一切衆生(いっさいしゅじょう)、みな日の没するを見よ。まさに想念を起こして正座して西に向かい、あきらかに日を観(かん)ずべし 「日想観文」
三月はお彼岸の月です。お彼岸の起源は、日想観とよばれる修行にあるらしい。
どういう行なのか。お浄土かあるという、西方(さいほう)をじっとみつめるのです。いつ、みつめるかというと、日が沈んでいく、夕方。春と秋の彼岸は真西に陽が沈むから、うってつけ。『観無量壽経』というわが国の浄土宗と浄土真宗の寄りどころとなるお経には、次のような一節があります。
「一心不乱に一つのことに思いをこらし、西方を観想するようにつとめるがよろしい。それでは、どのように観想すればよいか。(途中略)まず想像力を奮い起こし、正坐して西に向かい、じっと太陽を見つめるようにせよ。そして、心を固く定め、思いを一つにして移さないようにし、太陽がまさに没しようとして、あたかも空中にかけられた太鼓のような形になっているのを見よ。このようにして太陽を見終わったならば、たとえ眼を閉じようとも開こうとも、いつもありありと瞼に浮かぶようにしなければならない。これを日想とよび、初観と名づけるのである」
現代語訳は、『大乗仏典6・浄土三部経』(中央公論社)から引きました。夕陽を見つめるのですから、難しくはない。だれでもできそうだけれども、「きれいな夕陽だね」と、思ったことはあっても、数分間にわたり、じっと日の沈んでいくのを観察したことは普通はないし、わが禅宗は室内で坐禅をするから、夕陽は見せてくれない。他宗派でさかんに行われている修行かというとわからない。
でも、京都・清水寺のホームページには、「清水寺境内の入り口近くに建つ西門(重要文化財)は、日想観の聖地です。京都屈指の夕陽の名所でもあるこの場所は、日没時には多くの参詣者が立ち止まり、西の空に沈む夕陽に思いを馳せています」とあります。清水寺からの夕陽、いいだろうな。いつか、挑戦!
あるいは、平成二六年十月三日付け日経新聞には「夕日が照らす極楽浄土 四天王寺・日想観の法要」という記事かありますから、大阪・四天王寺にも日想観を目的に多くの参拝客が訪れるらしい。冒頭に紹介した今月の言葉は、この記事のなかにあって、法要の終盤に読まれる「日想観文」を転載しました。
四天王寺というと、謡曲「弱法師(よろぼし)」で、彼岸に親子が再会する場所です。それを題材にした、近代の下村観山(1873~1930)の屏風絵は重要文化財といった具合で、調べてみると日想観は奧が深い。
以下は私の珍説になるけれども、戦に無常を感じて出家した熊谷直実(1141~1207)は、京都から鎌倉へ下向するときに、西に背を向けまいと、馬にさかしまに乗ったという逸話があります。その様子を白隠禅師も画に描いているけれど、これも道中ずうっと、日想観していたとも言えないか。
〈熊谷蓮生坊逆しまに馬に乗る画 白隠〉
ひょっとすると、以前にもご紹介した上皇后美智子さまのお歌。
三十余年(さんじふよねん)君と過ごししこの御所に夕焼けの空見ゆる窓あり
も「日想観」ではないかな。
いずれにしても、コロナ禍の春。人の密でないところで、マスクを取って夕陽をみつめる、なんていうのが一番のぜいたく?いやいや修行になるかも。ちなみに、令和三年三月二十日、東京地方で日の入りの時刻は、十七時五四分のようです。