「釈尊は人生をいかに生きるべきかを説かれた人生相談の達人のようなお方だった」
今月のことばは出来たてホヤホヤです。どういうふうにホヤホヤかというと、収録したのが直近の新聞記事からだからです。日経新聞朝刊「私の履歴書」八月は東大寺長老・森本公誠師でした。
株も投資ももやらないけれど、今話題のA新聞から日経に乗り換えて十年になるでしょう。その間、この欄を担当した仏教の坊さんは、有馬頼底師だけでしょうか。
ずいぶん前に森本公誠師著『善財童子 求道の旅』(朝日新聞社刊)を読んで、すごい人がいるなぁー、と思って以来、お名前だけは存じていました。八月に盆を迎える寺の住職として、ゆっくりと朝刊を読む時間もなかったのですが、さーっと目を通してはいました。
お盆も終わった八月二十六日は、「善財童子の旅を追体験 華厳経をわかりやすく説く」というタイトルでした。今月のことばにとりあげた言葉の前に師はこう語っています。
「お経を一字一句注釈しながら理解しようとすると、仏教はとてつもなく難しいものになる。一方、経文をただ唱えるだけだと、何か呪術的な力を期待してしまう。釈尊はそんなに難しく伝えようとされたのだろうか。人生をいかに生きるべきかを説かれた人生相談の達人のようなお方だった」。
さすが-。釈尊を見事に自分化されています。
私は二十年ほど前に故松原哲明師から、「僕らは伝道師なんだ。道を作る必要はない。道を伝えれば良いのだ」と教えられたことがあります。 「道を伝える」と言っても、今時の言葉でいえば、経典や禅の語録をコピーアンドペーストしただけは、 伝わらない。自分で咀嚼して自分の言葉で語らなければ、誰も聞いてくれない。「釈尊は人生相談の達人」ということばは森本師の「我が釈尊」です。言えないなー。
禅学者の故柳田聖山氏の著作によく「我が一休は」とか「我が臨済は」とか、祖師方に「我が」という冠をつけるフレーズがあります。これって一度やってみたくないですか。でも、恥ずかしくてできないですね。それだけ咀嚼してないもの。あるいは、今時「我が妻は」なんて書いてみなさい。「あんたの物ではないわよ」と一蹴されてしまう。
というわけで、今月の言葉は釈尊を咀嚼して自分化したという意味で、「あっぱれ」な言葉でした。