神といひ/仏といふも/世の中の/人の心の/ほかのものかは 源実朝『金槐集』
リケジョのホープがこけた。今のところ、まだ起き上がれずにいるようです。
私は数学なんかできなくても、お布施を計算する足し算だけできれば良い。と育てられた超文系人間なんでまったくわからないけれど、他の人が同じ実験をして同じ結果が得られれば、少しは不信が解とけるのではないでしょうか。
再現という言葉を文系人間が独り善がりに翻訳してみると、共感という言葉におきかえられはしないのでしょうか。
よくよく考えてみれば、お釈迦さまもキリストさまもムハンマドさまだって、独り善がりのことを言ったのではなくて、みんながなるほどそうだと再現実験して、納得したから今まで残っている。
お釈迦様のいったことが再現できなければ、仏教はとっくに滅んで消え失せているはずです。再現というのは同じものをつくることでしょ。とすると時代が違っても、人が違っても同じことを言っているのではないでしょうか。
さて、今月のことばは源実朝の和歌集『金槐集』に収められている和歌です。『日本秀歌秀句の辞典』(小学館刊)の解説を引いてみます。
「神と言い、仏と言うのも、結局は世間の人の心の内以外の存在ではないのだ。詞書に「心の心をよめる」とある。神や仏を外在的な超越的な存在と見ず、自身の中に内在するものと考えているのは、当時としては新しい思考の方式であろうか」
「神や仏を外在的な超越的な存在と見ず、自身の中に内在するものと考え」は鎌倉時代には珍しかったと想像できるけれど、現代でも新鮮なのではないでしょうか。
でも、実朝より四百年ほど前に弘法大師空海は「仏法遙かにあらず。心中にして即ち近し」との言葉をのこしたのは先月、紹介しました。みんな同じこと言ってるんですね。再現しているわけです。
願わくは、リケジョの何とか細胞も再現されて、あまりいじめられなくなりますように。