北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】瀧尾神社,麒麟が来る龍は待つ百貨店大丸創業者下村彦右衛門正啓と久遠の縁

2024-09-04 20:20:43 | 写真
■京都東山歴史街道をあゆむ
 京都には久遠の縁を紡ぐ社殿は多いものですが実際今も続く様子を見ますと歴史の流れは大きくとも続く絆はあるものだとある意味安心します。

 瀧尾神社。ここは京都市東山区本町に所在します神社で、主祭神としまして大己貴命をまつりまして、そして大国主命と弁財天と毘沙門天との三神を祀る村社です。創建年は不詳とされていますが平安朝末期の歴史書源平盛衰記に記されており平安遷都暫くの後に遡る。

 貴船神社、この名を聞けば鞍馬の山々とともに佇む静かな社殿を思い浮かべるでしょう、しかし、自際に行くとなりますと何しろ距離がありますし、中々に思い立っても歩みにはつながりません、しかし、ここ瀧尾神社には、貴船神社奥の院が移築されているのですね。

 武鶏社としまして、洛東聲ノ谷にありました社殿がその始まりなのですが、残念ながらこの社殿は応仁の乱、その騒擾とともに焼失しまして、少し近い日吉坂に遷座します、武鶏社という名はこの遷座とともに多景社と改まりまして、天正時代まで、崇敬を集めました。

 多景社。なるほど音の韻は武鶏社のままではあるのですが、天正年間になりますと天正14年の西暦1586年に関白豊臣秀吉が方広寺大仏殿を造営する事となりまして、多景社はまたの遷座となります、しかし、現在位置への遷座は豊臣秀吉の寄進とともに画くとして進む。

 瀧尾神社、神社の名前は宝永年間の西暦1704年頃に幕府により普請工事が行われまして、その際に多景社は瀧尾神社へと改まりました。方広寺大仏殿などは盛者必衰の歴史を体現するがごときではありますが、瀧尾神社は遷座した事で新しい縁を、結ぶこととなります。

 下村彦右衛門正啓、大丸百貨店創始者です。享保年間の西暦1717年に伏見京町呉服店大文字屋を拓いたのですが、ここから洛中へ毎日行商へ向かう際にここ瀧尾神社へ参拝していたという、1726年に大坂心斎橋筋、1728年に名古屋本町、店舗を広げる事となりまして。

 大丸屋、大丸となりました後にも瀧尾神社との縁は続きまして、天保年間の西暦1839年には遂に2500両、現在でいう5億円を寄進し、これにより本殿、拝殿、手水舎、絵馬舎、現在に至る社殿が整備される事となりました。この際に貴船神社の旧社殿を拝領したという。

 九山新太郎。本殿には江戸時代後期の彫り物職人、九山新太郎の彫像した8mもの木彫りの龍が在りまして瀧尾神社の象徴となりました。ただ、これは面白い話がありまして、今も続く彫物師九山家の彫像、当時としては破格の迫力で広く知られたというのですが、凄い。

 龍の瀧尾神社、大丸の寄進と共に掘られた彫像は今にも動き出しそうで、当時、いや動くぞ、動いていた、と評判になり実際月夜の晩に水を呑む龍に驚いた氏子もいたとかで、一頃は神社により龍彫像が逃げ出さないように、と金網で囲っていた時代もあるといいます。

 高島屋。さて大丸と云えば高島屋がライバルという印象がありますが、創業時から張り合う事も多い両社は幕末には高島屋が新政府側に附いた事に対抗し、大丸は幕府側に附きます。すると、ここはかの鳥羽伏見の戦い、その戦跡即ち維新の激戦地に程近いのですね。

 応仁の乱にて社殿を焼かれた歴史がある当社ですが、しかし幸いにして維新の動乱にも焼かれる事無く、社殿の内八棟は京都市指定有形文化財へ指定されています。もしかすると、水の聖獣でもあります巨大な木彫りの龍が戦火から、社殿と氏子を護ったのでしょうか。

 麒麟が来る、ではありませんが、瀧尾神社は麒麟に獏や鳳凰に尾長鳥、十二支や鶴に犀の彫像が回廊には並びます。明治維新から大正昭和平成令和と時代は永く続きますが、実は大丸との御縁も強く続くという事で、縁を長く紡ぐ社殿ということで、歴史を感じます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】豊国神社-方広寺,江戸時代越え秀吉世界への勲功認めた明治帝勅令の再興

2024-09-04 20:03:32 | 写真
■国家安康君臣豊楽の鐘と共に
 東山の大和大路正面、京都駅から鴨川を越えて東へ散策の歩みを進めますと中々に興味深い街並みと情感の移ろいがあります。

 豊国神社と方広寺、太閤豊臣秀吉に所縁ある寺社仏閣は共に東山区大和大路正面茶屋町に並んでいまして、参拝者と拝観者を日々迎えています。大和大路正面は洛中一帯を見守る要地にありまして、此処には慶長年間1599年以来より太閤秀吉が永く鎮座しています。

 明治前夜の慶応4年即ち1868年、明治天皇大阪行幸に際し天皇は自ら豊臣秀吉について、“皇威を世界に宣べ数百年経って尚寒心させる国家に大勲功あるは今古に超越するもの”としまして、江戸地最初期から荒廃に任されていました豊国神社再興の勅令を出しました。

 維新を経て新国家建設を進める明治政府には喫緊の課題は幕末に相次ぎ高まった列強軍事圧力を前に既に屈した清国と圧力に曝される朝鮮と共に場当たり的に妥協し締結された不平等条約を改正すると共に軍事圧力を跳ね除ける事でした。ここに明治帝は秀吉を示した。

 瓦解とも称される大政奉還は武家社会の終焉と新時代の到来でもありましたが、当方がかつて歴史に接した際に驚いたのは江戸時代一杯、豊国神社は破却される事無く此処東山の地に維持されていたという事で、徳川と豊臣の歴史を思いだせば意外とさえ言えましょう。

 旧別格官幣社であり別表神社である豊国神社、主祭神に豊臣秀吉を祀る神社です。慶長年間1598年にこの世を去った秀吉は伏見城内に安置されていましたが、没翌年に遺命へ従い方広寺東山大仏東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬される事となり、此処に今も豊国神社が在る。

 新八幡として祀るように遺言した太閤秀吉ですが、朝廷は豊国乃大明神として正一位の神階を贈り社殿を築きました。そしてこの地は方広寺、天台宗寺院として方広寺盧舎那仏大仏殿が豊臣秀吉の発願により文禄年間1595年に木食応其の手にて建立されているのですね。

 国家安康君臣豊楽、中学校社会科の教科書にも記されるこの一文は家康を分断し豊臣再興を期している陰謀の表れだ、としまして慶長年間の1614年から1615年にかけての大坂の陣、大阪城落城へと繋がります。その国家安康君臣豊楽が記された鐘が、方広寺にある。

 方広寺にはくだんの国家安康君臣豊楽を記した鐘が鐘楼に今も維持されていまして、これも分り易く国家安康君臣豊楽の部分に白線が記されています。復元ではなく実物が大坂の陣と豊臣氏滅亡を経ても維持されている事は知った当時に新鮮というか、驚きでしたが。

 北政所は大阪の陣により大坂城が落城する様子を此処からほど近い高台寺より夜闇が遠く紅蓮の焔に染まる悲しい光景として視ているともいわれますが、豊臣氏助命嘆願は強く行わなかったものの豊国神社と方広寺については破却から逃れるよう幕府に嘆願したという。

 江戸時代にも豊国神社は関ヶ原の戦い西軍を陣取った武将の寄進と共に参拝者で栄華を極め、という事は流石に無く、幕府は豊国神社と方広寺の維持は認めつつ、しかし豊国神社については以後一切の修繕や改修を禁じて、いわば封印する形での存続を認めたとのこと。

 明治天皇大阪行幸に際しての再興の勅令は、幕末動乱に焼けた洛中の再興が始まると共に併せて荒廃に任せる豊国神社をそのままとするに忍びなかったという大御心もあるのでしょうか。再興に際して二条城や南禅寺に残る秀吉の伏見城遺構を移築し充てられています。

 唐門は国宝指定となっていまして南禅寺塔頭金地院から移築したものです。しかし大本を辿れば伏見城まで至るとの事でして、いやはや安土桃山時代の遺構は明治時代にも移築できる形で残っていたと驚くと共に、京都大改造始めその遺功を覚えていたと感慨深いです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ウクライナ情勢-ロシア対日戦勝記念行事挙行とノモンハン事件戦勝記念へICC加盟国モンゴルへのプーチン大統領訪問

2024-09-04 07:00:04 | 国際・政治
■防衛情報-ウクライナ戦争
 ドンバス戦線でロシア軍の動きが顕著です。

 ロシア軍はウクライナT-0524高速道路まで進出した、ISWアメリカ戦争研究所8月25日付ウクライナ戦況報告はロシア軍のドネツク近郊での進出について概況をまとめています。ロシア軍が前進しているのはトレツク近郊に集中しており、トレツクの北部郊外と南部郊外及び東部郊外で進出、また個の他にドネツク市南西でも前進が見られるとのこと。

 ドネツク市南西ではコスチャーンニチフカにおいてロシア軍が前進している。ISWはこれ以上踏み込んでいませんが、戦況を複雑にしているのは東部戦線のウクライナ軍はロシア軍の滑空爆弾攻撃に曝されるためであり、逆にウクライナ軍が逆攻撃を加えているロシア本土クルスク州ではこうした状況が無い事がウクライナ軍進出を支えた構図があるもよう。

 クルスク戦線について、ロシア軍はウクライナへ侵攻している東部軍第155海軍歩兵旅団、太平洋艦隊第810海軍歩兵旅団、第11空挺旅団、第51空挺連隊、第56空挺連隊、これらの部隊から少数の部隊を抽出しクルスク防衛に当てているとされ、プーチン大統領は上記部隊指揮官から8月24日、ロシア本土防衛に関するブリーフィングを受けたとのこと。
■防衛情報-ウクライナ戦争
 日ロ間は緊張状態に転じつつある。

 ロシア政府は9月3日、対日戦勝記念行事を実施しました。NHK報道によれば、9月3日は9月2日の日本降伏調印式翌日にあたり、記念行事は北方領土やサハリンにおいても実施されたとしています。ロシア政府は2022年、日本との平和条約交渉を一方的に打ち切ると宣言しており、両国にとり日ソ共同宣言以降の平和への道筋はいまだみえません。

 プーチン大統領は、併せてモンゴルを訪問、ノモンハン事件戦勝記念行事に出席しました。モンゴルはロシアからの欧州諸国への天然ガス輸出がロシアウクライナ戦争開戦後の経済制裁により、ハンガリーを除き不可能となり、クルスク州のガスパイプライン施設がウクライナ軍に占拠されハンガリーへの供給はが絶たれる中、重要な位置にありました。

 モンゴル訪問は2023年にプーチン大統領がICC国際刑事裁判所より召喚状を公布されて以降、ICC加盟国への訪問を逮捕の懸念から避けていましたが、今回モンゴルはICC加盟国であり、初の訪問となり且つ逮捕を免れています。この背景にはモンゴル国内へ中国向けガスパイプライン整備を行う計画の停滞を打開する首脳外交が必要となったのでしょう。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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