浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

侮辱

2012-11-18 20:41:41 | 日記
 今日の『中日新聞』(『東京新聞』)の社説は、考えさせられます。読んでください。

 「私たちを侮辱するな」という題です。


 見出しの「侮辱」とは極めて強い言葉です。ひどい扱いを受けた者の発する言葉です。政治にせよ、原発にせよ、私たち国民は、侮辱されてはいないか。


 手元に一通の手紙があります。学校で国語を担当されていた元先生からです。この夏、東京であった脱原発の市民集会に出かけた時のことが記されていました。


 こんな内容です。


 …何人もの演説の中、一番心に響いたのは作家の大江健三郎さんが述べた「私たちは侮辱の中に生きている」という言葉でした。

◆大江さんのスピーチ


 その言葉は、大江さんも紹介していたそうですが、福井生まれの昭和の作家、中野重治の短編小説にある文句です。中野はプロレタリア文学で知られ、大戦前の思想統制では自身も激しい国家弾圧に遭っています。


 その短編小説は、昭和三(一九二八)年、全日本無産者芸術連盟(略称ナップ)の機関誌に掲載された「春さきの風」。検挙された同志家族をモデルにしています。


 思想をとがめられた検束で父とともに母と赤ん坊も警察署に連行される。その赤ちゃんの具合が悪くなる。ろくな手当ても受けられずに亡くなってしまう。母親はもちろん医師を頼みましたが、無視された。理由のない平手打ちを受けるばかり。


 小説はそれらの動きを、きびきびとした文体で描き、最後は母親が留置場の夫に手紙を書く場面で締めくくられます。


 母親は砂を巻く春風の音の中、死んだ赤ん坊はケシ粒のように小さいと思う。そしてこう書く。


 「わたしらは侮辱のなかに生きています。」(「中野重治全集第一巻」筑摩書房より)


 中野重治が実体験として記した侮辱という言葉、また大江さんが原発に反対する集会で引いた侮辱という言葉、その意味は、もうお分かりでしょう。

◆デモクラシーの軽視


 権力が民衆を、国家が国民を、ほとんど人間扱いしていないのではないかという表現にちがいありません。


 つまり倫理違反なのです。


 先日、東京電力は、原発事故時のテレビ会議記録を新たに公開した。二回目の公開です。


 その中に自家用車のバッテリーを集めるというやりとりがありました。原子炉の圧力が上昇し、蒸気逃がし弁を動かすためバッテリーをつないで電源を確保しようというのです。しかも足りなくて買うお金にも困る。


 備えも何もなかったわけですから、社員らの苦労も分かります。しかし、これを知った福島の被災者らはどう思ったでしょう。


 東電も国も、その程度の取り組みと真剣さしかなかったのか。住民の守り方とはそのぐらいのものだったのか。言い換えれば、それは侮辱に等しいでしょう。


 侮辱は継続しています。しかもデモクラシー、民主主義の軽視という形で。


 原発で言えば、大飯の再稼働はろくな検証もなく、電気が足りなくなりそうだという理由だけで決まりました。国民の安全がかかわる問題なのに、これほど非民主的な決定は前例がないでしょう。


 沖縄へのオスプレイ配備も、米兵事件に対するその場しのぎの対応も侮辱にほかなりません。国家が人間を軽視しているのです。


 原発から離れれば、一票の格差を放置してきた国会とは、デモクラシーの不在も同然です。立法府だけではなく、最高裁が「違憲状態」と判示しつつ、違憲であると踏み込めなかったことは、憲法の番人としての責務を果たしえたか。疑問は残ります。


 今の政治には、ほとほとあきれたと多くの人が口にします。それはおそらくはデモクラシーの軽視に起因していることで、国民は自分の権利の蹂躙(じゅうりん)を痛々しく感じているのです。政治に侮辱されていると言ってもいいでしょう。


 その状況を変えるには、何より変えようという意思を各人がもつことです。デモや集会はその表れの一つであり、選挙こそはその重要な手段です。

◆戦うべき相手はだれ


 冒頭の国語の先生の手紙は今、自分の抱える恐ろしさをこんなふうに表していました。


 …(中野重治の)戦前と違って現代は戦うべき相手の姿が明確に浮かび上がらない分、かえって恐ろしさを感じます…。


 戦うべき相手は広範で、しかも悪賢く、しっぽすらつかませないかもしれません。政財官などにまたがる、もやもやとした霧のようなものかもしれない。


 しかし、こう思ってその相手を見つけようではありませんか。一体だれが私を侮辱しているのか、と。私たち自身の中にそれは忍び込んでいないか、と。投票の前に見つけようではありませんか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史に学ばないということ

2012-11-18 09:40:19 | 日記
 総選挙が始まる。今日の新聞に、全国の立候補者の名前が載せられていた。候補の中に社民党公認がほとんどいない。「東京」の比例区でも、ひとりも立候補していない。反原発、TPP反対、消費税反対などを主張する政策としてはもっとも純粋な政党なのに、立候補者がいない。考えてみれば、小選挙区制が導入されるとき、小選挙区制では当選がおぼつかなくなることをわかっていて社民党(当時日本社会党)は、導入に賛成した。「自滅」である。当時の日本社会党も、マスメディアに扇動された「政治改革」という波に呑まれたのだ。

 小選挙区制は二大政党制をつくりだす、日本では二大政党制が必要なのだというかけ声が一斉に、政界やマスメディアからだされ、「政治改革」という名の下に小選挙区制が導入された。しかし戦前、日本でも小選挙区制が導入された時期があった。しかし、それが日本の政治風土にはあわないということから、小選挙区制は導入されずに来ていたのだ。

 今日の『中日新聞』の書評欄に、『昭和戦前期の政党政治』(筒井清忠、ちくま新書)の紹介があった。私は未読ではあるが、「“内輪の政争に明け暮れ、実行力・決断力なく没落していく既成政党と一挙的問題解決を呼号し、もてはやされる『維新』勢力”という図式が作られやすいという意味で、歴史は繰り返す」が引用されていた。1930年代、その『維新』勢力が、無謀な戦争へと歩んでいく戦時体制構築の露払いを行ったという歴史的な過去を思うとき、今回の総選挙に不安を覚える。

 その不安は、以下の事実によって増幅される。

 「日本維新の会」と「太陽の党」が合体し、石原慎太郎が代表となったという記事もあった。石原は、最後のチャンスとして、内閣総理大臣の座を射止めようとしているのだろう。日本企業に莫大な損失を招いた「尖閣」を引き金にした日中の不毛の対立を引き起こした張本人である。もし彼が首相になったら、東アジアは外向的に対立が渦巻く危機的状況になり、また日本の輸出入のトップを占める中国との貿易関係も吹っ飛び日本経済も危機的状況になるであろう。

 永遠の隣国である中国や韓国などとの間に「領土問題」などがあっても、すぐに解決することは無理であるから、とにかく話し合いで信頼関係を築き(信頼関係をつくりだすのは長い時間が必要だが、信頼をなくすのは一瞬でできる)、双方が譲歩しながら平和共存関係にもっていくこと、これしか解決策はない。

 失礼ながら、高齢の石原に2010年代の国政をまかせるわけにはいかないのだ。

 歴史に学ぶという姿勢が求められる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする