浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

まじめであること

2014-09-16 21:13:25 | 日記
 昨日ボクは、「シュトルム・ウント・ドランクッ」という映画を見た。大杉栄の周囲にいた人びとをとりあげたものだ。その人びとは、ギロチン社、労働運動社に集っていた。

 1923年9月16日、大杉栄、伊藤野枝、橘宗一が甘粕ら憲兵隊に虐殺された。ギロチン社、労働運動社の人びとは、その報復を企図した。その経緯については、とりあえず鎌田慧の『大杉榮 自由への疾走』(岩波現代文庫)を参照していただきたい。

 映画は、彼らを描くのだが、彼らは、まったくふまじめだ。ふまじめだけではなく、ドジでもある。暇があれば花札をし、そばを食べ、ある者は遊郭に行く。彼らは、徹底的に戯画化されて描かれていた(「戯画」という語の意味には、風刺というものがあるが、風刺という側面はなかった)。

 ボクは、映画を見ていて、もっていた彼らに関するイメージがからかわれたような気がした。あの時代、社会変革の可能性に賭けた人びとは、もっともっとまじめに生き、真剣に討議していたはずだ。そうでなければ、社会変革の活動はできない。

 ボクは、まず映画の内容に幻滅を感じた。

 この映画の評価をネットで探したが、内容的なところでの批評はみあたらない。色彩や効果音など、そういう面に関する言及がほとんどだ。

 この映画、ボクが学生の頃よくみていた「前衛劇」にきわめて似通っていた。「前衛劇」は、「意味」があるような台詞や場面をちりばめ、なにやら哲学的に深いように思わせながら、結局「意味」はなく、ただその劇を見ている間、楽しめれば(この場合の「楽しみ」はきわめて多義的な意味でつかっている)よい、というものであった。

 この映画も、題材を大杉とその周辺の人物を描きながら、基本的には彼らの存在そのものの意味なんかどうでもよいのだろう。

 昨日の講演も映画も、「軽チャー」であった。それが若い世代にはうけるのだろうか。

 先日、you tubeで児童文学者の清水真砂子さんの講演を聴いた。今の若い人びとは、まじめなことを話す場がないという指摘があった。しかし、真面目であること、まじめに取り組むことはとても大切なことだと思う。昨日の講演と映画には、それがなかった。

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こりゃ、ダメだ

2014-09-16 07:53:24 | 
 『現代思想』昨年の9月号、特集は「婚活のリアル」である。ボクはこの『現代思想』を購読している。昨日、栗原康氏の論文が掲載されているというので、引っ張り出してきた。栗原氏の論文は「豚小屋に火を放て 伊藤野枝の矛盾恋愛論」である。全文約11頁。しかしその半分以上が、自分自身が結婚を前提につきあった女性との出会いから別れまでの顛末である。

 そのなかに、栗原氏が収入が極端に少ないこと(つまり働かないこと)、奨学金の借金が700万円近くあることを記した箇所があった。そのことは、昨日の講演でも話されていたし、夜行社発売の大杉栄の「評伝」のあとがきにも記されていた。

 彼はいつも「負債」のことを考えているようだ。そしてその「負債」からの解放を願っているが、そこからの解放は絶望的である。その状況が、大杉理解にも反映する。

 栗原氏の論の進め方、そして大杉や野枝に対する評価もワンパターンである。この論文でも、ほとんど自分のことを書いているのだが、野枝の思想について言及したところは、野枝の文を引用し、自分自身の生き方を正当化できるようにみずからの「解釈」を記していく。大杉の評伝でも同様である。

 そしてこの論文の終わりのところで、大杉の「相互扶助論」について言及する。彼は2011年の東日本大震災で放射能を避けて愛知県に逃げるのだが、そこで友人たちの世話になる。自分に焼酎をくれたり、ゆで卵をくれたりしたことを「生の無償性」として、それが「相互扶助」だと「ようやくわかった」ようなのだ。だが、読んでいると彼はいつも一方的に「扶助」され、みずからが「扶助」することはない。「相互扶助」ではないのだ。

大杉や野枝についての「評伝」は、みずからの生と切り離したうえで書かれるべきなのである。


  
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