北大路機関

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軍艦長門碑 軍都横須賀に遺された大海軍の面影

2007-12-30 11:18:26 | 海上自衛隊 催事

■大海軍と海上自衛隊

 伊藤正徳の著書「大海軍を想う」、初版ではなく四版のものだが、昭和32年(初版は31年)の著書が書架にある。冒頭の一文を少し引用してみたい。

Img_1006  “もとより戦艦「大和」なぞ必要としない。「陸奥」や「長門」を出す場面でもない。一隻の重巡さえ勿体ない。か、いま仮に、戦前にあった一萬トン巡洋艦十八隻中の一隻が残っており、それが竹島の近海を巡航するとしたらどうであろう。李承晩ラインと如き海上の縄張りは、初めから現れなかっただろうし、また仮に現れたとしても、忽ち水蒸気のように消え失せることは確かである。漁族を保護するブルカーニン・ラインもその類に近い”。

Img_1248  横須賀のウェルニー公園を三笠公園の方向から海上自衛隊横須賀基地の吉倉桟橋へ足を進めてゆくと、それには海軍の碑が置かれている。日本海軍は1941年から1945年までの間、主戦場となった太平洋を文字通り朱に染めて死力を尽くし闘い、保有艦艇の七割を亡失し、敗北した。思い起こしてみると、今日までの海戦史を見れば空母機動部隊同士の海戦の全てに日本海軍が関わっているし、最後に起こった戦艦同士の海戦も日本海軍と米海軍の間で生じたものである。

Img_0999  戦艦長門。伊勢型に続いて第一次世界大戦中に建造された日本最初の高速戦艦で、搭載する41㌢主砲の射程は37900㍍、基準排水量は32720㌧、近代化改修後は39130㌧の大型戦艦。日本海軍の象徴として君臨し、第二次世界大戦を生き延びた。1946年7月に原爆の標的艦となり、二発目の原爆で中破漏水、沈没した。乗員は1333名、水線部と砲塔は300㍉以上の装甲を有する。

Img_1002  これら、大日本帝国海軍の遺構というべき石碑は、おそらくこの場所から鉄底海域ソロモンの海へ、または厳寒のアリューシャン諸島、日本への玄関口であるマリアナ諸島へ向かう艦艇を家族や住民が見送ったのではないだろうか。

Img_1000  戦艦山城、29300㌧の戦艦で、超ド級戦艦である扶桑型の二番艦として就役し、第一次世界大戦と第二次世界大戦に参加、1944年10月25日、レイテ沖海戦に参加、西村艦隊の旗艦としてスリガオ海峡で優勢な米水上部隊と交戦、40㌢砲を搭載する「ウエストバージニア」「メリーランド」に対して36㌢砲で果敢に立ち向かい、巡洋艦からの20㌢砲弾や魚雷多数の命中を受け主砲弾薬庫が爆発、乗員の99%が一瞬の内に戦死し戦没している。

Img_1003  日本海軍の文字通り死闘とは、文章にて残るのみながら、その文面からも必死、決死の闘いが幾分かは伝わるが、それだけでは実感が湧かないほどの死闘であるということは判る。西村艦隊が受けた打撃、戦艦だけでも一千人以上が乗り組んでいる。弾薬庫が爆発すれば、甲板にいて爆風で海に吹き飛ばされでもしなければ助からない。

 価値観を和えれば、解釈も幾つかあるかもしれないが、歴史という大河の下流にある現代に生きる身としては、こうした先人の犠牲に成り立っていることは確かである。大晦日、横須賀基地の夜間電飾に足を運ばれる方がいらしたら、この碑にも足を運ばれてみては如何だろうか。“故国において忘れられようとする「大海軍」は、なお海の彼方に活きている”「大海軍を想う」は、こう書かれて締めくくられている。

HARUNA

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