気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

恵庭 イザリブトの松浦武四郎 2011年6月29日

2013-04-26 17:37:26 | 旅行
 早朝に自宅を出発し一路恵庭方面に向かう。天候は曇り。国道37号線の豊浦でイチゴを買い求め、ビタミンC補給。美笛峠を通過し、支笏湖の横を通って千歳に出る。千歳からは国道36号線、恵庭から道道45線、恵庭栗山線に入る。舞鶴小橋やスポーツ公園を通過し、漁川に出る。
そこからは恵庭礼拝所跡を探すのみ・・・。また案内標識はないので、神社があるような林を探す。
ここは雨竜の面白内松浦武四郎宿泊地より意外にも見つけやすかった。
この地には松浦武四郎の描いたイザリブト番屋の図があり、番屋と船着き場の範囲が特定できると、平成18年9月に設置された。
概要には『陸路が整備されていなかった時代における恵庭を含めた石狩低地帯の交通手段は日本海ルート、太平洋ルート共に河川を利用した水運が中心でした。
この時代、恵庭の交通拠点は、市の北東部千歳川に面した地域で、江戸時代は漁川を利用したエゾ松の流送や鮭漁の拠点として明治初期から昭和初期までは、開拓民の移住や農産物の出荷など交通、産業、文化の拠点を担っていました』
番屋については『地方警備を重視し、東蝦夷地を直轄地として幕府が1807年(文化4年)、この地に番屋を設置し、官吏を置いて交易を行うとともに、宿舎や漁業が行える施設として利用された』
また、船着き場としては『明治初期から昭和初期まで、川を利用した船による行事が盛んでした。』と記されている。
恵庭神社跡、鳥居の奥に石碑が見える 
 松浦武四郎が描いたイサリフトの風景
礼拝所跡とイザリブト説明版全景 
現在の漁川 

松浦武四郎著秋葉實解読の「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」下では
『ヘタス 此の二股に成、右の方イサリフトなり。左カマカシコツの本川すじ。扨右の方。
  イサリフト  鮭番屋一棟、則通行屋に成る也。漁屋並備米蔵・板蔵等美々敷建てたりツイイシカリより十一里。
此の処惣て泊り場所に成れども、番屋守も我が来る日定まり無しが等申候儘不泊して出立す。』またアイヌの人たちの名前や年齢など暮らし
が記録されている。
私たちは恵庭イザリブトを後にして、次の目的地である岩見沢市北村へ向かった。

厚真 冨里の松浦武四郎の歌碑 2011年6月3日

2013-04-26 13:40:00 | 旅行
6月2日の宿泊ホテル「ユンニの湯」を出発して国道234号線を早来方面に向かった。厚真の冨里にある
「松浦武四郎の歌碑」を訪ねるためである。この碑は数年前に厚真の温泉や「雪だるま」を全国に発送していることでも知られている郵便局やはやきた町民の森を歩く旅で、行った時、宿泊した温泉の方に「松浦武四郎の碑」があるはずなんですが・・・と尋ねた。
松浦武四郎の足跡はあまり知られておらず、不明。廃校になった幌里小学校跡の大きな楡の木があると教えていただき、
その所まで行った。その他、スケートの橋本聖子ドームがあった。厚真は再訪です。
2007年9月26日に訪ねた際の写真 
 樹齢450年のハルニレ     
説明板には『北海道は昭和48年に開拓記念の木として保存樹木に指定』と記載されている。
今度は、詳細が分かり、国道234号から道道10号に進み、新町という所を左折して一般道235号を進む。
小雨になっていたが、丁度、道路工事の作業中のところに石碑があった。ようやくお目にかかれた碑である。しかし詩が刻まれる文字は薄くなって
読めない状態であった。しかし、松浦武四郎著の「東蝦夷日誌」(私の参考書中の一冊吉田常吉編のもの)にはその歌が書かれている。
   松浦武四郎の詩『えみしらも 志らぬ 深山に
                分けいれば まようべき道だにもなし 』

まつうら橋と歌碑の全景  
 歌碑 松浦武四郎の名が付いている橋 
松浦武四郎は安政五年、六月廿一日、教導を頼む。アツマは同署乙名板茂(トンニカ村エカシュ)ムカワ(鵡川)の事は板右衛門
ホベツ(穂別)より上はイクラムなどの両人を召連出立。馬にて東岸を上る・・・と武四郎は記録している。
 アツマについては『アツマ(厚真)(川有、幅三十間餘、船渡、夷家三軒)にえ屋某給休なりしと。昔モモカと云獣が
游ぎせしを以て・・・アツは獣の事にて、マは渡る義也と』とある。
また、トンニカ村に宿泊したときに、『夜、犬二匹、頻に鼻を鳴らし来ると。其犬と共にエカシコム弓を持て走り行きしが、
直ちに鹿二頭を得て帰れり。是は皆粟畑え来る也と。鳴けば去る故、鳴かずに来る也と。實に能く馴らし』と感心している。なるほど・・・
犬が吠えると鹿などが逃げてしまい、狩猟の役割としては吠えないで、主に教えるという賢い躾に武四郎も感嘆したということですね。


追記(余談・・・)2013年4月27日
  松浦武四郎の名前が付いている地域の施設は厚真の「まつうら橋」の他、釧路市の松浦郵便局、そのほか厚真では最近「武四郎饅頭」を作っている店があると
  テレビで報じていた。店の方は三重県のご出身とか・・・。(松浦武四郎は三重県の出身)これも北海道での松浦武四郎への功労をたたえての事かと私はフアンの一人として喜んでいる。

由仁町 ヤリキレナイ川とユン二の湯

2013-04-16 21:49:22 | 旅行
2011年6月2日、新十津川町の松浦武四郎の宿泊地を訪ねてから、国道275号線を奈井江方面に行き、途中鶴沼ワイナリーに寄り
ワインを購入し、奈井江大橋を渡って国道12号線に入る。
鶴沼ワイナリーの中  奈井江大橋 
岩見沢市街から国道234号線に入り栗山町を経て由仁町のホテルに向かう。
途中、由仁駅から馬追方面に向かってドライブする途中に『ヤリキレナイ川』という川があるので、珍しい名前に興味を感じて行ってみた。
 大きな看板があったので、直ぐにその川がわかった。『石狩川水系夕張川支流一級河川』とある。
川名の由来は昔はアイヌ語で「ヤン・ケ・ナイ川」、「イヤル・キナイ川」と呼ばれ「魚の住まない川」という意味があり、明治時代から
「片割れの川」の意味があったようです。しかし、大雨が降るたびに氾濫したため、住民が「ヤリキレナイ川」と呼び始めていたとのこと。
この川の名を知ってから、世の中に困ったことが起こるたびに「ヤリキレナイ・・・」この川を思います。
川沿いには花を植えて、きれいにしている民家がありました。なにか、ほっとします。
ヤリキレナイ川  花が植えられている川沿い 

お世話になったユン二の湯ホテル
 宿泊棟は廊下、壁など至る所に木をふんだんに使ってあり、心休まる温かい雰囲気、露天風呂なども気持ちが良かった。

新十津川町 松浦武四郎の歌碑と金滴酒造付近の宿泊地

2013-04-10 19:09:44 | 旅行
2011年6月2日、新十津川町開拓記念館まえにある中央公園内の松浦武四郎の歌碑を訪ねた。
新十津川町については、開拓記念館からパンフレットをいただき、母村である奈良県吉野郡の十津川郷
一帯が、明治22年8月豪雨に見舞われ人口12,862人中亡くなった人168人、負傷者20人家屋流出、
戸数2,403戸中、全半壊610戸、田畑山林など、村の4分の1が全壊する大惨事となり、北海道
移住に至ったという経緯が記載されている。公園の隣にも移住開拓の碑がある。
松浦武四郎の歌碑は安政4年旧暦5月15日、この地を訪れ徳富川河口に泊まった時に詠んだ歌
『日数経て突区の里に来て見れば、ここもかはらぬ茅ぶきの宿』と刻まれている。
新十津川開拓記念館と歌碑
 


開基の碑と新十津川開墾碑、忠魂碑  
 開基の碑には『故郷の残夢』と題して『吾等祖先の住み慣れし吉野の里の十津川は前代未聞の洪水に・・・田も畑も
流されし・・・其様を・・・(私は一部読み取れなかった文字あり・・・)』と移住して故郷への思いを感じた。

 新十津川町にはもう一か所松浦武四郎の足跡の碑がある。
国道275号線と451号線の分岐の十字路に金滴酒造の酒蔵があり、その建物の向かいに小さな石碑がある。
松浦武四郎は安政4年5月15日、19日、22日と翌年の2月29日にトックの乙名セツカウシ家で宿泊したことが記録にある。

金滴酒造と石碑 分岐点広場の様子