気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

白老 ポロト湖畔の松浦武四郎顕彰碑

2016-07-13 17:56:47 | 旅行
白老のポロト湖畔にはウオーキングや水芭蕉などの群生を見たり自然を楽しむ目的で行ったことがあるが、今回はアイヌ民族博物館に松浦武四郎の顕彰碑が建立されたので、見て来た。
しらおいポロトコタンのゲート(入場券が必要です。)

ゲートに入ってすぐに大きなアイヌの木彫り像コタンコルクルがお出迎えです。

園内の案内地図

その側に武四郎の碑とプロニスワフ・ピウスツキ(1866~1918)という人の銅像が並んでいる。

因みに、ピウスツキという人は「ポーランド人で流刑者。卓越した民族学者で、アイヌと極東先住民研究の開拓者。当地白老に滞在、研究に勤しんだ。」と説明がある。

『民族共生の人 松浦武四郎』と題され、彼の写真が石碑に描かれている。

石碑には、次のようなことが書かれていた。
『松浦武四郎は、幕末にアイヌ民族と心を通わせ、現在にアイヌ文化を伝えるなど、数々の業績に残したヒューマニズム溢れる人でした。
 生まれは伊勢国須川(三重県松阪市、少年期から人々の温かさに触れながら、全国を旅する中で、豊かな知識と真実を見抜く力を養い、弘化二(一八四五)年にアイヌモシリ(蝦夷地)に初めて渡りました。
そして、この台地で生きるアイヌ民族の固有の文化に深く心を打たれ、アイヌ民族の信頼に支えられながら、夢と情熱と権力に対する反骨精神を胸に全六回、およそ二万キロを踏査しました。
これらの探検の記録は百五十一冊の書物にまとめられ、うち五回訪れた白老の様子は初航蝦夷日誌」「丁巳西蝦夷山川地理取調日誌」「東蝦夷日誌」に詳しく記されています。(※私、昔の難解な文字は略してます。)
 明治維新を迎え、開拓判官を勤めた武四郎は蝦夷地に代わる名称として、古くからアイヌ民族が暮らす北の大地という思いを込めて「北加伊道」を提案、そこから「北海道」の名が生まれました。
 加えて、アイヌ語地名をもとに、国名(後に支庁名)や郡名の選定にあたるなど、武四郎はアイヌ民族と和人が共に暮らすことができる社会を目指して行動した民族共生の人だったのです。
           平成二十六年十月 白老町長 戸田安彦』と記されています。

東蝦夷日誌に記録のある白老仙台藩陣屋跡を訪ねた

2016-07-12 15:25:51 | 旅行
白老会所跡を見学して、次の史跡「白老仙台藩陣屋跡」を訪ねた。
この陣屋については、松浦武四郎著「東蝦夷日誌」の白老領の中に記述があるところでもある
武四郎の日誌には
「シラヲイ」会所に続いて、次のように書かれている。
『惣て此邊北西山を受、巳午向濱にして暖気也。是より上(十二丁)仙臺家陣屋(安政甲寅年(元年)立てり)有
西に白老川を被ㇾ所、三好堅物縄張にて築き、旭岡(てるのおか)と號く。
川水を曳、沼地を掘りて用水となし、是に鹽竈神社を勸請し、邸中より眺望する處を以て十景を作る。
是皆三好氏の功業なり。』とあり、注釈には三好堅物=仙台藩士とある。

史跡への入り口には大きな案内板が立っている。

また門の前方には史跡の石碑と説明版がある。

説明版には
『白老仙台藩陣屋跡
    昭和四十一年三月三日 史跡指定(国)    
    昭和代十一年七月八日 追加指定(国)
この陣屋跡は安政三年(一八五六)蝦夷地の防備を固めるため、仙台藩が築いたものである
安政元年(一八五四)徳川幕府は鎖国を解いてアメリカ・ロシアと和親条約を結び箱館港などを交易場とした。
 このため幕府は蝦夷地を直轄地とし、翌年仙台藩をはじめ、津軽・秋田・南部の奥州諸藩と松前藩に警備を命じた。安政六年庄内藩と会津藩も加わる。)
仙台藩の守備範囲は白老から襟裳岬を越えて、国後・択捉までの東蝦夷地であったため、白老に元陣屋を、広尾・厚岸・根室・クナシリ・択捉に出張陣屋を築いた。
元陣屋の面積は六・六ヘクタールで堀と土塁を円形・弧状に巡らして、内曲輪(うちくるわ)を構成している。ここは、本陣・勧請所・殼蔵・兵具蔵・長屋などがあり、少し離れた東西の給料に塩竈神社と愛宕神社を祭った。元陣屋には、二百名ほどの人々が駐屯して警備にあたったが、明治元年(一八六八)戊辰戦争の勃発によって撤収するまでの十二年間慣れない土地での仙台藩士たちの苦闘がこの陣屋跡に刻まれている。
                                        文部省

                                        白老町  』
御門石と陣屋門

外曲輪(そとくるわ)石碑
この説明史跡には陣屋の設計図といっていいのか、陣屋内の施設が分かるようにイラストのようにが刻まれている。
本陣の土台石

本陣跡井戸跡 

井戸跡は、松浦武四郎の記述にある「川水を曳き、沼地を帆って用水となし・・・というその用水かどうか・・・そうなら、なお、良いなと思っている。
其の外、勘定書跡などがある。
          
                             

松浦武四郎著「東蝦夷日誌」白老領にある会所跡を訪ねた

2016-07-11 13:42:31 | 旅行
2015年19月2日、千歳市のホテルを出発して、美沢の明治初期の「開拓使美々鹿肉罐詰制作所跡」・勇払測量の史跡を訪ねて、次にの松浦武四郎著「東蝦夷日誌」〔白老領〕に記録のある、「白老会所跡」を探しながら、史跡に辿りついた。
彼の記録は『シラヲイ(白老)(従 ホロベツ(幌別)会所、八里廿七丁、陸地七里、従 境目六里十七丁五間、制札、備蔵、会所、通行や、勤番所、板倉、茅くら、馬や、漁や)土地東南向、素〔洲〕澤、船沖懸り土地平地也。
 一里餘上に至る。山有。瓣天社・阿彌陀堂(慈覚大師作、三尊彌陀)。名義 シラウは虻の事也。此の地に多きが故號し也。土人(文政改、七十二軒、三百三十余人。安政改め、八十二軒、三百九十九人)・・・是より上(十二丁)仙台家陣屋(安政甲寅年元年立てり)有。』とあるので、白老会所跡の次には「仙台陣屋跡」を予定する。

白老会所跡は白老の下水道終末施設の横にある。

場所は白老町高砂4丁目439
 史跡は「屋根のない博物館 8」と案内
説明版には
『江戸時代の大名は領地から穫れる米の生産高をもとに何万石の大名とよばれ、これを基礎に政治が行われていた。
しかし、米を産しない蝦夷地の松前藩では、アイヌの人々との交易の権利を上級家臣に分け与え、その収入を知行(給よ)とした。
この交易所を場所といい、そこには会所(運上屋)を置いた。
その制度には、後に商人に運上金を納めさせることにおって、漁業経営のみならず場所の支配をも許すという場所請負制へと変化し、会所は行政の拠点ともなっていた。
 白老場所は、シャタイ・シラヲイ・シキウ・メップ・アイロの5つの集落からなり、秋鮭・鰯粕・昆布が主な交易品であった。・・・(中略)・・・付属施設には辨天社(白老八幡神社の全身)阿弥陀堂ななど静かな佇まいをみせていた。
その後、安政3年(1858)から仙台藩元陣屋の白老への設置とともに、地方警備の重要な要の一翼を担ったが、明治2年(1869)9月の場所請負制度が廃止とともに姿を消した』と説明されている。

白老会所跡石碑
次に、仙台藩陣屋跡や白老八幡神社、ポロト湖畔に最近できた「松浦武四郎顕彰碑」などを訪ねた。

勇払の史跡:(2)蝦夷地開拓移住の八王子同心の碑を訪ねる

2016-07-06 15:43:39 | 旅行
苫小牧市指定文化財になっている「蝦夷地開拓移住隊士の墓石」を訪ねた。
松浦武四郎著「東蝦夷日誌」のユウブツ〔勇沸〕領には『ムカワブト(鵡川河口)に至り、此處渡場なり。ゆうがたここに着、小休所(土人四軒)に宿す。ムカワ(鵡川)の原名ムカにして、延たる義也。
山中處々に涌水有。それが集まりて川と成し義也。川筋、鮭・チライ・かじか・うぐい・あめます、又、初冬の頃シシャモも入る事有。
土地肥沃、土人好て畑作をなす。往古は松前家々臣 麓小兵衛・佐藤東馬の給地なり文化度には八王子原半左衛門支配の者共来たりて畑作を開きしが、可ㇾ惜皆荒廃なせしぞイタエム、イクラムカ申口(アイヌの人)』と彼達から聞いたことを松浦武四郎は記録に残しているという場所でもある。

勇武津資料館入り口

勇払開拓史公園の石碑

勇払開拓史跡公園の所からすぐに「蝦夷地開拓移住隊士の墓」説明版が見える

説明版には『江戸時代、蝦夷地(北海道)を外国から守ることや、開拓することを考えた。
 これに志願した同心頭の原半左衛門を隊長とした100名の八王子同心が寛政12年(1800年)にはるばる海を渡ってきた。隊長を含めた50名は白糠場所に向かい、隊長の弟の新介を副士とした50名が勇払場所(蝦夷地でも交易が盛んで大切な所だった。)に移り住み、次の年には、さらに、白糠と勇払に15名づつの応援をえて警備・畑作り・道路整備・交易などを行った。
 だが、気候が違う北国の生活はきびしく、犠牲者も多くでて惜しくも解散となり、開墾地などが放棄された。 勇払原野に開拓のくわを入れた先駆者達の行いはすぐれて大きく、八王子千人同心関係の墓石を市の文化財に指定している。
    昭和31年3月10日指定
    苫小牧市教育委員会』
勇払開拓の礎 八王子千人同心顕彰之燈

勇払の史跡:(1)開拓使三角測量を訪ねる

2016-06-27 16:02:19 | 旅行
2015年10月2日
苫小牧ウトナイト湖道の駅で小休憩の後、「勇払ふるさと公園」内にある測量の史跡を訪ねた。
国道沿いに史跡の案内や石碑が見え、公園内に進んだ。
勇払ふるさと公園の石碑と案内図がある。



やや高台になった所に、階段と「北海道指定文化財 史跡開拓使三角測量勇払基点」の石柱が建てられ、その少し後ろ側に石碑や標石、青いカプセルがある。

緑の三角カプセル

一つ目の石碑には「開拓使三角測量による北海道図」とマップが刻まれているもの。

『北海道の沿岸部については、江戸時代かの伊能忠敬などの調査によって、ほぼ正確な形が把握されていたが、開拓使は内陸部のより正確な地図を必要とした。三角測量による北海道の調査は1873(明治6)年から、1876(明治9)年に中止になるまでの4年間にわたり、沿岸部の測量を完了するとともに、勇払基線から出発した三角網は全道のほぼ5分の2の面積を覆うに至った。』とその歴史が刻まれ、開拓使地理課 1875(明治8年)
勇払基点の施設で、現存しているのはディーの計画図にある花崗岩の石柱のみである。
 函館補助基線の基点発掘調査の結果、標塔の遺構が発見されたため、勇払にも、同様の施設が存在したと考えられている。
(因みに私たちは、大野町(現北斗市)にある、三角測量の標塔や、大野郷土資料館内で測量の櫓などの資料を見学してきている。 ブログ:2015年の「大野町の歴史に触れて歩く82)北海道指定史跡:開拓使三角測量一本木でアップしてます。)
参考まで・・・一本木の史跡を訪ねた時の写真
 

勇払の二つ目の石碑は中央に鎮座している標石(右側に説明版がある)

『この標石は1877(明治10)年、刊行された「北海道測量報文」にある図解を基にし、亀田郡大野町に現存する箱館助基線の標石を参考に復元したものです。現在、この史跡では勇払の基点を示す約30cm角の花崗石柱が保存され見ることが出来ますが、当初は基点の花崗石柱の上に目印となる標石や保護するための大が設置されていたようです。
 基点を保護するために置かれた石の大きさからも、基点の重要隻を知ることができます。
                                  苫小牧教育委員会』

三つ目には石碑の中に当時の外国人ディーと日本人の助手たちの様子の写真が写されている。

 『開拓使は三角測量による正確な北海道地図を作成するため、1873(明治6)年3月からお雇い米国人JAMES・R.WASSONを測量長に任命し、4月から三角測量で最初の作業となる基線のの設定に取りかかった。
ジェームス・R・ワッソン(米国人)は初め、石狩川上流に基線を考えたが、設定に必要となる見通し距離を得れることが出来ず、計画を変更し、勇払原野での調査となった。
 その結果、勇払と鵡川川の直線約14㎞に基線を設定、区間の両端に目標台と石柱を建てて基点とし、勇払基線のおおよその計測を行った。
 翌1874(明治7)年ワッソンを継いだ米国人DAY(ディー)の指揮により、勇払基線の本格的な測量が行われることとなった。
ディーと日本人助手によって計測を精密にするため、天体測量を実施した。・・・(中略)・・・
もう一方の鵡川基点は発見されていないが、この勇払基点は当時の最新技術を駆使したわが国、最初の本格的三角測量議場施設であり、ここからは多くの日本人測量技術者が祖だったと北海道史上、ならびにわが国測量史上、貴重な文化である。
         昭和42年3月17日指定
           北海道教育委員会
           苫小牧測量設計事業協会』
石碑の右下の写真について
  1874(明治7)年、全道の測量に出発するディーら一行   
と刻まれている。
測量の記念碑のあるところから、隣地にある蝦夷地開拓移住隊の碑の所へ行った。