気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

道南の中世ロマンを訪ねる:その4上ノ国・汐吹の比石館跡

2016-07-29 10:03:38 | 旅行
渡島半島西側に位置する上ノ国は歴史的史跡もたくさんある。道道5号線、湯ノ岱方面から上ノ国に入ったので、国道228号線を松前方面に向かって進んだ。大安在や木の子を過ぎ、汐吹の所に「比石館跡」の木柱がある。2016年4月に此の地を通過した時に史跡の「木柱」を見つけ、木柱から車で入れる道を侵入したが、説明版など見つけることは出来なかった。実は左側に進んでしまい、国道に戻ったのです。(史跡だから何らかの説明版があるはず・・・)。1回目の訪問で諦めたが、今回(2016年7月22日)史跡を調べ、神社や説明版があることが分かったので再訪)
この当たりの蝦夷地探検記録、松浦武四郎著「西蝦夷日誌」には松前や江良・石崎の記録があるので、参考まで、汐吹について彼は『石崎村人家七十五軒、浜形申八文向。人家川の北岸に建ち並び、川口右は馬取走(ウマトリワシリ)、左は立神社岬等有。川原広く風景よろし。土産小砂子村の如し。・・・汐吹村人家七十五軒、浜形戌の初針にシ子コ岬を見、其内一湾になりたり。・・・また、汐吹石とて汐の打ち込み時、数丈烟霧を噴上る石あり。是をウシ坂よの半腹より見るときは頗る奇也。・・・汐吹明神者等有。・・・扇子石村、汐吹村の出郷なりと』と記録がある。(比石館についての記録はないが、海岸すじの大岩重なり奇絶云べきなしと海岸の景色や戻子岬(現在の洲根子岬)(原注ス子コ)を廻れば、地形が一変して浜形太田木崎と対して、大湾をなし、・・・大島、奥尻を眺望して、実に奇観の地と云っている。
彼の記録にある「汐吹石」についての記録があるので、この石はどこどこかに残っているのだろうか?
また、館八幡神社の記録があるので、比石館にある「館神社」のことを云っているのかは未確認。。
その記録『館八幡神社、文明五年造営、順見使上所。松前家より代参有、医王山薬師堂古くより有』とあります。(上ノ国の郷土資料の方に確認したいところです。)

比石館跡木柱

説明版

「史跡比石跡」の説明版は、前回行った道の先。車から降りて、草原を岬の方へ進んだ途中にあった。
『三方が水に面した断崖となっている岬の付け根を切り下げて、空濠をつくる。地形を巧みに利用した館(砦)である。標高二五メートル、先端から壕まで二〇〇メートル、最大巾三〇メートル。平時は館下に居住していた。
 畠山重忠の一族ともいう厚谷将監重政が一四四〇年頃、渡道し築いたと伝える。
一四五七年、コシャマイン軍の攻撃で陥落、後復興された。
この時館主は館下に身を投じ、川の主、大鮫になったともいう。
厚谷氏は蠣崎(後松前)氏に仕え、寛永年中、貞政が一命を拾って藩主広を救った功により須藤場所を領した。
 館内に軍神経津主神を祀る館神社があり、一六世紀頃の中国製、国産の陶磁器、焼米がみつかっている。
道南十二館中現存する五館の一つ。
比石はアイヌ語ピツウシ、石の多い所の意。
  上ノ国教育委員会』

説明版から岬への道(誰も来ていないのか蜘蛛の巣が・・・)

館神社

神社から来た道を振り返って見た風景

日本海側の岩など(武四郎も奇岩といった風景だといいが・・・

比石館下の港

絶壁の崖にロープが・・・健脚の人が行く海への近道?)

道南の中世ロマンを訪ねる:その3茂別館跡と開拓使煉瓦製造所跡

2016-07-27 17:49:15 | 旅行
渡島半島の史跡を訪ねて、北斗市矢不来にある安東氏の館である茂別館跡の石碑を2012年、2016年3月に訪ねた。
4年前に訪ねた時には史跡にある矢不来天満宮境内に朽ちた材木が、ブルーシートに包まれていたので確認したいという思いもあった。再訪では、真新しい鳥居に改修されてあった。
また、この天満宮の守り神は牛なので天満宮と神社の区別がつかない私には解明不能。
天満宮鳥居前の茂別館跡石碑など(鳥居は天保十一年庚子五月吉日と刻まれている。)

新天満宮鳥居と牛


肝心の「茂別館跡」については天満宮鳥居の手前に石碑と説明版がある。
説明版
『茂別館跡は、嘉吉三年(一四四三)津軽十三湊城主、安東太郎盛季が館を造ったのに始まるといわれ、南の大館と北の小館から成っている。
大舘は西は茂辺地川岸に面し、南と北は自然の沢で切られ東は空濠を巡らしている。
また、小館は西は茂辺地川左岸の崖地で、他の三方は自然の沢を利用し、更に土塁を設けている。
北海道の室町時代の和人の館跡のうち、志苔館跡・大館跡・上之国勝山館および上之国花沢館の四件はすでに指定されているが、今回これで、茂別館を加え、蝦夷島中世史の解明に資そうとするものである。
   文部科学省・北斗市』と説明があり、板の左側には茂別館跡の図面に大館・小館のマップが書かれている。
指定月日 昭和五樹七年七月三日
因みに、第一回目は茂辺地川側から進んだ。(写真は2016年)川の対岸の小高い山に茂別館跡
がある。
満宮の裏参道からの入ることが出来、その裏側に「開拓使茂辺地煉瓦製造所跡」という木柱と説明版がある。
裏参道

説明版

説明の中に、この煉瓦製造所で作られた煉瓦が函館の元町公園内の「旧箱館支庁書籍庫の建物の外壁に残っている。
明治七年の刻印があるので、この煉瓦を探す。
煉瓦製造所跡は林の中
木柱


旧函館支庁書籍庫の建物と煉瓦の写真(煉瓦は逆さに刻印されていた。写真が逆さなのではありません。煉瓦を張る時に逆さ・・・のままなのです)


北斗市の煉瓦製造所と函館の旧支庁とのつながりです。歴史は面白い・・・と感じた。また何か発見できそうです。
私の史跡探訪は歩けるうち続くと自分に激で鍛えてます。

道南の中世ロマンを訪ねる:その2志苔館跡と武四郎の記録

2016-07-24 10:07:12 | 旅行
函館市湯の川から国道278号線を恵山方面に進むと「志海苔町」がある。「志苔館跡」への案内板があり、左折すると少し高台に史跡がある。(訪問日:2016年4月26日)
この館跡については、松浦武四郎著「渡島日誌巻の四に探検の様子が記録されている。
『旧事記に永正八年四月十六日志濃里(志海苔のこと)、宇須獄(岸)、与倉前は酋長為ㇾ夷敗、因ㇾ之河野季通、小林良定、今井季景等自殺(下略)と有(注釈では戦死となっている)。今此陸を見るや穴居跡多かりしが可ㇾ考ㇾ之こと也。志海苔村人家三十余、漁者にて少し農也。浜形南向き、右に尻沢辺崎、左汐首岬の間一湾なり。』と
更に志海苔について『村の上に小林氏の古塁有五丁十三間擂鉢石大岩境目也。湯の川境より八丁三十三間人家つづき一町三十間セハ澗 小澗沖に岩磯有』とあります。
松浦武四郎も志苔館を探検していたのです。
史跡入り口の石碑

史跡指定は昭和九年八月九日、追加指定が昭和五十二年四月二十七日
説明版

『志苔館跡は函館の中心部から約9キロメートル離れた標高二十五メートルほどの海岸段丘南端部に位置している。
西側には志海苔川が流れ、南がわは志海苔の市街地及び津軽海峡に面し、函館市街や対岸の下北半島等を一望することができる。
館跡はほぼ長方形をなし、四方は高さ二~四メートル、幅十~十五メートルの土塁が巡らされている。
松前藩の「新羅之訪録」によると、室町時代頃、道内には十二の和人の館があり、志苔館もその一つで、小林太郎坐左衛門良景が居住していたことが記されている。この記述によれば、康正二年(一四五六)志苔館付近はアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年五月十四日志海苔が攻め落とされといわれている。戦いの後、再び小林氏が館に除中していたが、永世九年(一五十二)四月十六日にアイヌの蜂起があり志苔館は崩落し、館主の小林彌太郎良貞が討死したために、志苔館は廃館となった』と説明が書かれている。

また、近くにコシャマインの戦いで亡くなった和人とアイヌの殉難碑が並んで建立されている。
説明版

『和人殉難・阿伊努悵魂御霊慰霊碑』と慰霊碑2基

館跡の平地の様子
 柵跡

 土塁から見える函館山の景色


道南の中世ロマンを訪ねる:その1宇須岸河野館跡

2016-07-23 19:42:13 | 旅行
2016年6月29日、自分の住んでいる街を改めて歩くと、私の空想は果てしなく・・・広がるような感じ。
何度も歩いてはいるが、その一つが函館山麓にある「基坂」付近にある「宇須岸館跡」
基坂の由来は「里標」があったということから・・・
この坂の山に向かって左側に「旧イギリス領事館」右側に「ペリーの銅像」(かつて、函館市立病院があった場所。現在は広場になって、公園広場)、坂の上には元町公園」という観光スポットにもなっている。
宇須岸館跡説明版のある景色

説明版
宇須岸館跡の説明版によると
『享徳3年(1454年)津軽の豪族安東政季にしたがって、武田信弘(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来したという。
 政通は当時「宇須岸」と呼ばれていたこの地に「館」を築いたが、これが「宇須岸河野館」で、その大きさは東西35間(約63m)南北28間(約50m)と伝えられ、四方に土塁を築き、乾壕をめぐらしていたといわれる。
この「河野館」に由来して「箱館」という地名が生まれたとつたえられている。』
因みに、私が社会科で故郷のことを勉強した記憶では「河野館」が「箱型」であったので「箱館」と名付けられたと・・・教わったが・・・果たして、どうか?
その他の説明には
『永正9年(1512年)アイヌとの抗争で河野季満(政道の子)ら一族が敗れたため、箱館は以後百余年にわたって衰徴しあっとの伝承が生まれた。・・・(略)松前藩のこの地域の行政庁「亀田番所」が「河野館」跡地にうすされて繁栄への基礎が築かれた。
寛政11年(1799年)幕府は東蝦夷地を直轄地として、享和2年(1802年)函館奉行が置かれた。
高田屋嘉平衛の活躍などもあって、箱館は大きく発展した。』
因みに、高田屋本店の跡碑(市電末広町附近に面した道路沿いにあった。

此の地が函館の行政の中心地であった。

函館奉行所跡

旧北海道庁函館資料庁舎1階は観光案内書

ペリー提督の銅像や来航記念碑がある。

旧イギリス領事館
噴水のあるガーデン。(丁度バラが満開)

道央4日目:宿泊ホテルで目にした松浦武四郎のこと

2016-07-18 12:43:16 | 旅行
2015年9月29日から道央の史跡めぐりの最終宿泊地は登別温泉でした。
宿泊のホテル

ホテルのロビーの壁に「登別温泉の歴史」という案内説明紙が目に入りました。
そこには、松浦武四郎が登別温泉の魅力を綴っている・・・とあります。

案内説明には

『大昔、アイヌの人々が薬湯として重宝していたとされる登別温泉。
江戸時代には最上徳内が「蝦夷草紙」でその存在を記し、弘化2年(1845年)に松浦武四郎が訪れた温泉の魅力を綴りました。』また安政5年(1858年)には滝本金蔵が温泉宿(今の第一滝本館)を建て・・・新たに道を整備した・・・とあります。

因みに松浦武四郎の記録は『東蝦夷日誌』のなかの
〔ホロベツ領(幌別)〕には室蘭から幌別のことを記録して
次のように書かれています。
『濱(幌別の)少し過ぎてヌプルベツフト(登別川)(川有、幅六七間)温泉川の義也。又(ヌ)は湯、ブルは強きにて、温泉強き義共云。・・・・ヌブルベツ〔登別〕越て野道也。開墾せば頗る好しからん。・・・・岩坂切通し少し下りて温泉場、今は止宿所も出来、湯治人も居たり。筵を(むしろ)を河中に敷きて浴せしが、今は川の上に屋根を架、二川(西、シュンベツ、水川也)東、クスリサンベツ、熱湯也)合わせて程よき湯にしえあひる也。硫黄にして臭気甚だし。また、岩間より先年は五六尺の噴き上がる處と二ケ所有しが、當時はなく成、其の頃観音薬師の小堂有しが、是も見えず成りぬ。其の土地も餘り開くれば、其水勢薬効も薄らぎやに思はる。』と彼は間欠泉のことにも触れ、また、温泉の将来的予測として枯渇も心配しているようにも見えた。