馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
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伝安土城… 探訪講座 中編

2019-03-11 22:03:06 | 城跡

滋賀県主催連続講座、本年度最後の城郭探訪。

枡形の黒金門から山頂城郭になる。



次々に高石垣が出現する。



信長時代の石垣もあるが、現代になって復元されたものもある。



足元の石段も同じく。
だから、どれが本来の石垣か、素人には見分けがつかない。
看板などで表示してくれるとありがたいのだが…



二の丸には現在、信長廟がある。



以前、登った時はこの横に百名城スタンプが置いてました。



ここで押しましたよ。
現在は入口の料金所にあります。

そして、本丸へ。



本丸は二の丸と三の丸の間に挟まれていて、穴蔵のように一段低くなってる。


本丸が二の丸、三の丸より低い位置にあるなんて、おかしいと思いませんか!
本丸にしろ二の丸にしろ後世に便宜上名づけれた符号。
だから、二の丸が本丸だったかも?

もし、今の本丸が本来の本丸なら、
高床式の寝殿造りのような高層建物で、三の丸と渡り廊下で繋がってたのかも?
などと我が輩は妄想してます。

三の丸の奥にも登城道があり大手道と繋がってる。



高石垣も残されてるが、現在は三の丸方面へは行けません。



搦手道や曲輪群も行けない。



なんとか整備してほしいものですな。

そして、『天主跡』



現在は礎石が残るのみで、こちらも穴蔵のような状態のまま。

中央に礎石の無い区画がある。


ここが心柱跡と推定されてる。
今回案内してくれてる発掘担当者の話によると、ここを掘ったが柱跡の痕跡がみつからなかった。
抜き取った痕跡も無い。
地山に突き当たる一番底まで掘ったそうです。
さて、ホントに心柱がここにあったのだろうか?

40数万円かけて模型の安土城天主を造った我が輩としてはとても気になる。
造った天主の構造はデタラメだったりして…

案内役の発掘担当者の話が盛り上がってきたなか、
突然、またしても、某滋賀県知事さん登場!
例の美人才女の秘書?さんも連れてる。

午前中、大津市で琵琶湖開きのセレモニーがあった。



その後、急いでやってきたようですな。
安土城天守再建の意気込みに燃えてるようです。


『現在残されてる遺構から、みなさんそれぞれの歴史を感じとって見てください。
歴史を想像する楽しみも大事なのです。』

ん?
担当者さん、なんか話のトーンがダウンしましたよ。
歯に衣を着せたような、八方美人のような、当たりさわりのない話しぶりに変わってきましたよ

知事さんに気をつかってるの?

我が輩が代わりにに言いいましょうか。

名古屋城天守再建は、絵図や設計史料などが全部揃ってるので、忠実に再建することは可能です。
安土城天主に関しては、まともな史料がない。
建物の構造がどんなものだったのか、さっぱりわからなくて諸説ある。

そんな状態で、何の根拠もない天主を再建するなんて、無茶すぎやしませんか?

大手道も本丸も二の丸も三の丸も家臣屋敷もみな場所は推定。

どれもこれも『伝』。


しかもここは国特別史跡に指定されてる。
いわば国宝の場所。
さらに、総見寺の私有地でもある。
制約がありすぎ!
再建のための膨大な経費を、安土城全体の整備に使ったほうがいいと思うのですがね。


天守が焼けた痕跡の礎石




後編に続く



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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伝安土城…探訪講座 前編

2019-03-10 21:57:00 | 城跡
昨日は、滋賀県主催連続講座、本年度最後の城郭探訪がありました。

最後が良ければすべて良し!
上天気すぎるほどの上天気になりました。
まさに探訪日和☀️

安土駅に集合。

某県知事が、安土城天主を建てたい!
と、爆弾発言されたので、安土城の人気沸騰。
募集定員90名以上の参加者があり、早くにソールドアウトしたとか?

我が輩としては、城下町も城もほぼ行きつくしてるので確認のために参加したようなものだったのですが…


100名の大軍団が町内を移動。

下街道(朝鮮人街道、上洛道)を進み、
安土城に到着。

山に登るのは5、6年ぶりかな?
すったもんだの末、トイレと駐車場は無料になったが、入場料は700円に値上げされてる。

同じ特別史跡のひこにゃん城と張り合ってるようです。

人数多すぎるので、2班に分かれて登城。

なんと、おもてなし武将隊がお出迎え。

武将隊のうちの1人はたぶんあの人だと思うが…

伝大手道と言われる石段を登ると最初に左手に見えるのが、伝羽柴秀吉邸跡。

あくまでも「伝」です。
確定してるわけじゃない。
右手の向かいには、伝前田利家邸跡。

秀吉と利家は仲が良かったという理由で名づけられた。
何の根拠もない命名ですが、名づけられると、いつのまにかこれが一人歩きする。
伝がとれて、ホントにここに羽柴邸と前田邸があり、
隣合わせなので、おねさんとまつさんが味噌汁のやり取りをした、
などというまことしやかな話がでっち上げられて、観光ガイドさんが観光客に面白おかしく話してるとか?

いやはや困ったもんですな。

さらに前田邸の上の現在の総見寺は伝徳川家康邸となってるが、当時信長の家臣ではなかった家康の屋敷がここにあるはずがないのです。

石段に石仏がいくつも残されてる。

お賽銭をあげてる人もいます。
石仏を石段に使うなんて信長はけしからんヤツだ!
と怒る人も多いのですが、信仰観念というものは時代と地域によって変化するものなのです。

戦国時代、石仏を石垣の材料として使用した例は、いくつもある。
石段に使う例は聞いたことないぞ!
踏絵のつもりか?
という人もいる。
せめて、石仏を立てるべきなのでは?
そんなわけで、発掘担当者は、横倒しになった石仏を立てた。
すると、地元の人から怒られたそうです。
石仏には霊がやどっている。
封じ込められてる。
その霊がさ迷うことになる。
どうしても立てるならそれなりの供養をすべきなのだとか?

なるほど、難しいものですね。

山頂の守備の肝心要ともいうべき黒金門に到着。

折れ曲がりの枡形といわれる部分で石垣に巨石が使われている。
そして、これより上の石垣には赤っぽくなったものが散見されるようになる。
安土城炎上の痕跡です。

これより山頂の主要城郭内になる


後編に続く

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近江宮川藩、その2

2019-02-27 22:00:00 | 城跡

2019年2月23日(土)

 講座【宮川藩と堀田氏】

 陣屋は、現在の長浜市宮司町にありました。
長浜市といえば、井伊家の領地や天領が多い地域。
そのなかにあって、あえて宮川に藩がつくられたのは、
交通の要衝だったから。

 後日、小谷道歩きをアップする予定なので詳細は省略するが、
米原と小谷を結ぶ小谷道が縦に通る。
交差する道は「長浜街道」で、長浜城下町と北国脇往還の春照宿を結ぶ。
その先は中山道へ繋がるわけです。

宮川は、両街道が交わる場所として重要視されたようです。

 現在、陣屋の建物は何も残ってない。

日枝神社の前に石碑があるだけ。


この近くに宮川藩の世話役をしてた垣見家の屋敷があった。


垣見家は、神崎郡能登川町垣見の出身。

後日いつか、朝鮮人街道歩きをアップする予定だが、現在の能登川駅付近に「垣見」地名があります。
戦国時代、垣見氏は浅井氏の家臣となり活躍したが、浅井家滅亡後は宮川村の豪農となり、宮川藩の実質上の現地支配を担当。
年貢納入など政務をおこなっていたようで、
この垣見家文書と日吉神社文書で藩の様子をだいたいうかがい知ることができたわけです。

というか、宮川藩のような小藩は、現地の奉行としての業務を武士じゃなくて農民に任せていたというのがびっくりポンですな。

 
江戸時代、譜代大名は、その領地がバラバラなことが多い。
井伊家のように湖東湖北にまとまって領地がある例は極めて稀。
宮川藩もご多分にもれず、領地が分散されていて、
本拠の近江国坂田郡の他に甲賀郡、蒲生郡、愛知郡で、一万石。
さらに加増された3000石は、同じく近江国野洲郡と滋賀郡にあった。

今回の企画展示のために、
蒲生郡と滋賀郡の領地に出向き現地調査されました。

まず、

『滋賀郡大物村』
以前当ブログでちょこっと触れたことがあるが、「百間堤」が築かれた大津市(旧滋賀郡志賀町)の村です。

 
幕末、嘉永5年、暴風雨に襲われて四ツ子川の堤防が決壊し、大被害となった。
そこで、領民が宮川藩に堤防の建造を要望した。
藩は領民に米40俵を貸与、

約13000人を動員して百間堤を完成させました。

詳細は、西近江路歩きで後日アップする予定ですが(←予定ばっかり?)、
現場の石積みは、ホントにびっくりポンですよ!

お城の石垣も真っ青なほどの堅固な出来ばえ。

たかが、堤防のためにここまでするか?と思いたくなる。

四ツ子川沿いを上流へひたすら歩く、どこまで行くねん?
と、心配になるが、
突然、立派な石垣が登場する。

その圧巻を是非とも体験してほしいものです。
国の史跡にしてほしいわ。

なお、井並学芸員さんは現地探訪を前館長さんにお願いしたそうです。
我が輩に言ってくれれば、画像提供したのに!
なんなら、現地案内しますよ。

若い女性が一人で行くのは、怖い場所なので。

いや、お前のほうが怖い?
送り狼になりかねん、てか?

 


その3に続く



馬《●▲●》助ヒヒーン

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近江宮川藩、その1

2019-02-26 17:32:00 | 城跡
2019年2月23日(土)

長浜城博物館友の会特別講座がありました。
友の会会員以外も受講できますが、500円有料となる。
博物館の展示を見ると入館料400円が必要。
我が輩は会員なのですべてタダ!

受付したら、来年度(4月からの)更新手続きできますよ、と言うので更新した。
なんと、すでに来年度の会員証が用意されてる。
手回し良すぎ、じゃないの?

もし更新しなかったら、新会員証無駄になる。
絶対に更新すると踏んでるのか?

ちなみに年間会費は、2000円也。
会員証があれば一年間、博物館の展示を自由に見られる。
今回のような講座、講演会も基本的に無料。
極めてお得!
すぐに元がとれます。
長浜市に居住してなくてもOK。
是非とも会員になることをオススメします。

て、我が輩は回し者か?

…………………………………………………………

今回の講座は、
【宮川藩と堀田氏】


講師は、博物館学芸員の井並悦子さん。
たぶん、30歳独身…
たぶん、◇乳…
たぶん、長浜市に住んでない。

なぜなら、以前長浜に向かう電車のなかで後ろの席に座ってるのを見たから。
て、憶測でものを言うな?
失礼しました。

では、講座の内容をちょこっと紹介。

宮川藩、知名度低い。
歴史通でもほとんど知られてないのでは?
なので、宮川藩の啓蒙のために今回展示と講座が開催された。

藩主は堀田氏。
13000石。
堀田といえば、幕末の佐倉藩主堀田正睦が有名だが、佐倉藩堀田家は宮川藩堀田家の分家筋。
佐倉藩の10分の1の石高しかないけど、堀田氏の本家はあくまでも宮川藩なのである。

堀田家は、平安時代の貴族・紀長谷雄の子孫と称していて、本姓は紀氏。
尾張国中島郡堀田村に住み着いて豪族となったので堀田と呼ばれる。
戦国時代、織田信長や小早川秀秋に仕え、最終的に徳川家の家臣となった。
だから、井伊家と同じく新参者で三河以来の譜代ではないが、
その働き目覚ましく、譜代大名の仲間入りした。

三代将軍家光の時に佐倉藩15万石の大大名となったが、
堀田正信が、老中松平信綱と対立し領地没収となった。
しかし、その家柄を潰すのはまずいということで、
正信の子の正休の代に復帰、上野国吉井藩(高崎市)一万石を与えられ、
元禄11年、近江宮川藩に領地替えとなり、その後要職に就いたためさらに3000石加算され13000石となり、明治時代まで存続した。

なお、その後の佐倉藩の堀田氏は正休の弟の正俊系で、安中藩、山形藩などを経由して佐倉藩に戻り11万石として明治まで存続した。

本家の堀田氏はわずか一万石の小大名なので、近江宮川村に陣屋を構え、藩主は江戸住まい。
だから、宮川陣屋に来ることはほとんど無く、藩の経営は家臣に任せた。
ただし、大坂城代になった時、ついでに陣屋に立ち寄ったことがあるそうです。


藩邸は、中屋敷が浅草雷門の近くにあった。
現在、屋敷の痕跡は無くてマンションになってるそうです。
浅草に「金蔵寺」があり、かつて堀田家の菩提寺だった。
今も家臣の方が参詣されてます。

いつか、立ち寄ってみたいものです。

その2に続く

※なお、長浜城博物館のこの企画展示は、24日に終了しました。
※画像は講座の資料です


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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越前、杣山城はアルプス登山に同じ、の巻

2019-02-24 22:35:00 | 城跡
今日は上天気

2ヶ月ぶりかな?
今年初めて越前福井県へ出かけました。

例年ならまだ雪の心配しなければならないが、今年は大丈夫。

北陸線、湯尾駅で下車。

徒歩で約一時間かけて居館跡の登山口へ。

車が三台停まってたが、結局一度も誰にも会わなかった。

杣山城がいかに巨大で高い山か、ということですわ。

杣山城は南越前町にあり、中世南北朝時代に南朝方の城で、新田義貞がここに逃げたが、結局落城しました。

こんな高い山の上の城を北朝方の軍はよくもまあ攻めたものだと思いますわ。

 
登山口から二時間かけて本丸へ。

途中に秘め穴、じゃなくて姫穴がある。
これが大変な場所にある。

エロい名前に魅せられて行くもんじゃない。

鎖だけが頼り、1つ間違えば谷底へ。
ホントに怖かったです。

姫穴から尾根の下の池に向かったら、急に頭の血管がドクドク波打ってきた。

息が切れるとか心臓がバクバクするのならわかるが、頭の血管が動くなんて、こんな現象初めて。

このままだと頭の血管が切れてここであの世行きか?
と、心配になりしばらく池のそばで身体を休めた。

少し落ち着いたので尾根伝いに本丸へ行くことができました。


ちなみに、
中腹に林道駐車場があるので素直に西御殿へ向かい尾根沿いを本丸を目指すのがいい。
そして、素直に同じ登山道を下山しましょう。
これが安心安全の登り方だと思う。

 我が輩はひねくれ者なので、本丸の南側の社谷口方面へ下山した。
これが急斜面で、とても危険。
生きた心地しなかった。

途中で額を木の枝にぶつけて負傷。
血が滴り落ちた。
他にも生傷あり、下山した時は精も根も尽き果てた。

尾根付近はロッククライミングのような場所もある。
よくまあ滑落せず無事に生きて下山できたものである。


麓の白山神社の屋根が見えた時の安堵感、嬉しさはまさに地獄に仏、いや地獄に神様でした。
お礼のお賽銭、はずんで五百円玉入れました。

こんな大金をお賽銭としてあげたのは生まれて初めて。
それほど嬉しかったのです。


なお、急斜面を気にしないなら、

今庄駅から徒歩で50分弱で社谷登山口の白山神社にいけます。
登山口から約60分で本丸に登れる。

これが一番手っ取り早いと思う。
次回登ることがあれば、このコースを選択します。
ただし、登山道はあまり整備されてないのでオススメはできないが。

というか、こんな険しい山にもう二度と登ることはない、絶対に。絶対に!
も1つおまけで、絶対に!

いやはや疲れました。

今年一番の難解登山でした。

満身創痍なので、当分の間、山城はやめます…😭


それにしても額の傷が今もズキズキする。
途中で帽子を脱いだのが失敗。
やっぱりどんなに暑くても帽子をかぶるべき。
髪の毛が薄いとなおさら。

髪の毛が頭を保護する大事な役割を果たしてることを再認識させられました。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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近江、東野山城(砦)跡

2019-02-17 22:34:00 | 城跡
昨日の疲れも何のその、本日も山登りに出かけました。
降りた駅は、余呉駅。

JRハイキングに参加の人がたくさんいました。
ジビエの猪や鹿肉を食べて余呉湖のワカサギ釣りを見学するそうです。
体力つけるために、こちらに参加すべきだったかな?
来年は参加してみようかな…

余呉駅から歩いて北上、
約40分で余呉小中学校に到着。

この裏山に東野山城跡がある。

普通の人は学校の南から林道を歩いて登ります。
変り者の我が輩は、北国街道をさらに北上、賤ヶ岳合戦で秀吉軍が築いた防衛線の土塁跡を探索。
そして、少し進んで民家の横の道を山へ向かった。
北陸自動車道のガードをくぐると山の麓。
辺りを見回すと、南のほうに登山口っぽい場所を発見!
ここから登ることにした。

谷あいの畑道を進み、途中から尾根に直登りした。
最近、直登りが多い。
登山家じゃないのですが…

尾根に出ると、「東野山城跡へ」の看板見つけた!

やりましたよ。
登山道、間違ってなかったのだ。

大きな堀底道があり、ひたすら登った。
何度か曲がりくねる道なので、自然の道なのかも?
30分ほど登ると、舗装された林道が!
さらに少し進むと本丸跡に到着。
余呉駅から約90分かかった。

これなら、普通に林道を登ったほうが良かったかも。
後悔先に立たず、ですわ。

本丸付近は、雪が少し残ってる。
城跡探索には問題ない。

眼下に余呉湖が見える。

秀吉軍は、この東野山砦と向かいにある堂木山砦に陣を敷き、さらに両方の砦を結ぶ土塁を築いた。
ここが秀吉軍の防衛上の最前線となった。
柴田勝家は、南下し東野山砦まで迫ったが、砦を守備してた堀秀政は、なんとか防いだ。
これにより、勝家は退去するはめになった、という。

そんな重要な城跡だけに、規模は小さいけど土塁や堀など城の構成がうまく配置されてます。

一時間ほど探索し、下山。
帰りは素直に林道を歩きました。

林道は車が通れるが、進入禁止になってます。
それでも一台の軽トラが走ってたが…


再び余呉駅。
来る時に出逢ったJRハイキングの連中と再び再会。
美味しいものを食べて精を付けたのだろうな。
こっちはパン一個だけで体力すり減らしまくり。
えらい違いや😣

普通の人はこのまま帰宅するのだが、変人の我が輩はまだ帰らない。

余呉駅から高月駅へ移動。

15時30分、
北国脇往還歩き開始。

時間が時間なので、速歩で進む。

17時過ぎ、木之本宿到着。

ゴールインです。
ついに関ヶ原から木之本までの北国脇往還制覇しました。

ようやくですわ。

今日は、体力かなりすり減らしたが、
ともかく満足満足なり。

ちなみに、本日は3万歩超えた。

山登りをしての20キロ歩きは値打ちありますわ。

明日から1週間静養します。

というか、本日も山のなかでボールペンを無くした。
これで何本目か、数えきれない

また百均でたくさん買わねば…

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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壺笠山城&宇佐山城

2019-02-16 22:22:00 | 城跡
本日は北国海道西近江路沿いの山城を攻略することにした。

京阪電車穴太駅。

穴太積み石垣で有名な穴太(あのう)だ。
約40分ほど林道を歩く。

途中に墓地、古墳群がある。


橋を渡り少し行くと分岐があり左手へ。
山と山の間の広い分岐に出た。
さて、どの山が壺笠山かわからない。
事前の下調べで、木にテープを巻き付けてある山だと知ってたので右手のほうに行く。
しばらく進むと道が下り坂となり、これは間違いだと思い引き返した。
先ほどの分岐の手前に枝にテープを付けてあるのを発見!

よく見ると登山口っぽい。
その目印のようだ。
で、登ったら正解でした。
何一つ、城跡の看板が無い。
その代わり、肝心な所に木や枝にテープがあり、どうやらこれを目印にしろ、という意味のようである。

宇佐山城の戦いで、浅井朝倉連合軍が陣地としたのが壺笠山。
丸い縄張りが朝倉の特徴だとか?
石垣がちょこちょこ残されてる。

ここは京都へ抜ける白鳥越えの道が通ってる。
山の西側から京都へ向かおうか、と思ったが、思いとどまった。
やっぱり無茶はいけない。
京都側にいい城跡があるそうなので、いつか京都から白鳥越えに挑戦してみたい。

時折、延暦寺の鐘が聞こえてくる。
比叡山に近いので尾根づたいに行ってみたい誘惑にかられたが、これも踏みとどまった。

最近、本能と理性の間で揺れ動く我が輩です。

信長は比叡山に対して、浅井朝倉のために陣地を貸すな!
と、何度も使者を派遣してお願いした。
しかし、比叡山延暦寺はこれを拒否して、浅井朝倉に味方した。
裏切られた信長は根に持ち、
これが後に比叡山焼き討ちの原因となったのです。


下山後、穴太駅から近江神宮前駅へ移動。

近江神宮の裏の宇佐八幡宮へ向かう。
八幡宮の裏山が宇佐山城である。

ウソ山でも佐和山でもない、宇佐山だ。
こちらは再訪。
四年ほど前に滋賀県の探訪で登ってるので、概略はわかってる。
しかし、山登り2つ目なのでさすがに身体が重い。

子供が作ってくれた看板が充実してる。
休み休み登った。

本丸にNHKなど放送局などの電波建物あり、占領している。
困ったもんやわ。
石垣を見るために南側へ向かうと
遠くに獣の気配がする。
じっと見つめたら、相手は逃げた。
たぶん、鹿だと思う。
夕方近くになると獣が出没するので早めに下山しなければ、と思った。

宇佐山城は、織田軍の城で壺笠山城の浅井朝倉軍と対峙してたわけである。

宇佐山の麓は、山中越えの道が通ってる。
こちらは舗装されていて、京都市街地と結んでる。

昔、明智光秀は、この山中越えか白鳥越えで坂本城と丹波亀山との間を往復したそうです。

光秀のルートをたどってみたいものです。

下山したのは4時過ぎ。
今日は両方の城で誰にも合わなかった。
歴史上重要な城跡だが、今はマイナーな城跡ですわ

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

明日もマイナーな城跡へ行きます

熊が多い地域だし、駅からも遠いので心配ですわ


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
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星ヶ崎城跡

2019-02-13 17:55:00 | 城跡

一昨日2月11日(月)祝日、

前日と同じくこの日も野洲駅に到着。
ただし、本日は野洲市に用は無い。
駅から三井アウトレットパーク行きバスに乗った。
さすがに人気のファッション施設だけあって、バス停に並んでる人はみな若者、女性ばかり、流行の服着てる。
大きなリュック・汚い防寒着の我が輩とえらい違いや。

バスは国道8号線を北上。
我が輩は、道の駅竜王で降車した。

源義経元服の地と言われてる。
と同時に近くに平家終焉の地があり、源平の栄枯盛衰を感じることができる。

現在は道の駅だが、
江戸時代は中山道鏡宿として賑わった。
鏡餅発祥の地とも言われる。

昨年、中山道歩きでここを通った時に星ヶ崎城跡登山口の看板を見つけた。
その時は猛暑だったので、山登りせず通過した。
なので、今回はリベンジ!



集落の中に中山道が通っていて民家の奥に登山口の看板がある。


雪が舞ってるが、今なら積もることはない。
獣柵を開けて登山開始、


砂防ダムの横を行くと八幡神社跡がありその裏に登山道があった。


この道が大手道だとか?

途中、何の表示も無いが一本の尾根道なので迷うことは無い。
10分ほどで道の駅からの登山道と合流。


普通の人は道の駅駐車場から登るが、
我が輩はひねくれ者なので反対側からですわ。

少し歩くと山頂が見えてきて


右手に石垣が!


この石垣が星ヶ崎城跡の最大の見せ場。

雪が激しく降ってきてあまり眺望がよくないが、中山道(古代中世東山道)を眼下に見る要衝だということがわかる。

城の遺構としては本丸付近にちょこっと残るのみで、大層な城跡ではない。

ちょうどお昼になり、雪で体が濡れてきたので急ぎ下山する。
帰りは道の駅への登山道を進む。
こちらの道は、城跡への案内表示が充実してる。
麓付近に西光寺跡があり、

国重文の
宝篋印塔が残ってる。

 

同じく石灯篭


そんなわけで、素直に道の駅駐車場から登ったほうがベストだとわかりました。

道の駅の休憩所でパンを食べて再び野洲駅に戻り、
午後は稲枝駅から朝鮮人街道歩きで北上しました。

よく考えたら、この三連休毎日朝鮮人街道沿いを歩いたことになる。

でも、まだ完全制覇ではない。
残りは、彦根市内と近江八幡市内の2ヶ所のみ。

今年中には街道歩き達成できそうだ!

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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永原城跡&永原御殿跡

2019-02-12 17:05:10 | 城跡

一昨日2月10日(日)、
滋賀県主催の連続探訪講座に参加した。
野洲駅集合。
祇王小学校近くのコミュニティセンターへ移動。


まずは講座を聞く。
野洲市長が挨拶しに来た。

参加者は地元の人も多くて予定数をはるかに上回る140人以上の大集団。

これより現地探訪。
祇王小学校のグランドが永原城の本丸でした。

↑小学校の手前の畑も曲輪の跡

田の字の形の曲輪群
すでに何度かここに来てるので目新しくないけど、専門家の解説を聞いて、城の範囲などがわかったので成果あり。

祇王寺へ移動。


祇王妓女、平清盛で有名ですよね。
前回一人で来た時は外から眺めるだけだったが、今回は門が解放されていて、中に入ることができた。


学生時代に訪れた時は尼さんが案内してくれたのですが、今は無住寺のようです。

次に『永原御殿跡』


県の探訪講座なので、こちらも中に入ることができた。

大きな土塁に囲まれ、外側には水堀も一部残ってます。


四隅には櫓があり、隣には二の丸、三の丸があった。
発掘調査で御殿の範囲を確定できたそうです。

↑ここから土橋を渡って二の丸と繋がってた


家康から家光まで三代の将軍の宿泊所となった。
ここに御殿が築かれたのは、秀吉時代に家康の領地として与えられたからで、しかも近くに朝鮮人街道がある。
江戸時代、朝鮮人街道は本来下街道・上洛道と呼ばれ、将軍と朝鮮通信使しか歩くことが許されなかった。
京都から歩くとちょうど1日の行程だったようです。

御殿跡を見学した後、


地元の江部地区のみなさんが、
ぜんざい・お茶・漬物を用意してくれました。


寒い日だったし、お腹空いてたので
これはホントに嬉しかった!

ぜんざいの餅は2個入ってました。
早めに帰った人がいて、予定数より余った、ということで、
お代わりしました。
さらに漬物を土産にもって帰った。

いやぁ、この暖かいおもてなしに感激!


学生時代以来、お世話になりっぱなし、
やっぱり野洲はいい所ですわ

皆さんもお越し野洲!


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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佐和山切通道&城跡

2019-02-10 22:47:52 | 城跡

昨日2月9日、

朝鮮人街道唯一の難関、佐和山切通道を歩くことにした。

現在の国道8号線、彦根側から北へ向かうと佐和山トンネルがある

画像の右側は、歩道トンネル。
左側は、旧佐和山トンネル道。

街道彦根切通道は、この中間付近を通ってました。
今はほぼ消滅状態で、普通の人は歩道トンネルを進むしかない。

我が輩はそれでは我慢できないので本来の切通道を探すことにした。

廃墟のような道を進むと

突き当たりに旧トンネルの入口出現。
トンネルのなかは真っ暗でぬかるみ状態。
とてもじゃないが、歩けません。

で、入口の右肩付近からよじ登った


薮状態です。
でも、かすかに土塁と堀底道が見える

そして、ついに切通道出現!

やりましたよ!
念願かないました。
よくぞ残ってくれてたものです。
ちなみに左手の尾根を登ると佐和山城太鼓丸。

今回は街道歩きが第一の目的なので、

行けるとこまで切通道を進み、

鳥居本側へ無事に出られました

切通道はこの新しい佐和山トンネルの上を斜めに横断するような道でした。

江戸時代、参勤交代で井伊の殿様一行は 、毎回険しい切通道を通ってたのですよ。

そして、ここが彦根道と中山道の合流地点で右折すると中山道鳥居本宿となる。

これで、朝鮮人街道歩きはゴール。
とりあえず満足です。
ただし、途中が抜けてるので今のところキセル状態。
今後は途中の道を穴埋めしていかねばならない。

次は、佐和山城攻めにトライ。

道を引き返して、大手道を進む。

奥まで行くと近江鉄道の線路と交差し大手道は消滅してます。

なので、基本的に大手道は切通道と同じく通行不可。

だが、今日は引き下がりません!

再び山をよじ登った。

途中で消滅した大手道の痕跡発見し

なんとか太鼓丸に登れた


さらに、太鼓丸から先ほど通った切通道を眼下に見ることができた。

結果的に切通道は、先に佐和山山頂に登り本丸→太鼓丸から下るほうが行きやすい。
ただし、太鼓丸から下るのは勇気がいるが…

本丸に到着


本丸から彦根駅方向を見る

我が家もこの画像の端のほうにあるのですが…

ここで、本日最大の無茶をした。
千貫井の左手斜面、
本丸正面下に石垣の痕跡が残ってる

斜度は垂直に近い!
怖かったが、どうしても見たいのでよじ登った

なんとか見ることができましたよ!

文化財課の人は命綱つけて上から降りて調査したと言ってました。

なので、いかに無茶苦茶なことをしたか、ですわ。
ほふく後進でへばりつくように千貫井までなんとか戻ったが、よくまあ無事だったものですわ。

良い子は絶対に真似しないようにお願いします。

この後、西の丸→西の丸尾根(←ここも危ない)へ移動。
さらに通行止めになってる水の手に突っ込み、またしても直登りして二の丸、三の丸へ。
ただし、こちらはひどい薮で、遺構を確認できたが、いったいどこの遺構はさっぱりわからない。
水の手、二の丸、三の丸は佐和山城の遺構として素晴らしいものがあるだけになんとか整備してほしいものです。

そんなわけで、この日は冒険冒険の連続!
実は昼のパンを忘れていて昼食抜き、非常用のチョコレートを食べて飢えをしのぎ四時間山のなかを闊歩しました。

気がついたら全身びしょ濡れ。
強烈な寒波の日なのに汗 だらだら流し、途中でペットボトルの水も無くなり、脱水しかかった。

いやはや大変な1日となりました。

でも、おかげさまでついに佐和山城のほとんどの遺構を制覇!

これからは、佐和山城を我が裏庭と呼びたい。

今回の登城詳細は、後日街道歩きでアップする予定です。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

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