした。鎌倉が一種の総構えであったのはさておき。
江戸城など、いや天下人という意味では短期間ではあったが大坂城も含めるべきなのか、行政中枢がある程度防衛を考えた城郭に住まう、という伝統は此処から生まれたのかもしれません。それは脆弱な行政機構という室町時代の産物ではあるのだけれども。
宮城事件。いきなり四百年近く話を飛ばすのですけれども、熱かった八月の記憶がまだ確かですので、終戦記念日に起きました一部将校の決起事件に話を飛ばしますと、結局、終戦の玉音放送を録音したレコードが奪われなかったのは場所が場所だったため。
第二次世界大戦の無条件降伏に反対した一部部隊、近衛師団の一部や横浜警備隊と水戸航空士官学校一部による東京の皇居占拠や首相官邸襲撃事件、その総称である宮城事件がありましたが、あの時、昭和天皇の終戦の詔勅を録音したレコードが狙われた。
玉音盤、ただ、上記の通りこの最初の二条城以来、政権中枢は防御を強化する、という鎌倉時代や、室町時代の花の御所焼失からの反省が江戸城にも反映されていたわけでして、いわば遥か時を超えてですが、第二次大戦の終戦を実現したのかな、と考える。
国会議事堂も、先ず強度からして艦砲に耐えるということですが、外周に柵がある。アメリカ連邦議会議事堂襲撃事件を見ても判る通り、各国議会議事堂は開かれている必要性から柵さえないところが多い、日本の場合は、開かれるよりも守りを重視している。
京都には日本の価値観や常識の源流になった基点が多いという、散策の旅に何か実感する事が多いのですけれども、行政中枢は開放よりも防御という保守的、いや防守的な日本の、他社への不信感という裏返しはあるのですが、価値観の源流を見た思いがしました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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