千田完治撮影
八月は盆月です。お盆は正式には七月十五日を中心にした四日間です。今年でいえば旧暦七月十五日は九月一日に相応するようだから、八月盆は旧のお盆でもないし、月遅れのお盆といった方がよいかのでしょうか。
俳句歳時記では、「盆用意」「孟蘭盆会」「施餓鬼」もみな、秋の季語として収録されているから、、現代の七月十五日よりも、一か月遅れの八月中旬のほうが、雰囲気があうでしょう。
さて、今月のことばは、先年九十八歳で亡くなられた金子兜太(1919~2018)氏の有名な俳句です。
兜太氏は私の高校の先輩であり、伯父などは旧制熊谷中学で同窓だったという。そんな親しみはあるのですが、なにしろ巨人すぎるのと、熱心なファンもあまたおられるので、この欄で取りあげるのはためらってまいりました。
冒頭の句の背景をご存じの方も多いでしょうが、昭和十八年、二十四歳で日本銀行に就職し三日間だけ勤務した氏は、すぐに海軍に入隊し、昭和二十年終戦をトラック島で迎えます。敗戦から一年三か月後、やっと日本へ帰るときにつくった俳句です。自著から引用します。
駆逐艦がトラックを離れます。夕暮れ時です。陽の落ちかかった環礁を、艦がゆっくりと舳先を大海に向け出ていきます。珊瑚礁の海をへだてた向かいに、思い出深い夏島が横たわり、その中央に、のべつまくなしに爆撃されたトロモン山が岩肌もあらわに赤茶けた姿をさらしています。この山のふもとに私たちは戦没者の墓碑を建ててきたのですが、その墓碑が、私たちを最後の一瞬まで見送ろうとするかのように、夕暮れの果てにいつまでもいつまでも見える思いなのです。その光景を駆逐艦の甲板上から眺めながら、私は自分にはっきりと誓っていました。これまで私は人のために何もしてこなかった、この先私は頑張ろう、死んだ人たちのために頑張ろう、そうすることで彼らの死に報いよう、そう肚をくくっていたのです。
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
その時作った句です。私には人生の転機といえるときの句が二つありますが、これはその内の一つです。この句には、あの時駆逐艦の上から決意した「捨身飼虎」の気持ちがこもっています。(『二度生きる』チクマ秀版社)より
熊谷に住む氏の晩年、熊谷駅で列車から降りはしたけれど、すぐに帰路にはつかず、プラットホームのかたすみで熱心にメモをとる姿を何回か目にしていました。車中で思い立った構想を文字にのこしておられたのでしょうか。ご迷惑でも、あの時、声をかけていたら、と思うお盆です。