こうして生きていることは、只だ事ではない。それは無常という素早さの中にある。時間は人間が立ち止まることを許さない。どうして迂闊に毎日を送ることができようか。 西村恵信著『禅語に学ぶ 生き方。死に方』(禅文化研究所)より
師走です。「なんて月日の流れは速いのだろう」、とお嘆きの方におくることばです。今月は限られたスペースの掲示板の言葉とてしては、とてつもなく長めの言葉になりました。
今月の言葉は「生死事大、無常迅速、時不待人、慎莫放逸」という漢字四字四行の現代語訳です。西村恵信著『禅語に学ぶ 生き方。死に方』(禅文化研究所)から引用しました。漢字十六字を説明するのに、こんなに多くの現代日本語が必要になってしまう。
同著によれば、「生死事大、無常迅速、時人を待たず、慎んで放逸することなかれ」は『伝燈録 五 永嘉玄覚章』からの出典となっています。が……。
〈ここから先数行は、いつもの「原典を調べたら」、という話になってしまうので、師走でお忙しい方は読み飛ばしてください。つまり、禅文化研究所基本典籍叢刊『景徳傳燈録』を調べたら、「生死事大、無常迅速」の八文字しかないんですね。西村先生の『禅語に学ぶ 生き方。死に方』という本は、一つの禅語に一つのカラー写真がついた楽しい本で、学術書ではない。だから、厳密には記述しなかったのでしょう。でも、まるのみして、十六字全部が『傳燈録』からの引用だと書くと、恰好悪いことになる。やはり、原典と思われるもの確認しておかないと!〉
「時人を待たず」もよくある言葉です。そのあとに、「慎んで放逸することなかれ」がくっつく場合もあるし、「光陰惜しむべし」と続く場合もある。
いずれにしても、十六字の成句はない。くっつけて、はっつけて、順番変えての十六字です。というこは、それほど親しまれている言葉だという証しであります。
かかげた写真は、松岩寺の玄関につけた、木板です。木板には、「生死事大、無常迅速、光陰可惜、時不待人」と書かれています。木板とは何なのか。玄侑宗久編『禅寺モノ語り』(春秋社)から引用します。
〈前略〉木板は、「版」という鳴器の一種であることから、「木版」とも表記します。主に時を知らせるために打ち鳴らされ、現在は禅堂の前につり下げられて、一日に数回鳴らされるだけですが、〈途中略〉現在の臨済宗の僧堂の木板には、多く「生死事大、無常迅速、光陰可惜 時不待人(生死事大、無常迅速、光陰惜しむ可し、時人を待たず)」と記されています。この中の「生死事大、無常迅速」という語句は、『景徳伝燈録』という禅の祖師方の行状をまとめた書物の中に、永嘉元覚禅師(六七五~七一三)の言葉として記録されています。〈途中略〉
禅僧にとって解決すべき何よりも重要な問題は、どのように生きて、どのように死を迎えるかということです。
しかし、「光陰矢の如し」という言葉の通り、時間はすぐに過ぎ去っていくものです。ボヤボヤしていると、何も解決しないまま死を迎えることにもなりかねません。〈途中略〉 木板を鳴らす時の、七回・五回・三回と連打した後、打ち流していく独特のリズムは、まるで私たちを追い立てる無常の殺鬼のように響きます。〈後略〉
色彩と味覚と音の感じ方は人それぞれだし、見たり味わったり聞いたりする状況によっても、受け止め方が変わるから何ともいえないけれど、木板の音は殺鬼のようには聞こえないけどなぁー。
たとえば、修行道場で夏の日の夕方、2時間近く坐る(坐らされる)ことがあります。遅い陽も暮れてきて、ひぐらしがカナカナと鳴き始めた頃、木板がなります。木板が打ち終われば、傷む足を伸ばせる。これが、殺鬼の音に聞こえますか。良い音ですよ。