気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

土木学会選奨の遺産:函館市の笹流ダム公園を歩く

2015-08-20 17:43:25 | 日記
函館市陣川町にある北海道東照宮を見て、住宅街の裏側に当たる畑地のダートな道を通り、鬱蒼とした林の中を下って笹流ダム公園へ降りる。
その田畑付近には最近新聞報道などで「熊出没」というニュースが出ている現場附近、今の時期はトウモロコシなど収穫の時期です。熊の食糧となる山の実が少ないのでしょうか・・・。
ダム公園は緑豊かな森で空気も爽やか・・・散策には気持ちの良い所です。広場の奥にコンクリートの高いダムサイトといっていいのか(専門的なことはわかりませんが・・・)高い壁と言っていいのか、幾何学的な模様にも見える壁になっている。
「笹流れダム」の石碑

その横には大きな石に説明が刻まれている。

 「土木学会選奨土木遺産
  ~函館市の水道施設群(笹流ダム)~

『建設後、半世紀以上を経過した。高い価値のある歴史的土木施設を讃えるもので、この笹流れダムは、函館市の水道施設群として元町配水場とともに平成13年°の選奨土木遺産に認定されました。
笹流れダムは亀田川の支流笹流川をせき止め、大正12年(1923)に完成した水道専用のバットレスダム(扶壁式中空鉄筋コンクリートダム)。この形式のダムとしては日本で初めて建設されたもので、小野基樹氏(東京都水道局局長)の設計監督によるものです。』
 このダムに蓄えられた水は、赤川低区浄水場へ送られ、飲み水となって私達市民に利用されています。
 函館の飲料水はこんな自然豊かな環境の中で生まれている・・・。美味しいと自慢できる・・・と私個人的には思っている。
ダム説明碑の右側林の中に鳥居が見えたので、その方向へ向かった。
「本神社」と鳥居の額に名があるだけで、何時ごろの建立などはわからないが、かなり古いように見えた。

更に、林の奥に階段があり、登るとダムの上段の歩道に出た。

ダム

ダム歩道から見たダム広場。円形のプールが見え、中心にある噴水は涼しげに水を吹き上げてている。


函館市陣川町の北海道東照宮を訪ねる

2015-08-18 23:05:50 | 日記
2015年8月7日、神山の権現台場を訪ねた後、陣川にある北海道東照宮に向かった。
この神社は函館戦争のゆかりでもるが、幕府から配礼されたという由緒高い神社。
社殿の前にある「御由緒」には詳細に説明されている。
概要は
御祭神は 源 家康公
 江戸時代、文化十一年(御宮日記には寛政年間とある)外敵退散、鎮護国家、蝦夷地繁栄の願をかけられ、江戸輪王寺御門跡、光格天皇御嫡子、一品舜仁親王御 筆の信号を賜り、日高の様似等澍院に山王 実神道に祀られた後、幕府五稜郭築城の時、其の鬼門に四神相応の勝地をトして規模宏大、壮麗な社殿を建立。
元冶元年、様により此の地に奉遷、蝦夷地守護の大社として十万石の格式をもって鎮め奉った。(この地は亀田の上山というところで、神様が来たというので「神山」となった。神山町 町名由来である。
 あけて元冶二年(慶應元年)の四月十四日、畏くも杖三宮一品慈性親王五御宸筆の「東照宮」の勅額を賜った。・・・(略)・・・』その後、わずか五年足らずで、函館戦争が起こり、四稜郭と共に東照宮も土塁が築かれたが明治二年五月、不幸兵火に罹り社殿、宝物など悉く灰になり、現存するのはご神体、宝物、華表のみ。
また、更に函館区谷地頭町に五千坪の社地を賜ったが、昭和九年の函館大火があり、ご神体や宝物等は湯の川神社へ避難した。
昭和三十三年新社殿が、草創の地である神山奥、陣川に神城を定め移遷したという経緯がある。また「平成四年一月より、本宗とあおぐ「日光東照宮」より社名を「北海道神宮」と改めた。
東照宮鳥居

お賽銭箱にも葵の御紋・社殿奥に歴史ある「東照宮」の額が置かれていた。

本殿と狛犬

手水石

手水石台の函館戦争時の弾丸跡(○囲)

手水台座には「明治四十九年、十一月五日神山村より運搬した「三番組中 よ組」と刻まれている。

純忠碧血神社 由緒
『戊辰・巴巴の役では、各戦場で戦闘後の東軍諸兵の遺体は遺棄されたままで、埋葬することも西軍によって禁じられた。』とのこと。義憤に思う各地有志達の手によって犠牲強いられながらも東軍将兵の遺体を回収し、慰霊された。函館でも柳川熊吉と実業時住職等の有志が東軍将兵たちの遺体を埋葬した。
 平成十九年、東照宮陣川町鎮座十五周年記念事業として、純忠碧血神社を奉斉した。義を掲げ戦い利あらずして賊の汚名を受けざるをえなかった東軍将兵達の無念を悼んで、その魂 をこの杜に対案し護国の神として諸兵の御霊を慰める・・・ということが説明されていた。
御祭神として、幕臣の近藤勇・沖田総司など数名の新撰組の名がある。
純碧血神社


箱館戦争ゆかりの地:神山稲荷神社(権現台場)を訪ねる

2015-08-09 21:24:58 | 日記
陣川に温泉があったころにはよく神山を通って行ったが、温泉閉館になってからはその方面には行くことがなかった。私の家族が東照宮について調べてあったので、しばらくぶりにその方面へと向かった。
目印は、神山小学校・・・住宅街にあるやや小高い林の中に「旧東照宮」があった。現在は「神山稲荷神社」である。
山道の広場に「旧東照宮と権現台場」の説明版が建っている。
『東照宮は、元冶元年(1864年)五稜郭が完成した時、その鬼門(東北の守護神とするため、日光東照宮から分祀された日高様似の等澍院から東照大権現を分霊して、上山村(現市内神山町)に建てたのが始まりである。(以後上山村は神山村と改められた。)
 明治元年(1868年)五稜郭を占拠した旧幕府脱走軍は、翌2年五稜郭北面守備のため四稜郭を急造、更に五稜郭との重要な結節点にあたる東照宮に砲台権現台場といわれている。)を設けた。
 しかし、同年、この砲台は新政府軍の攻撃を受け東照宮も社殿を焼失した。
 東照宮はその五、箱館の天佑庵(現在の青柳町天佑寺)などを転々としたが、明治12年(1879年)宝来町に移り、平成3年(1991年)に陣川町に移転して「北海道東照宮」と改称した。
 ここの鳥居は五稜郭や辨天台場の石垣造りを担当した石工の柵で、箱館戦争の砲火にも壊されず、この地に残った。』と説明されています。

旧東照宮と権現台場(現神山稲荷神社)参道風景

現存する鳥居(右石柱には「元冶二年」・・・と刻まれている。箱館戦争の砲火にも耐えた鳥居。

神山稲荷神社社殿と狛犬
左の狛犬は右前足で小さい狛犬を抱えている・・・右側の狛犬は蹴鞠のような球状を抑えているようにみえる

本殿から鳥居への道

山道入り口の「開基産百年石碑」

ここには『貞享元年(一六八四年)この神山の地に七戸の佐田郎が鍬を入れて以来開拓に精進された多くの先達の労苦に感謝し神山の永久の繁栄を願いここに記念の碑を建立する・・・昭和六十年五月』と台座に刻まれている。
 次に「北海道東照宮」を訪問するので神山から陣川へ進む。
因みに分霊先の日高様似町にある蝦夷三官寺の一つである等澍院(2012年訪問時撮影)


大野町(現北斗市)の八郎沼散策と水田発祥の地碑など

2015-08-02 13:24:36 | 日記
2015年8月1日、八郎沼を散策するため、大野新道から大野町へ向かった。
途中、文月で気になる看板が目に入り、その説明看板を見た。
樹齢どれほどか分からないが、巨木の側に「文月の庚申塚」 『文化九年(1812)建立。碑面には文字が摩滅しかけているが、頭取十三人の名前が刻まれており、これが文月の人命を期した最古のものであり、大野では本郷の庚申塚に次いで二番目に古いものとされている。
 ここは昔、文月の村のはずれであったことがうかがわれ、かたわらの巨木と塚は文化以降の古さをきそうものであり、ここに祭られていた猿田彦神社が明治十一年に移っているので、塚基礎と共に立て直したものらしい。頭取核に名のある高田吉衛門については貞享二年(1685)の米つくりをしたという吉右衛門の子孫であるとされている。
 平成5年9月 大野町教育委員会』とあり、説明版の右端に平成十八年二月一日より北斗市教育委員会と添え書きがある。
庚申塚説明版と巨木。(塚は林の奥にある)
 
文月地蔵堂

『文月地蔵堂の創立年は不詳だが、大正三年(一九一四)編纂の「大野村史」によると、明治八年(一八七五)四月、融資の寄付にて二十一坪の木造茅葺の堂宇を建築。同年同年三十年には七坪を増築し、留守僧の常置していた。本尊は地蔵尊・釈迦如来・阿弥陀如来で上磯町清川の禅寺から如来像を譲り受け、禅寺と浄土宗の合同形式をとったという。
今は留守僧もいないが、墓地だけは寺の土地として管理されている。北海道水田発祥の地である文月地区には、この地蔵にまつわる奇妙な雨乞いの話が傳えられている
 日照りが続き、手の限りをつくしたが効き目がなく、ある日、村の名手の発案で地蔵様を川へ担いでいって水浴びをさせることにした。翌朝、函館山の方に黒い雲が見えたかと思うとみるみるうちに雲が広がり、大粒の雨が降り始めた。雨は以中也振り続き、翌朝カラリと晴れた。村の人々は涙を流さんばかりに喜び、さっそく地蔵様を川から揚げて元の所に納め、お礼を言った。その後、地蔵さまは何度も川に入れたという。』平成十六年十一月吉日 大野町教育委員会

小高神社と道祖神
『戦後、樺太引揚者の人々は、かって文月の「舟上」と称した開拓地に入植したが苦労の末に手に入れた馬が相次いで熊の被害に遭った。そのため、昔から馬の産地としてしられていた福島県相馬地方の小高神社にあやかって、昭和二十五年(一九五〇)馬を守ってもらおうと建てたのが文月小高神社であり、馬頭観音が祭神となっている。
昭和四十四年、この付近から掘り起こされた三種の道祖神が境内に安置されている。・・・
道祖神は旅の安全祈願の神で、村境や峠の上に建て悪霊を遮るものとされた。後に、男女交歓の場ともなったことから、縁結びの神、子授けの神として崇拝されている。
この辺は松前藩の鷹場だった姉弟山へ通ずるところで、松前藩主も鷹狩によく通った道であったため、この地に道祖神がまられたとも考えられている』平成十八年三月吉日  北斗市教育委員会

北海道水田発祥の地碑
『蝦夷地の米つくりは、寛文年間(一六六一~七二)貞享二年(一六八五)、元禄五年の記録がある。水田発祥の地碑は元禄五年の「松前志」の記録と村民の伝承によって昭和二十四年(一九四九)に建てられた。
 碑文には「押上(文月村)のこの地に元禄五年農民作右衛門なる者 南部の野田村から移って、人々の定着は米にあるとしてこの地を拓し、四百五十坪(約十五アール)を開拓使、道米十俵(現在の二俵程度)を収穫した」と記されている。
現在の惣三枚の基礎はこうして発祥した。作右衛門の水田は二、三年で廃止され、その後も稲作は失敗と成功を繰り返し、文化二年(一八〇五)には箱館奉行が大規模な水田開発を行ったが、長くは続かなかった。
 嘉永三年(一八五〇)、大野村の高田松五郎、万次郎親子が苦心の末、コメの収穫に成功すると、近隣の村でも広がり、安政元年(一八五四)以降、米つくりはようやく安定した。
 明治六年(一八七三)になって、島松(現北広島市)の中山久蔵がこの地の品種「赤毛」で寒冷地稲作に成功し、米つくりは全道各地に広がったのである』と平成十八年三月吉日  北斗市教育委員会
  島松にはクラーク博士の記念碑や近くに旧島松駅逓所があるので旅の企画をしていたので、偶然、中山氏の稲作のことも調べてた。大野町と稲作でつながっている!

「松前街道のフットパス標柱」
北海道自然歩道・・・JR清川口駅まで8,8㎞

「八郎沼」
野外舞台と広場
赤い橋とハスの花


大沼の大岩園地をあるく

2015-08-01 19:45:28 | 日記
2015年7月30日、ネイチャートレイルのガイドブック「北海道の森と湿原をあるく」(志水辰夫著 寿郎社出版)にある大沼湖畔の駒ケ岳神社付近の森を歩いた。

「大岩園地」の大きな看板があり、今まで何度も湖畔をドライブしていたのに、遊歩道になっていることに気が付かなかった。

この園地は「千鳥岬」という名が付いているところで大沼北岸にある。

「大岩」は駒ケ岳神社の側に大きな岩があるので名付けられたのか・・・(駒ケ岳大噴火の際の噴石・・・)
中学校の頃の遠足で駒ケ岳登山銚子口コースを体験した思い出があるが・・・入り口は雑草で覆われていた。

 春にはアカショウビンが渡ってくるとのことですが、何の鳥の鳴き声か・・・いろいろ聞こえてくる。
道は落ち葉でふかふかの絨毯を歩いている感じだが・・・雨が降ったあとなので、道は若干滑り易い所もあった。
 
トクサの群生地 子供のころ「鉛筆削りの草」と言っていたトクサ。茎がやすりのようにザラザラしている。

カミキリ虫の仲間か・・・

春には水芭蕉も咲くらしいが、コウホネがひっそり・・・

大沼とは別の雰囲気の沼

岬を一周して大沼湖面に出ると釣り場なのか釣り客の船着き場がある。ヘラブナが釣れるとのこと。