浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】井上ひさし『兄おとうと』(新潮社)

2014-09-04 21:41:08 | 
 井上ひさしの戯曲である。上演はこまつ座。この作品はみていない。みていないけど、戯曲は楽しい。ボクは、むかし演劇鑑賞にかんする仕事を手伝っていたことがある。演劇というのは、舞台で上演されてはじめてその良し悪しがわかるのだが、しかし台本の出来不出来も相当影響する。よい台本なら、その演劇もだいたい良いものになる。

 井上ひさしの戯曲は、できのよい台本である。だから台本だけでも面白い。

 さてこの劇は、吉野作造とその弟・信次の話し。吉野作造は言わずと知れた大正デモクラシーの旗手。10歳年下の信次は農商務省の官僚。大臣にまでなった人物である。この二人、いずれも東京帝国大学法学部を首席で卒業し銀時計をもらっている。

 立場は相当異なる。兄弟の縁が切られたり、仲直りしたり。「なぜ」と問う重要性を啓発したり、吉野作造がどういう社会事業を展開していたのかなど、大正デモクラシーの旗手という面だけではなく、実際におこなっていた社会事業についても説明される。

 仲直りの場面、幼いときに生き別れになった兄弟が、箱根の旅館で再会する場面がある。なんとその二人の生まれ故郷が、大井川の上流の山の中だって。となると、川根本町だ。

 また吉野信次の部下に、岸信介なる者もいたそうだ。

 大正デモクラシーは、いま振り返る価値がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

県都と非県都

2014-09-04 18:42:26 | 日記
 今週の土曜日は静岡市に行く。安倍内閣の集団的自衛権行使容認に関する学習会への参加である。講師は、ボクの大学時代の先輩である。

 さてボクは静岡市によく行く。浜松・静岡間のJR鈍行の交通費は、往復約2600円である。所要時間は片道約1時間余である。これがなかなかの負担である。長年所属している研究会で、現在2年間の約束で責任ある立場にいるので、ほぼ毎月参加している。もちろん交通費などは自弁である。

 もうひとつ、静岡県の社会運動史編纂の仕事にも関係しているのでこれも毎月静岡に行く。こちらは車で行く、所要時間は片道1時間20分くらい。ここは鈍行の往復交通費が支給される。最低でも交通費が支給されるのはありがたい。

 さて静岡県全体に関わることがあるときは、非県都に住む人々も、静岡市に行かざるをえない。静岡市に行くことが時間的にも経費的にもたいへんなところに住んでいる人々もいる。浜松市なんかまだ条件がよいところだといえよう。

 静岡市に住んでいる人々は、非県都から集まってくるということのたいへんさを理解していない。

 ボクも、県都・静岡に行く回数を減らさなければならないと思うようになっている。なかなかたいへんなのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】高橋敏夫『井上ひさし 希望としての笑い』(角川新書)

2014-09-04 13:58:43 | 
 飯沢匡という劇作家がいた。飯沢は『武器としての笑い』(岩波新書)を書いた。飯沢の劇は、笑いがまさに権力と戦う武器となっていた。

 そして井上ひさし。彼も「笑い」を大切にした。井上作、こまつ座上演の劇はたくさん見た。いやそれだけではなく、ボクは彼の戯曲を購入して読んでいる。

 彼の劇は、厖大な集積された知識の上につくられる。たとえば夏目漱石なら、彼は全集はいうまでもなく、その評伝など関連文献を読みあさり、そのうえ、その人物をまったく異なった視点から見させる奇想天外の劇に仕立て上げる。その見事さ。いつもボクは、彼の劇と戯曲に感嘆の声を上げていた。

 飯沢と井上の共通点は、現在の社会、政治のあり方を凝視し、そこに孕まれている矛盾を止揚することを意識しながら、劇をつくってきたということだ。

 そしてその方法的な違いは、「武器としての笑い」と「希望としての笑い」である。

 時々、ああ井上ひさしはもう亡くなっているのだ、と思うことがある。雑然とした書庫に、彼の作品を発見するときだ。彼の戯曲は決して長くはないのだが、そのなかにはものすごい量の知識が詰まっている、そうした文を書かなければならないとボクも思うが、とても真似は出来ない。しかしそうした方向性を以て、ボクは仕事に取り組む。

 この本にも、井上の「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに ゆかいなことをまじめに」のことばがあった。

 そして高橋敏夫は、井上の笑いを繙いていく。

 ・・笑いは絶望のさなかに、点灯させる。はるかかなたに点灯させるのではなく、笑ういまとここで点灯させる。だとすれば、笑いは遠くの希望に繋がるというより、それじたいすでに希望のあらわれではないか。

 高橋は、井上の生き方をこう記す。

 現実認識はあくまでも暗く深刻に。そしてそんな現実を変更する実践においてはあくまで明るくはつらつと。

 井上の劇の台詞には、ボクたちを激励するものがふんだんにある。

 小さな火花も 広野を焼きつくす
 大きな火事も 一本のマッチが火付け役
 小さな堤防も 蟻の穴から崩れ去る
 小山のようなご馳走も 一口ずつ食べなきゃなくならぬ
 万里の長城も 石ひとつから始まった
 どこかでだれかが 小さな火花を燃やすかぎり
 人間に人間に まだ望みは残されている
 小さな火花も 広野を焼きつくす
 広い海原も 小さな水滴の集合
 深山の森林も 一樹一樹の木の連合
 満天の星空も 小さな星屑の大合同
 百年の歳月も 一日一日の集大成
 だからだれでもが 小さな火花になるべきだ
 そうすれば人間の 未来に期待が持てるだろう


 (『道元の冒険』より)  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする