◆巨大地震から二年を経た今日
本日、3月11日、あの東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震から二周年を迎えました。
恐らく、当方の主観を踏まえ、東北地方の太平洋沿岸部被災地は今後22年、2035年頃にはほぼ復旧に依拠した復興を成し遂げるでしょう。これからも避難により分散した社会、浸水危険区域により滞る投資、多重負債による住宅再建、実態を欠いた放射能除染作業、見通し無き原発破損原子炉撤去と道は厳しいものが続きますが、必ず復興します。
実のところ、発災当初、当方は恐らく復旧復興は超法規と集中予算措置を採ればだれでも為し得ることだから、外国人献金問題などで揺れる当時の与党は当たり前の対処を行うことで、次の衆院選に勝ちうる要素を見出し、少々ぎこちなくも長期政権を確立させる余地があるのだ、と考えていました。そうしたうえで、復旧復興は発災一日遅れれば復旧は一ヶ月延び、一週間着手が遅れれば復興が一年遅れる、初動が重要であると記しました。
しかし、民主党政権は平時手順から非常時への移行を躊躇し、復旧を平時の水害や局地地震対処の範囲内で実施し、単なる激甚災害、という範疇で着手したため復旧の端緒を掴み損ね、各省庁を統括指揮すべき復興責任者を曖昧なものとし、逆に各省庁を統括せず業務依頼窓口としての復興庁を創設、責任者無き、指揮系統無き復旧復興を遅れながら着手に至る。
更には被災地を支える社会基盤が避難より分散する以前の有効な復興策を画定できず、産業基盤への大打撃と人口流出を招いてしまいました。しかし、一週間で一年復興が遅れるという計算でしたが、二年を経てこれは次世紀まで要する危機を感じつつ、その後の政権交代により、ようやく一定方向からぶれない復興枠組みに着手することが出来、このためこれを一週間で一年から一ヶ月で一年の遅れと修正し、見通すようにできた、ということ。
物事には逃していけない瞬間があります。例えば福島第一原発事故はあと12時間早く政府が電源喪失対策に必要な措置を採れば原子炉の破損を防げたでしょう。時間とは有限且つもっとも必要な資産であり、この中でも決断を行うまでの時間は短くとも必要で敵悪な判断を下せないことがその後数年数十年の負担を呼ぶことは間違いありません。
住民合意と現行法への過剰な、いわば平時の手続きは復興を遅らせる危険があり、批判されようとも速度を重視し復興を短期間で成し遂げる選択肢を為政者が捨て、法的に問題ない方法にばかり着目し数十年単位で責任が法的に及ばない手法を採ったこと、これは非常に辛いものがあります。
ただ、頑張る人たちは大勢います。復興を支えるのは社会であり、社会を構成するのが産業であり公的支援でありインフラです。これらへは政治は必要な手段を今後投じることは出来ますが、上記要素を支えるものの中で、文化や催事に祭事等の面で、一見復旧とは無関係と見えつつも、不可欠な、人、そして人と人との繋がりを再興させるために必要な支援など、本来公金が投じられることに疑問符が付く分野へも柔軟な判断を望みたいところ。
こうした点を踏まえつつ、我が国は火山性地形による大洋上の弧状列島であり、大地と海洋の恵みを享受する最高の立地に存在するとともに外敵からの防衛にも利する国土に暮らしつつ、地震及び火山災害からは運命的に逃れることはできません、これからの防災についても慎重に考えてゆく必要があるでしょう。
災害と自衛隊、未曽有の大災害でありましたが、自衛隊はよくその任務に対応しました。震災直前に東海地震を想定した10万名規模の動員後方支援訓練なども行われていたとのことですが、有事に備える組織としては、先進国において一昼夜で万単位の人命が失われた東日本大震災こそ、有事そのものでした。
しかしながら、厳しい財政難下での防衛装備は年々痩せ細り、特に着上陸の危険が少ないとされた東北方面隊が今回の災害への対処において厳しい状況がいくつもあったと聞きます。端的事例は、発災当時、初動に当たる東北方面航空隊の多用途ヘリコプターが指揮官の話として、定数20機に対し、稼働数が僅か8機であったことに全ての一端を見ることが出来るでしょう。
今後は、自衛隊が自衛隊として求められる能力を実際に行う上で必要な定数を厳密に研究し、これに見合った予算措置を行う政治を国民が求めてゆく必要があります。昨今は指揮系統のみを整備し、実動部隊と切り離して効率化する運用体系の模索が行われていますが、こうした行為は短期的に国家予算全体では0.1%単位でも財政健全化で国民が恩恵を享受しますが、今回のような有事には真っ先に人命を左右する不利益を被ることをわすれてはなりません。
さて、震災の年の九月、仙台駅で、仙台駅も地震により天井板崩落などの損傷を受けた場所ですが、営業運転列車の脱線こそなかったものの軌道損傷などにより長期間運休を余儀なくされていた東北新幹線が、その流線型の車体をあたかも何事も無かったが如く運転される姿はある意味感動的でした。
一方、発災から五日後、当方は東海道新幹線にて横浜へと足を運びました。京阪神からは福島第一原発の情勢如何によっては東京放棄の可能性も捨てきれず、という視点が確かにありました。こうしたなかで、これが横浜の見納めになるやも、という気概が無かったかと問われれば難しいものでした。
乗り慣れた横浜線ではなく地下鉄により新横浜から横浜へと進出、このあたりから非日常と言えば非日常ではありました。五日後といえば、今日残る記録では、被災地では未だ孤立地域があり、自衛隊や米軍に警察消防などの航空機が把握していない救援の手が未だ伸びずの地域があったわけですから。
横浜戦を利用しなかったのは、計画停電の影響により全線運休となっていたためで、不要不急路線の運休など、我が国は戦時体制に戻ったかのようでした。運行本数は路線によっては半減、火力発電所の被災や点検がままならない状態であり電力不足が危機的状態だった、ということ。
横浜は震源より遠く、しかし、それなりに大きな揺れを記録した横浜でしたが、日本の耐震構造建築物の底力といいますか、一部に損害はあったものの、都市機能は維持されていました。しかし、商店の品物は信じられぬほど品不足で、ホテルも社会基盤維持と日常の防衛という努力と使命感があってこその平常営業、というものだったのでしょうか。
磯子区では被災地の製油施設が津波と火災により完全に機能を喪失していたため、平時には数十km程度の移動のみ行う燃料貨物輸送列車が、初の震災救援列車として東北地方へ燃料を届けるべく、発車準備を行っているところでした。この列車が初展開する様子は、大きく日本海を迂回する経路をとり、記録もされています。
京浜東北線であれば分刻みで次々と列車が運行されていますから、平時は時刻表など気にしないところでしたが、この日ばかりは運行を確認しなければなりませんでした。首都圏はかなりの距離を隔てているとはいえ、発災数日後は首都圏にも非日常というものはあったわけです。
日本も何とかなるのではないか、そう考えるようになったのはそれからわずか数時間後、護衛艦いせ就役行事の時でした。式典は縮小こそされていましたが予定通り実施、考えれば終戦当日も海軍兵学校は講義を行っていた旧帝国海軍の今の姿が海上自衛隊、当然と言えば当然ですが、残っていた日常に、ある種感動しました。
そして数万単位の死者、数十メートルの大津波、数十万とも当時言われた行方不明者、原子力発電所の原子炉爆発、こうした常識外の事態が連続して続く中の、初めて接した明るいニュースが新しい護衛艦の就役であり、その門出、そこに立ち会うことが出来たわけですので、実のところかなりの涙も流しました。
こうしてあの日から約二年を経まして、被災地以外には日常が戻りつつあります。いや、建設資材の高騰などの問題もありますし、原子力発電所事故に伴う全国の原子炉停止が影響し、もしかしたらば日本全体が間接的被災地、という事なのかもしれませんが。
こうした中で、初動が重要な復興着手に大きな遅れがあった二年間ですので、時機を逃した代償はその道程が非常に長くなる、という問題は残っています。他方、今回の教訓の反映やこれからの防災政策など、まだ間に合う命題は残っていることも確かです、やるべきところを見出し、出来る古都を着々と進めてゆくことが遠回りのように見えて唯一のちか道やもしれません。
復興への決意と防災減災への覚悟と共に、長い道のりを着実に歩んでゆきましょう。最後になりましたが、東北地方太平洋地震東日本大震災で亡くなられた全ての人々の冥福を祈ると共に、復興へ臨まれる全ての人々の敢闘と幸いを祈り、本文の末尾とさせていただきます。
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