浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】曽我逸郎『国旗、国歌、日本を考える』(トランスビュー)

2014-09-08 18:35:59 | 政治
 長野県中川村の村長さんの本である。実はここに記されているものの一部は、長野県中川村のホームページや曽我氏の個人ホームページで読むことが出来る。

 村長・曽我逸郎氏については、このブログで何度も紹介している。自治体の首長は、こういう人がなるべきであるが、多くはいまの議員諸氏と同様に、みずからの思想や政治家としての理想など一切持たず、地位・名誉・財産を得たいという人々が就任している。とくに地方自治体の場合は、いかなる人物であるかは問わないで、地元に利益をもたらす人が当選する。だから知性や教養はいらないのだ。答弁書は自治体の吏員がつくってくれるから、アホでもできる。
 しかし曽我氏は、京都大学で仏教哲学を学び、あの「電通」に勤めていた人物である。中川村の村長としては、「出たい人」より「出したい人」として立候補して当選。だから「出された人」である。

 本書の帯には、「空気に流されることなく、言いたいことは思い切って口にしよう。いま言わなければ、何も言えなくなる日がすぐそこに迫っているー」とある。この時代認識を、ボクも共有しているからこそ、曽我氏が時折発することばに注目しているのだ。

 本書に記されているのは、署名のとおり、「国旗・国歌」や戦争責任のこと、TPPのこと、原発事故のことなど多岐に亘っている。その根本にある思想は、日本国憲法の思想であると、ボクは思う。

 日本人として、いま考えなければならないことが、平易な言葉で綴られている。
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学力テスト

2014-09-08 08:01:31 | 日記
 全国統一の学力テストの実施については、ボクは明確に実施自体に反対である。子どもの学力なんて、一回のテストだけではわからないし、またその時点で行ったテストは、子どもにとっては一通過点でしかない。そういうものに対してわーわー騒ぐことなんかすべきではない。

 静岡県の県知事は目立つことが好きだ。そうすることによって注目度を上げたいのだ。

 前回の学力テストでも、小学校の国語の点数が全国最低であったから、ということで、平均点以上の学校名を公表した。公表された学校が新聞でも報道されたが、浜松市では特長としては地価が高く富裕層が集住しているところ、田舎で子どもの数も少なく外国人もあまりいないところの平均点が高かった。

 今回も県知事は、市町村別の平均点を公表した。ボクはそれぞれの地域の特長はわからないので何とも言えないが、おそらく前回の特長と同じ傾向だろうと思う。

 要するに、子どもの学力は家庭の経済力・教育力、学校の規模などの条件に大きく左右されるのである。ならば、自治体がすべきは、子どもの家庭の経済状態を改善する施策、子どもの教育にもっとカネを投入して先生の数を増やし少人数教育をすればよいのだ。そしてとくに外国人の子どもがいるところについては、子どもに対応した個別指導体制をつくることだ。そういうことを何もしないで、現場に対して叱咤激励だけをする。なんとまあ楽なことか。自分は何もしないで騒ぐだけ。

 だいたい静岡県は教育にカネをかけない県だ。校舎だって、他県と比べると見劣りがする。廊下の広さなんかも狭い。子どもに読書をすすめるなんていいながら、本を買うお金も出し渋り、学校図書館法で定められた司書もおかない、それでいてスポーツの部活動に異常に力を入れる。

 
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謙虚であること

2014-09-08 00:23:05 | 日記
 学問研究に従事する知人があんがいいるが、そのなかには、2種類の系統がある。ひとつは、ものすごい力をもった研究者なのに、決してそういうことを誇らないで、ボクのような人間に対等に接してくれる人、もうひとつは「ボクは・・・なんだ、すごいでしょ!」と、いかに自分自身は博識で立派な人間であるかを語る人、その二つである。このように分けても、後者のほうが圧倒的に少ない。ボクの知人には、3人いる。今日、一人増えた。

 帰宅してから、友人からすごいひとがいるから来い、という連絡を受けた。20時頃、来いといわれたところに行ってみると、年老いた方が大きな声を張り上げていた。一目で、後者の系統の人であると見抜いた。来なければよかった、と思ったが、我慢して対応した。

 その方は、自治体問題の研究者であり実践家のようだが、たとえば長野県で合併しなかった町村は、「俺が講演に行ったからだ」というようなことを話された。また、浜松市に併合された三つの町村でも、合併前に講演に来たことがあるとも話された。矛盾である。しかしその人は、この矛盾に気がつかない。

 後者の人の特長は、たとえばボクがあることについて話すと、それについて「ボクはそれはよく知っている、それについては○○年も研究している」などと受ける。いろいろな分野で、「知ったかぶり」を示す。分野が全く異なっていることでも、すべてよく知っているという。話していると、それが早とちりであることが判明してしまうのだが・・・

 ボクは、学問というものは、いかなる分野であっても、研究には終わりがない、無限であると思っているので、どの分野についても「俺は知っているぞ」なんていう人は信じられない。

 昨日講演をお願いした学者は、ほんとうはすごい学者であり、『新憲法の誕生』という本は、読んだときに「これは名著だ!!」と直感したほどの研究者なのに、みずからそれを誇ることはしない、実に謙虚に対応して下さる。ほんとうに「能ある鷹は爪を隠す」なのだ。

 ボクの周辺には、第一の類型の学者が多いので、ほんとうにありがたい。ボクはそういう人びとの姿勢をみて、みずからも謙虚でなければならないと戒めている。

 今日昼間、富士市に行ったが、そこは第一の類型の方ばかりなので、たいへん落ち着いて仕事が出来た。

 後者の類型の方には、敬意を表しながら遠ざかるということをモットーにしている。今日夜お目にかかった方についても、二度と会わないようにしよう。
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