九月のことばは、
「仏教のご利益は、思いがけない幸運のことではなく、逆境に向き合ったときにその苦難を受け止める力を持てることである」
淨土真宗の藤野宗城師のことばです。藤野師は節団説経の名人です。日経新聞の今夏八月八日の朝刊文化欄からの引用ですから、お読みになった方もおられるでしょう。記事のタイトルは、「節談説経で聴衆沸かす」。
記事によれば「淨土真宗には節談説経というものがある。法話の中にリズミカルに節回しを織り込んだもので、(途中略)落語のルーツともいわれ、語りの部分は講談に、節の部分は浪曲に発展したとも」とあります。「笑い話や涙を誘う物語などを取り合わせ、起伏に富んだ語りをするのが節談」とも記事は説明しています。残念ながら、私は実際に聞いたことはないのですが、だいたい想像できます、
昨年亡くなった俳優の小沢昭一氏の著作・録音などの労作が、忘れていた説経と芸能の関係を思い出させてくれた最初ではないでしょうか。
昨秋の彼岸に、松岩寺の本堂で口演してくれた片山秀光師が、「節語り説法」と称しているのも、伝統的な「節談説経」を意識してのことでしょう。
臨済宗にも、昭和二十年代までは、節談説経をなさる方もおられたようです。亡くなった師父が、本山主催の法話の講習会に出た時、節にのせて説経をした方がいて、講習会の監督をされていた松原泰道師は、
「芸能ではない、現代的な法話をしよう」
と、いさめたという話を聞いたことがあります。
さて、標題のことばは「逆境に向き合ったときその苦難を受け止める力」とありますが、仏教的にはそれだけではちょっと寂しいのでは。「順境のときにも有頂天にならない力」という言葉が挿入されないと……。もちろん、字数が限られた新聞記事だから、そこまで発展して書けなかったのでしょうが。
江戸時代初期の藤樹文集には「順境逆境、入りて自ずから得ざるは無し」という一節があるようです。良いときも悪いときも、それなりの所得があるといった意味でしょうか。
さて、今秋の彼岸法要後はお寺寄席と称して、柳家さん喬師匠の落語です。以前も本堂で落語をした事がありますが、今回は落語界の大ベテラン。
寄席やホールの落語もよいけれど、落語のルーツは仏教の説経なのだから、本堂できく落語が本来の姿なのではないでしょうか。
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