早朝に自宅を出発し一路恵庭方面に向かう。天候は曇り。国道37号線の豊浦でイチゴを買い求め、ビタミンC補給。美笛峠を通過し、支笏湖の横を通って千歳に出る。千歳からは国道36号線、恵庭から道道45線、恵庭栗山線に入る。舞鶴小橋やスポーツ公園を通過し、漁川に出る。
そこからは恵庭礼拝所跡を探すのみ・・・。また案内標識はないので、神社があるような林を探す。
ここは雨竜の面白内松浦武四郎宿泊地より意外にも見つけやすかった。
この地には松浦武四郎の描いたイザリブト番屋の図があり、番屋と船着き場の範囲が特定できると、平成18年9月に設置された。
概要には『陸路が整備されていなかった時代における恵庭を含めた石狩低地帯の交通手段は日本海ルート、太平洋ルート共に河川を利用した水運が中心でした。
この時代、恵庭の交通拠点は、市の北東部千歳川に面した地域で、江戸時代は漁川を利用したエゾ松の流送や鮭漁の拠点として明治初期から昭和初期までは、開拓民の移住や農産物の出荷など交通、産業、文化の拠点を担っていました』
番屋については『地方警備を重視し、東蝦夷地を直轄地として幕府が1807年(文化4年)、この地に番屋を設置し、官吏を置いて交易を行うとともに、宿舎や漁業が行える施設として利用された』
また、船着き場としては『明治初期から昭和初期まで、川を利用した船による行事が盛んでした。』と記されている。
恵庭神社跡、鳥居の奥に石碑が見える
松浦武四郎が描いたイサリフトの風景
礼拝所跡とイザリブト説明版全景
現在の漁川
松浦武四郎著秋葉實解読の「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」下では
『ヘタス 此の二股に成、右の方イサリフトなり。左カマカシコツの本川すじ。扨右の方。
イサリフト 鮭番屋一棟、則通行屋に成る也。漁屋並備米蔵・板蔵等美々敷建てたりツイイシカリより十一里。
此の処惣て泊り場所に成れども、番屋守も我が来る日定まり無しが等申候儘不泊して出立す。』またアイヌの人たちの名前や年齢など暮らし
が記録されている。
私たちは恵庭イザリブトを後にして、次の目的地である岩見沢市北村へ向かった。
そこからは恵庭礼拝所跡を探すのみ・・・。また案内標識はないので、神社があるような林を探す。
ここは雨竜の面白内松浦武四郎宿泊地より意外にも見つけやすかった。
この地には松浦武四郎の描いたイザリブト番屋の図があり、番屋と船着き場の範囲が特定できると、平成18年9月に設置された。
概要には『陸路が整備されていなかった時代における恵庭を含めた石狩低地帯の交通手段は日本海ルート、太平洋ルート共に河川を利用した水運が中心でした。
この時代、恵庭の交通拠点は、市の北東部千歳川に面した地域で、江戸時代は漁川を利用したエゾ松の流送や鮭漁の拠点として明治初期から昭和初期までは、開拓民の移住や農産物の出荷など交通、産業、文化の拠点を担っていました』
番屋については『地方警備を重視し、東蝦夷地を直轄地として幕府が1807年(文化4年)、この地に番屋を設置し、官吏を置いて交易を行うとともに、宿舎や漁業が行える施設として利用された』
また、船着き場としては『明治初期から昭和初期まで、川を利用した船による行事が盛んでした。』と記されている。
恵庭神社跡、鳥居の奥に石碑が見える
松浦武四郎が描いたイサリフトの風景
礼拝所跡とイザリブト説明版全景
現在の漁川
松浦武四郎著秋葉實解読の「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」下では
『ヘタス 此の二股に成、右の方イサリフトなり。左カマカシコツの本川すじ。扨右の方。
イサリフト 鮭番屋一棟、則通行屋に成る也。漁屋並備米蔵・板蔵等美々敷建てたりツイイシカリより十一里。
此の処惣て泊り場所に成れども、番屋守も我が来る日定まり無しが等申候儘不泊して出立す。』またアイヌの人たちの名前や年齢など暮らし
が記録されている。
私たちは恵庭イザリブトを後にして、次の目的地である岩見沢市北村へ向かった。