浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】加藤智大『解』(批評社)

2014-09-23 22:42:01 | 
 実を言うと、読み通せなかった。ボクには理解できない人物であることはわかった。

 加藤という人物は、どうも他者との関係をうまく結べない。ボクらが他者と普通に行っているコミュニケーションも、円滑にできないようで、他者の言葉を素直に受けとるのではなく、自分自身がその言葉に不必要な解釈を加えてしまう。

 だから、いつも孤立している。しかし孤立しているのがいやだから他者を求める、しかし他者との関係がうまくいかない、他者との距離のとり方がちぐはぐで終わってしまう。

 秋葉原無差別殺傷事件のような事件が起きないようにするためには、「なぜ」という問いに何らかの「解」が与えられる必要があるのだろうが、ボクにはとても難しかった。

 とにかく、読み通せないのだ。

 図書館から借りた本である。
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過去の歴史書

2014-09-23 19:33:14 | 
 必要があって、1975年に出版された『日本民衆の歴史7 自由と反動の潮流』(三省堂)を読んでいる。この巻は大正デモクラシーの時期を対象としている。

 書かれてから約40年が経過しているわけだが、読んでいて素晴らしい内容だと思うし、内容は決して古くなってはいない。大正デモクラシーを低く評価する考え方もあるが、この本は大正デモクラシーを積極的に評価し、自由民権運動と戦後改革につながるものとしての位置づけを明確にしながら、自由や民主主義に関わる様々な事例を掘り起こしている。

 文章は躍動感に満ちている。その後に出版された数々の大正デモクラシー関係の文献をはるかに凌駕する内容であると思う。

 しかしふとその理由を考えてみると、1970年代は、民衆の様々な運動が展開し、平和と民主主義を求める思想が周辺に転がっている時代であった。そういう社会的雰囲気の中で、大正デモクラシーについて書くことは、その当時、すなわち「現在」のそうした運動などをイメージしながら、かなり楽観的に書いていくことができたのではないかと思う。社会全体は、よりよい方向に動いているという実感があった。

 いま、大正デモクラシーについて書くとすると、どういうイメージになるのだろうか。

 この本を読んでいて、研究も時代の雰囲気に大きく影響されるということを実感した。

 同時に、こうした躍動感ある研究は、年齢を重ねるとなかなかできなくなるのだということ、引退する「時」というものがあるのだということ、を考えた。


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公正さ

2014-09-23 07:25:35 | メディア
 週刊誌には、正義感とかそういうものが少しはあるものかと思っていた。たとえば『週刊現代』は、2011年の福島原発事故に対し、多少の真実を追及する姿勢を持っていた。『週刊文春』、『週刊新潮』は、一貫して日本に於ける右派メディアの位置を確保していたが、最近は『週刊現代』すらも、『週刊ポスト』とともに、その一角に食い込んできている。

 そこでわかったことは、週刊誌というのは正義感も公正さも持ち合わせていないメディアであり、とにかく売れればよいというのが唯一の方針であるということだ。考えてみれば、商業メディアにおいては、テレビも視聴率至上主義で、テレビ関係者がその数字に一喜一憂するように、すべては経済原理で動いているのである。メディアとはそういうものだ。

 だから『朝日新聞』叩きで売れると思いきや、その渦の中に入り込んで書きまくる。

 一般庶民もそれを読んで、たとえば「従軍慰安婦」はなかった、などという歴史の真実を否定するような認識を持つ。そしてその庶民のなかから、かつて「従軍慰安婦」のことを報道したもと朝日新聞記者と彼の現在の職場に対して様々なかたちで圧力をかける。

 日本の歴史は繰り返されると思う。1935年の「天皇機関説排撃事件」のときもそうだった。庶民は「天皇機関説」のなんたるかを知らないままに、当時の政友会や右翼、そしてメディアの尻馬に乗って、美濃部達吉攻撃の陣にはせ参じて行った。そして美濃部は、右翼テロリストの凶弾を浴びる。

 立花隆は、「そのような大変化が、わずか一年の間に起こったのである。それからは世をあげての天皇機関説排撃=国体明徴運動に官民ともに邁進していき、「国体を破壊する逆賊は殺して当然」というテロの時代が訪れることになる。・・・世の中が変わるときは、どれほど短い期間に、どれ程鋭角的に変わってしまうものかを知って、空恐ろしくなった。そのときと同じとは言わないが、似たような国民感情の大転回が、もしかしたらいま現在の日本にも起きつつあるのではないか」(『南原繁の言葉』東大出版会、2007年、7頁)と語る。

 過去のこうした悲劇的な歴史を、メディア関係者は知らない。自らがカネのために行っていることが、歴史に大きな汚点をつくるかもしれないという気概などさらさらない。歴史を知らないメディア関係者。

 さて、先日も記したように、『読売新聞』も虚偽の証言をした吉田清治氏のインタビュー記事を載せている。『朝日新聞』は、8月にそれを間違いであったと訂正した。『読売』はどうか。『読売』は、みずからの行為には頬被りを決め込んで『朝日』攻撃に全力をあげる。『読売』には、公正ということばがないようだ。

 いや、すべてのメディアにそれはないと言えるだろう。

 池上彰氏は、週刊誌のコラムで「罪なき者、石を投げよ」を書いている。メディアに公正さがないことを衝いたものだ。彼が体験した事例をあげ、今回の『朝日』攻撃を問題視した文だ。「業界全体」への「失望」を招き寄せる事態だと、池上氏は危惧している。

 メディアは、過去から未来へとつながる「現在への歴史的責任」を感じないのだろうか。
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