禅は「生活の技術」 イサム・ノグチ
『おうちで禅』(春陽堂書店刊)という本を出版できることになりました。少しばかり難産な本です。困難な状況にもかかわらず世に出た生いたちは、本書の「おわりに」を読んでいただくとして、四十の独立した話から成り立っている書籍です。
四十話の冒頭に、それぞれ名言名句を掲げています。これは、禅でいう「著語(じゃくご)」になるのでしょうか。広辞苑は著語の項で、「禅宗で、公案などに対して、自己の見解を加えて下す短い批評のことば」と説明しています。自画自賛をもじって、自文自語と思っていただければよいでしょうか。
さて、『おうちで禅』第1章第1話のタイトルは「炊飯器よりおいしいナベごはん」。そこに掲げたのが、イサム・ノグチのことば、(禅は[生活の技術」)です。
イサム・ノグチ(1904~1988)については、現在(2021/4/24~8/29)まで東京都美術館で「イサム・ノグチ 発見の道」という展覧会が開かれているから、芸術家の全貌はそちらで、知っていただくとして、私が「禅は生活の技術」というこばを知ったのは、西村恵信元花園大学学長の著作からでした。恵信先生のお好みのことばらしくて、いくつかの著作で使っておられる。私が読んだのは、NHKラジオ「宗教の時間」のテキスト、「夢窓国師の『夢中問答』をよむ・下巻(2012年10月発行)」でした。
テキストの「はじめに」で次の様に書かれています。
禅という教えの根本は、「真実の自己とは何か」を、生涯にわたって追求することであり、それは言い換えれば「どのように毎日を充実して生きるか」ということですから、毎日の生活こそがその実践道場にほかならないのです。皆さんは禅と聞くと、あの脚の痛くなる坐禅のことや、自分たち凡人には寄り付くことさえできない空想的な悟りの世界、あるいは素人が聞いてもちんぷんかんぷんの禅問答などを想像されるでしょう。そのように一般の人にとって禅は、まるで別世界のことと思われているようです。
しかし、あの正岡子規が、禅とは平気で死ぬことかと思っていたら、「平気で生きて居る事であった」(『病牀六尺』)と述懐していますように、禅は「生活の技術」(イサム・ノグチ)にほかならないのであります。
『おうちで禅』というタイトルも、コロナ禍の巣ごもりに迎合したわけではなく、もともと禅というのは、生活のなかにあるのです。
さて、西村先生は私が花園大学に在学していた時の、卒論の指導教官でした。出席日数の不足と及第点に遠く及ばない論文を「卒業したら、道草せずに修行道場に掛搭(かとう=入門)」することを条件にパスさせてくれた教授でした。あのときも、お世話になりました。