六月に松風(しょうふう)を買わば、人間(じんかん)恐らく価(あたい)無(な)からん(六月買松風 人間恐無価)
「旧暦の六月、暑さの盛りに松の枝々を縫って一陣の涼風が吹いて来た。この無上の喜びはそれまで緊張感を持続していた人にしかわからないものであろう」
現代語訳は沖本克己・竹貫元勝共著『禅語百科』(淡交社)から引きました。原典は『普燈録』にあるという。また、白隠禅師の『槐安国語』にも見えるといいますが調べていません。六月を五月とし、買うを売るとするヴァリエーションが幾つかあるとか。
ところで、人間(じんかん)です。 中村元『広説佛教語大辞典』では「人閒」として、「人がいる所。人里」 と教えてくれる。『諸橋大漢和辞典』で「間」を引くと「閒」の俗字とある。とすると仏教では、「人間」あるいは「人閒」を「ニンゲン」とは、読まないかというと、『広説佛教語大辞典』には、「にんげん【人閒】」という項目もあって、「人々の間」と説明している。
ならば、六道(ロクドウ)の説明はどうなっているだろうかと、同じく『広説』をみてみると「地獄・餓鬼・畜生・修羅、人間・天」とあり「人閒」ではなくて、「人間」になっている。
なんていうことをウズウズ書いていたら、さわやかな松風も湿風になってしまうけれど、この欄の読者の中には、「漢字が違うゾ!」とお叱りになる方もおられるだろうから、「いちおう、気にはしているのですよ」と言い訳をしておくわけです。あるいは、「ちゃんと調べてるんだぞ!すごいだろう」とは言わないけれど、静かに自慢しているわけです。 この静かな自慢というのがイヤらしい。知っていて、言わないのが松風のように、価をつけようのない風流をうむ。
「言わないのが風流」といえば、最近、手にした本に藤井満・藤井玲子著『僕のコーチはがんの妻』(KADOKAWA)があります。本の帯にこう書かれています。
「50代夫婦。子供のいない2人暮らし。妻が末期がんになったら、家事も料理もできない夫(僕)はどう生きればよいのか?食べることが生きることなら、料理=「生きる力」-それが妻からの最後の贈り物だった」
藤井満氏は2018年9月に妻を亡くし、2020年1月に29年間勤めた朝日新聞を退職します。脱サラです。2月、かつて妻と歩いた遍路道をたどり直します。そして、こう書きます。
「それぞれの札所では、本堂と大師堂で読経する。僕の信心が足りないせいか、大師堂にお大師さん(弘法大師)を感じたことはない。でも岡田さん(筆者注=民宿を一人で切り盛りする91歳のおじいさん)のような人に会うと、お大師さんは寺ではなく、歩く道すがらに出会うものなのだと思えた。」
お大師さんと道すがら出会うというのは、「同行二人(どうぎょうににん)」、つまりお大師さまがいつも一緒にいる。という意味で、遍路道へ行くと、そこいら中にペタペタと貼り付けてあるキャッチフレーズですから、藤井さんも知らないはずがない。わたしら坊さんがこういう文章を書いたら、絶対に同行二人の講釈をしてしまうのですよ。でも、知っていて書かない。
書かないことが、六月の松風のように、さわやかなんだろうなと思うのです。
なお、このブログ。書くのが一日遅れましたが、幸いに元気です。遅れたのは、ただただ、忘れただけです