浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

憲法

2014-09-29 22:06:36 | 近現代史
 今日静岡へ行った。今月は5回目である。静岡へ行くのもなかなかたいへんで、つくづく浜松県があったらと思う。1871年11月から1876年8月(だったかな?)まで浜松県はあったのだが、静岡県に併合されてしまった。

 それ以降、静岡が県庁所在地で、静岡県は東西に長いので、県全体に関することは、皆静岡市に足を運ぶことになる。静岡市周辺に住んでいる方々は、周辺から県庁所在地に行くことがなかなかたいへんであることを想像できないようだ。

 今日は車で行った。高速道路を使わずに国道一号線を走るのだが、ほとんどが片側一車線なので、合流地点になると渋滞が発生する。その渋滞の中を走る。最低1時間30分はかかる。

 関西地方~山陽道を走ったことがあるが、そちらは東西に走る道がたくさんあって、片側二車線はあたりまえ。ボクは、東海道は金を払って高速道路を使わせる、という交通政策があるのではないかと思っている。カネを出したくない奴は渋滞を甘受せよ、という政策ではないか。

 さてそんなことはどうでもよい。今日は朝鮮戦争の時期の『静岡新聞』を読んだ。戦争が続いている間は、1面はほとんど戦争の記事で埋められている。まったく「戦時下」のようだ。

 すでにこのとき、日本国憲法は施行されているのだが、しかし現実には、日本国憲法は骨抜きになっている状態がうかがわれる。「思想の自由」なんて侵害されてあたりまえ、というような状態であった。

 日本国憲法は、制定・施行されてから、自覚的な人々によって少しずつ獲得されてきた、といえるのではないか。まさに人権は、第九十七条の「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。 」のであって、「自由獲得の努力」は必要不可欠であるのだ。
コメント
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