吉日に悪をなすに必ず凶なり
悪日に善を行うに必ず吉なり
吉凶は人によりて日によらず 徒然草91段 掲示日H19.12.1
晩秋のある日、ある場所で同行の先輩と世間話をしていました。その方とは年に数回会いますが、格別親しくもないけれど、敬遠するなかでもない。私が尋ねました。
「いつもお元気ですね。おいつくになられました?」
「うーん、六十五になった」
と、先輩。
「へぇー、まだ六十五歳だったんですか」
と、変な驚きかたをする私。なぜ変な驚きかたをしたかというと、初めてお会いしたのは二十年以上前だと思うけれど、その頃から六十五歳くらいの方だと思っていたからでした。昔から老けて見えたのが、年相応になっただけ。ずいぶんと高齢だと思っていた人が意外と若かったり、若いと思ったいた人が高齢だったり。そんな経験ありませんか。
同じように、古い習慣だと思っていたことが、歴史の浅い慣わしだったりすることがあります。
新しい年のカレンダーを用意する季節になりました。最近は、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口という六曜が記されたカレンダーが少なくなったようです。そもそも、六曜の起源は中国・唐の時代とか。日本にもたらされたのは、十四世紀で今のようなかたちになったのは、幕末だといいます。でも、江戸時代までは、立春・夏至などの二十四節季がメインで六曜を気にする人は少なかった。明治になり吉凶付きの他の暦注は迷信だと禁止されますが、不思議なことに六曜だけは引き続き記載されます。この文章を書くために少しばかり資料を探してみたのですが、「六曜に人気が出たのは昭和二十年以降」などと書いてあるものもありますから、意外に歴史の浅い新しいものなのです。
さて、今月のことばは『徒然草』91段です。兼好法師(1283~1350?)はいいます。
吉日でも悪事をはたらけば凶。忌み日でもよしことするには常に吉。良いも悪いも人によるのであって、日によるのではない
この一節は九十一段の結びの言葉で、冒頭では次のように書いています。
縁起が悪い日に企てて失敗したものの数と、良い日を選んでやっても成就しなかったものの数を数えてみるがいい。きっと同じになるはずだ。なぜなら、無常変易、この世は常に変化するのだから
筆者自身も、大安だろうが仏滅だろうが、まったく気にかけません。カレンダーに六曜などなくても困らないのですが、仕事がら友引の日だけはしっておきたい。友引といえば『平成サラリーマン川柳傑作選』に次のような川柳がありました。
友引に葬式休暇とるうかつ
兼好法師がこの句をよんでどう添削するでしょうか。兼好は添削どころか意味がわからないでしょう。法師が生きた平安時代には、友引などなかったのですから。
古い習慣だと思っていたことが、歴史の浅い新しい慣わしだったりすることが多いのです。