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武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

040. ミレーの生れ故郷・グリュシー村を訪ねて(上) -ノルマンディー旅日記-

2018-11-04 | 旅日記

 以前にロマン・ロランの「ミレーの伝記」を読んでミレーの生まれ故郷にいずれ行ってみたいと思っていた。

 それは「グリュシー」という小村で、ノルマンディーのシェルブールの近くにあるらしいことは判っていた。

 僕の持っているミシュランのフランス全土地図には丹念に探すけれども見あたらない。もう少し大きな地図が必要だ。

 いっきにシェルブールに行くのではなく、印象派の故郷ル・アーブル周辺にも寄っていくことにした。

 ユージーヌ・ブーダンを観るのも楽しみだ。

※「ミレー」ロマン・ロラン著、蛯原徳夫訳、岩波文庫、1939年10月5日第1刷発行

2005/10/19(水)晴れ時々曇りのち雨/Setubal-Lisbon-Paris-Rouen

 今回はフランス航空ではなく、ポルトガル航空を使うことにした。

 フランス航空より20分遅く8時発だが、やはりセトゥーバルを5時の始発バスに乗らなければならない。

 パリに着くのはド・ゴール空港ではなく、今回はオルリー空港である。

 オルリーから北駅までRERで行き、メトロでジュール・ジョフリンまで乗り、ムッシューMの家に行く。

 雨が降ったらしく、石畳が濡れている。それ程寒くもない。

 

 ムッシューの手作りケーキと木の実のお茶をご馳走になる。

 一番上階の部屋なので日当りが良い。窓から顔を出すとサクレクールの尖塔が見える。

 ジュール・ジョフリンとサクレクールの中間とはまことに羨ましいロケーションだ。

 

 100号を預けてまたメトロに乗りサン・ラザール駅に向かう。

 この駅も印象派にはゆかりの駅だ。

 モネは汽車の蒸気に煙るサン・ラザール駅を何度も絵にしているし、カイユボットはこの<ヨーロッパ橋から下の線路を覗き込む男>の面白いモティーフを描いている。

 

 ルーアンまでの切符を買って、サンドウィッチと水を買い、大急ぎでホームへ走った。

 まさにルーアン行きの列車が発車しようとしていた。

 最後列に飛び乗って動き出した列車の通路を前に進んだ。

 全ての2人席に1人か2人が座っていて2人並びの席は空いていない。

 あきらめかけていたが、最前の車輌まで行ってようやく一つが空いていた。

 早速、サンドウィッチを開いて昼食だ。

 パリから30分程走った最初の停車駅マントラ・ジョリで殆どの人が降りてしまい、がら空きになってしまった。

 

 マントラ・ジョリは佐伯祐三がノートルダムを描いた街だ。

 代表作の一つで裏にはパレットを持つ立ち姿の自画像が描かれている。

 

 ルーアンに着いて目指すホテルに向かった。

 あのモネが陽射しの変化を描いたカテドラルのすぐ側にあるホテルであるが、予約はしていない。

 

01.ルーアンで泊ったホテル

 ホテルに空き部屋はあった。しかも角部屋でカテドラルの威容が目の前にある。

 

02.ルーアンのカテドラル

 

03.「ルーアンのカテドラル」モネ/ルーアン美術館

 さっそく、ルーアン美術館 [Musees de Rouen] に急いだ。

 美術館の入場料は1人3ユーロ。二人で6ユーロである。20ユーロ札を出すとお釣がないという。「細かいのがありませんか」と言うので小銭を探したが5ユーロしかなかった。受付のマダムは3ユーロと2ユーロの入場券を作ってくれた。老人割り引きにしてくれたのだろうか?

 

 閉館まで1時間半があったので充分観ることができると思っていたが、思っていたのより膨大なコレクションで、途中で時間切れになって追い出されてしまった。

 

 夜は雨も降り出したのでホテルの下のブラッセリ-で定食を食べることにした。これが手頃で案外と良かった。地元のビジネスマンや家族づれの常連客でやがて満席になった。

 

2005/10/20(木)曇り時々晴れ/Rouen-Le Havre

 

 昨日の続きの美術館を観る開館前に街を散策。ここのカテドラルのステンドグラスも立派だ。

 

04.ルーアンのカテドラルのステンドグラス

 雨あがりの濡れた石畳が複雑な色を発色させて美しい。それに朝日が反射して街がいっそう美しく見える。この街もコロンバージュ(木骨煉瓦造りの家)の地域がたくさん残されている。

 

05.コロンバージュの家

 

06.ルーアンの町並

 

07.ルーアン大時計通り

 

 美術館は受付を真ん中にして展示場は左右に分かれている。

 

08.ルーアン美術館入口

 裏側では細い階段で繋がっているが、今日は昨日は観なかった反体側から観ることにした。釣り銭のいらない様に、丁度6ユーロを払った。昨日はイコンから始まって印象派くらいまでだったから、今日はそれ以降だ。

 きょうは出口から入ったことになる。入ってすぐの3部屋目にモディリアニが2点あった。

 

09.モディリアニの展示室

 この美術館の目玉の様である。

 印象派以降ばかりかと思っていたら、ドラクロアなどの大作も展示されていた。中庭(と言ってもガラス屋根がある)にデュフィの横10メートルほどもある巨大な絵があった。

 

10.デュフィの絵

 美術館を出て、その近くにある陶磁博物館 [Musee de la Ceramique] にも行った。

 16世紀からのルーアンの陶磁とヨーロッパ陶磁の良い物が揃っている。陶磁器で作られた地球儀があったが、日本は北海道も九州もなくサツマイモの様な形であった。

 

11.陶磁の地球儀

 その窓から、ジャンヌ・ダルクが幽閉されていたという、塔が間近に見えた。

 

12.ジャンヌ・ダルクが幽閉されていた塔

 塔まで行ってみたが、その横の通りが石畳工事の最中であった。石が大きいのでポルトガルの石畳工事とはかなり違う。

 

 ホテルに戻りリュックを担いで駅に向かう。

 ルーアンからル・アーブルは列車がしょっちゅう出ているものと多寡をくくっていたが、駅に着くと次の列車までたっぷり2時間を待たなければならなかった。

 

13.ルーアン駅

 駅から一旦出てカフェでシードル(リンゴ酒)を飲む。

 駅でサンドウィッチとミッシュランのノルマンディーの地図を買う。地図を見ると、シェルブールから岬の突端への中間くらいの所にミレーの生まれた小村グリュシーを見つけることが出来た。ミレーの教区グレヴィルや役場のあるボーモンもある。

 

 ル・アーブルでは駅から長い道を歩いた。ホテルがなかなか見つからない。ツーリスト・インフォメーションの標識を見つけて歩くが遠い。海岸まで出て、そこにようやく見つけることができた。市街地図を貰ってマルロー美術館の場所とホテルを数軒教えてもらう。

 

 目指すホテルにやっとたどり着いたと思ったら満室であった。そのホテルで別のホテルを紹介して貰ったがすぐ側に何軒かあった。そのあたりには固まってあるようだ。部屋の後ろはマルシェ(市場)になっていた。

 さっそく荷物を降ろしてマルロー美術館 [Musee Malraux] へと向かう。
 この美術館にはユージーヌ・ブーダンのコレクションが220点もあるとのことで楽しみにしていたのだ。

 

14.マルロー美術館

 入場料は無料であった。かつての文化大臣アンドレ・マルローを冠したモダンな美術館である。目の前は港でそれこそブーダンの絵にあるような空が広がっている。

 

15.マルロー美術館の前に広がるル・アーブル港

 1階にはモネやピサロ、シスレー、ルノアール、デュフィ、ヴァン・ドンゲンなどがあり、2階に上ると先ず壁一面にブーダンの作品群があった。
 殆どが小さな作品で細い金縁額で3段4段掛けで展示されていた。それは油彩には違いないがまるでデッサンの様なブーダンの息遣いまでが聞こえる様で素晴らしいタッチと色彩の数々に圧倒される。

 

16.220点のブーダン作品群


 その他の壁にはあのモネの「印象-日の出」と比較されるべき日の出の作品群は殊更素晴らしいものであった。

 

17.ブーダンの作品

 少し大きな従来から観ているブーダンらしい完成作も何点かあった。予想を遥かに越えてブーダンの素晴らしさにすっかり魅了されてしまった。いままでオルセーや他の美術館などで少しずつ観ていたのや、画集で観ていたのとは全く違ってブーダンの認識を新たにした展示であった。

 その2階にはクールベやフラゴナールの作品も1点ずつ飾られていた。

 

2005/10/21(金)曇り一時雨/Le Havre-Honfleur


 昨日は美術館に行くのに急いでいたので、ツーリスト・インフォメーションで次のオンフルール行きのバスの乗り場と時刻を聞くのを忘れていた。ホテルで聞いたら時刻表が一枚だけあって、調べてくれた。バスターミナルは駅の隣である。その時刻にあわせてバスターミナルまで30分程の道のりをのんびり歩いた。

 発車時刻より30分も早くに着いた筈が、バスは今出たばかりだと言う。ホテルの主人は間違って教えたのだ。或いは時刻表が古かったのかも知れない。フランスの時刻表は複雑で見難い。
 次のバスまで3時間も待たなければならない。オンフルールまでは30分で、すぐの筈なのに本数が少ない。
 停まっているタクシーにオンフルールまでの値段を聞いたが、高くてバカらしいのでバスを待つことにした。

 ル・アーブルのカテドラルを見ていないし、旧港も見ていないので行く事にしたが、途中で雨が降り出し風も強く折りたたみ傘では役に立たないので引き返した。
 しかもこの折りたたみ傘は先日より骨が少し折れ曲がって開きにくくなっていた。

 しかしバスターミナルでこのまま時を過ごすのは無意味な気がしたので、再びカテドラルを目指して歩いた。雨は小降りになりやがて止んでしまった。

 旧港にはかつてピサロがイーゼルを立てた場所に標識が設置されていた。

 

18.ピサロがイーゼルを立てたル・アーブル旧港

 旧港からカテドラルまで行って、新港に出るとそこはマルロー美術館のすぐ側まで来ていた。

 

19.ル・アーブルのカテドラル

 昨日、着いた時は随分と遠回りしたものだ。


 オンフルール行きのバスはすぐに高速道路の様なところに入り、やがてノルマンディー橋にかかった。なんだか、リスボンのヴァスコ・ダ・ガマ橋に似ている。橋を渡るころから再び雨が降り出した。

 オンフルールに着いた時も雨が激しく降っていた。すぐにツーリスト・インフォメーションが目に付いたが昼休みで閉まっていた。そのまん前にホテルの看板があったので聞いてみることにした。レストランがホテルも経営していて、その二階が部屋になっていた。ブルーに塗られたコロンバージュの建物で部屋も悪くはなかったのですぐに決めた。

20.オンフルールで泊ったホテル

 女将さんにブーダン美術館の場所を尋ねたら、「今、インフォメーションが開いた時間だから、先ず地図を貰ってきたら?地図を貰ってきてから教えてあげるから…。」と言ったが、なるほどと思った。
 インフォメーションで地図を貰うのならそこで道順を聞いたほうが早い話だが、「インフォメーションで聞け」とは言わない。
 てきぱきと要領を得て相手に不快感を与えず「なるほど」と感心した話だ。さすが、一級の観光地でホテル・レストランを経営しているだけの裁量を感じた。

 ブーダン美術館 [Musee Eugene Boudin Honfleur] に着いた時は、昼休みがちょうど終わった時間で3分待ちで入場することができた。

 

21.オンフルール・ブーダン美術館入口

 ここではブーダンの代表的な作品は少なく、まだスタイルが確立されていないのや、勉強時代の模写などがたくさん飾られていた。シャルダンの「赤エイ」の模写もあった。写真を撮りたかったが残念ながら、ここでは撮影禁止であった。


 ブーダン美術館を出た階段道のところに「サティの家はこちら」の看板があったので、その看板に従って階段道を降りた。

 

22.サティの家

 サティの家 [Maisons Satie] はまるでテーマパークか現代美術館の様に趣向を凝らした部屋部屋が作られていて大人も子供も楽しめる様になっていた。屋根裏部屋では白いピアノがサティの曲を自動演奏していた。

 

23.サティの屋根裏部屋の自動ピアノ


 もったいないことに入場者は終始、僕たち2人きりであった。

 

24.オンフルール

 夕食にはまだ時間があったので、オンフルールの港に面したテラスでシードルを飲んだ。

 

25.オンフルールのシードル屋

 その前に広がる風景は、皆がよく絵にするところだ。
 夕食はホテルの階下のレストランで生牡蠣付きの定食を注文した。シードルを1本空けたが飲み足りなかったのでワインも追加した。少々酔っ払っても部屋はすぐ上である。
 気持が良かったので、夜のオンフルールを散歩した。夜景も水面に映して美しい町である。

 

26.オンフルールの夜景


 1972年、最初にこの街を訪れた時、クルマが故障してそれどころではなかったのも、今になってみれば懐かしい思い出だ。

 

2005/10/22(土)曇り一時雨/Honfleur-Caen


 ブーダンやモネも描いているオンフルールのサント・カトリーヌ教会広場に今日は土曜日なので朝市が出る。朝食前に一度出かけたがまだ準備中の露店が多かった。野菜、果物、花、牡蠣、海産物、チーズ、ソーセージ、シードルもある。クスクスやパエリアの大鍋を準備中の店もあった。
 「今日の昼はパエリアにしても良いな。」と思っていた。かつて、アルルの露天市でもパエリアを買ってTGVに持ち込み、パリまで帰る車内で食べたことがある。その時は満席で、パエリアの強烈な良い匂いが車内に漂うのに少々気が引けたものだ。今回はバスであるから尚更である。

 ホテルに戻って朝食を済ませ丘の上のノートルダム・ド・グラス礼拝堂まで散歩した。昨日のル・アーブルが鳥瞰できる。

 

27.聖カトリーヌ教会前に出た朝市

 再び朝市に寄った。聖カトリーヌ教会鐘楼の入口が開いていたので入場料を払って見学をした。
 フランスには珍しく木造の教会だ。これと良く似たのをノルウェーのベルゲンで見た。ヨーロッパ最古の木造教会とのことであったと思う。でも教会とはいえ、これもコロンバージュには違いない。

 随分人出も多く、店もすっかり揃っていた。山盛りにしてあった牡蠣もだいぶ少なくなっている。
パエリアの露店でも鍋の半分程は既に売れていた。やはりパエリアを買ってしまった。

 

28.パエリア屋さん

 

29.パエリア一人前


 ホテルを出、バス停に早めに行き、港に面したベンチで早速パエリアを広げた。
 バスの中でよりここの方が気持が良い。バスが来る前に半分を平らげてしまった。

 カーンでは国鉄駅を中継して街の中心地までバスは入って行った。
 バスを降りたところに数軒のホテルの看板が見える。
 バス停のすぐ前のホテルで値段を聞いたが部屋を見るとあまりしっくりこないので、その筋向いのホテルも聞いてみた。そしてそこに決めた。
 窓が大きく広場に面して、しかもこの街の観光スポット、女子修道院の尖塔が見える。
 部屋でパエリアの続きを食べて、早速美術館に急いだ。

 お城の敷地内にモダンな建物があり、そこがカーン美術館 [Musee des Beaux-Arts Caen] だ。

 

30.カーン美術館入口

 ここでも古いイコンから現代美術までひととおり揃っている。
 驚いたことにペーテル・ブリューゲルとロヒール・ファン・デル・ウェイデンの素晴らしい作品があった。

 

31.ブリューゲル

 横にいた係りの人に写真を撮っても良いか?と尋ねたら、OKであった。
 少し暗かったのと緊張したのとで、後で見ると手ブレがしていて惜しいことをした。
 その他にもルーベンスやジェリコーそれにポルトガル人抽象画家・マリア・ヴィエイラ・ダ・シルヴァの作品もあった。
 この画家の作品はフランスのあちこちの美術館でよく見かける。
 ピカソなどと親交のあったその時代の画家だ。
 美術館を出ると少し雨が降っていた。

 雨宿りのつもりで美術館の前にあった、ノルマンディー歴史博物館 [Musee de Normandie] にも入った。以前に観たブルターニュ博物館とも微妙に違う。
 また展示方法にもそれぞれ工夫が凝らされていてそんな違いを観るのも楽しい。
 歴史博物館を出ると雨はますます強く降っていた。
 ツーリスト・インフォメーションで市街地図と、バイユー行き列車の時刻表を貰う。

 その頃には雨も上ったので、女子修道院まで散歩した。

 

32.女子修道院のトリニテ教会

 ミサでもあるのだろうか?老人たちがトリニテ教会の中に吸い込まれる様に次から次に入ってゆく。僕たちは入るのを遠慮した。

 来た時とは別の一段高いところを走っているお屋敷街の道を歩いて行くことにした。
 若者2人がクルマを駐車して、大きなテレビをクルマから出した。どこかのお屋敷に運び入れるのだろうと思っていたら、休憩しながらどんどん下へ下へ運んで行って、やがて繁華街まで出てしまった。余程重いらしく息を切らして赤い顔をしている。2人とも背は高いがひょろっとして力はなさそうな青年であった。テレビを修理に出すのかも知れないが、それなら修理屋のまん前で一旦テレビを下ろしてからどこかに駐車すれば良いのに、と思って見ていた。

 中心地まで出てしまったので今度は町の反体側にある男子修道院にも行ってみた。

 

33.男子修道院

 ホテルに戻ると「前の駐車場にクルマは停めていませんか?」と聞く。「いいや」と応えたが、「明日は日曜日で大規模な露天市がこの場所で開かれます」とのことであった。
 夜のうちから、露店準備のクルマが集まり始めていた。VIT

ミレーの生れ故郷・グリュシー村を訪ねて(下) へつづく。

 

(この文は2005年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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038. ローマ遺跡都市メリダ MÉRIDA

2018-11-02 | 旅日記

 ポルトガルからスペインの国境を越えて30分も走るとメリダに着く。
 メリダはイベリア半島では最大規模のローマ遺跡が残っている町だ。

 

01.ローマ劇場[Teatro Romano]

 それにここの博物館が素晴らしい。
 ローマ遺跡から発掘された彫刻、モザイク、フレスコ画、陶器、ガラス器、コイン、アクセサリーなど、展示物の豊富さもさることながら、演出にセンスを感じる。
 建物本体はモダンな造りだが、決してそのローマ遺跡の環境を壊さないでとてもマッチしむしろ展示物を充分に生かしている。

 

02.メリダ博物館内部[Museo de Arte Romano]

 以前に一度来たところだが、もう一度この博物館が観たくて、カセレス、サラマンカへの旅の途中立ち寄ったのだ。

 ついこの間と思っていたら、記録をみると1994年となっているから11年も前になる。
 一度観たものでもまた新鮮な気分で観る事ができた。

 

03.ローマ皇帝の家族の大理石彫像/2世紀

 膨大な展示物は保存状態も良く、改めてローマ帝国の強大さが偲ばれる。
 大理石の彫像を観ていると、ついそこで出会った様な少年の像があったりして、2000年も前でも現代と変わらないのではと錯覚してしまう。
 でもその間には長大な時が流れ、歴史が作られたのだ。
 政治にしろ経済にしろ現代社会とは全く違う形態なのだろうが、果たしてそうなのであろうか?
 この彫像や建造物を見る限りではあまり文化程度は進んでいないのでは、歴史とは何なのか?などと考えてしまう。
 いや、人類全体の歴史からすればローマ時代などはほんの先の時代なのかも知れない。

 

04.大理石彫像頭部/2世紀(博物館の展示品)

 胸に名札をつけた監視人が観覧者の数と同じくらいいて、隅々に2~3人ずつたむろしてヒソヒソとお喋りに夢中だ。
 時たま観覧者がカメラのストロボなどを発光させると注意をするくらいの仕事をしている。
 スペインもポルトガルと同じく公務員天国なのだろう。
 博物館の開館時間は9:30~13:45、17:00~19:15となっている。つまり13時45分から17時までシエスタ(昼寝時間)を取る。たっぷりとシエスタを取った後だから元気が有り余っているのかも知れない。

 

05.円形劇場への通路[Anfiteatro Romano]

 博物館の地下は遺跡がそのままの姿で残されていて、フレスコ画やローマ柱などのある地下遺跡を見学できるようになっている。

 

06.美しいさまざまな色石で作られたモザイク模様(博物館の展示品)

 ローマ街道跡を渡りアーチ造りの地下道を通り抜けるとローマ劇場[Teatro Romano]、と円形劇場[Anfiteatro]に出る。
 ローマ劇場では最近になって時々演劇が催されている。現代の照明を駆使しての演劇だから素晴らしいものだろう。一度観てみたいものだ。
 最近は、エジプトのピラミッドの前でのオペラとか、奈良の東大寺でのロックコンサートとか、古いものとの組み合わせが流行っているようだ。
 円形劇場は古代には闘士とライオンなどの猛獣との戦いが行われたところだ。それを今に蘇らせるのは無理な話だが…。現代の闘牛はその名残だろうか?闘牛でも最近は動物虐待などと批判が出始めて久しい。

 

07.ローマ劇場背面[Teatro Romano]

 以前にここに来たのは1994年の1月5日。日本ではまだ正月気分の抜けない松の内だが、スペインでもクリスマス週間の最後の時期であった。

 寒い時で見学者は殆ど見かけなかったが、今回は9月の観光シーズン中だから、以前に比べると観光客が多い。

 真夏よりは過ごしやすいシーズンだが、街のデジタル温度計は37度を指していた。
 観光客はランニング1枚に水のペットボトルが手放せない。やはり大西洋に面したセトゥーバルなどに比べるとメリダは内陸部だから昼と夜の気温差が大きい。

 

08.ディアナの神殿[Templo de Diana]

 ブティックや商店、カフェなどが建ち並ぶ町の中心市街地にもディアナの神殿跡[Templo de Diana]や柱廊のあるローマ広場[Portico del Foro]、ローマの町門跡[Arco de Trajano]など見所が随所にあり、散歩をしていても楽しい町である。

 メリダの中心にあるスペイン広場には薄暗くなりかけた頃から夜遅くまで、家族連れや若者などがぞくぞくと集り、子供たちは自転車に乗ったり、ローラースケートをしたり、乳母車を押した若夫婦が赤ん坊を老人たちに紹介したり、カフェに座ってビールを飲みながらお喋りを楽しんだりといつまでも人々は絶えない。
 僕たちも町の中心に宿をとったので、町の人たちに混じって夜遅くまでテラスでビールを飲みながら人の往来を楽しんだ。

 

09.スペイン広場[Plaza de Espana]

 2日目は朝から地下遺跡がある古い教会に行く予定だが、開場が10時からなので、その前に水道橋に行く事にした。
 以前にはこれは見逃したところだ。ロ-マ劇場の反対側、ホテルから歩いて10分ほどの所にその水道橋はあった。

 

10.水道橋跡[Acueducto Los Milagros]

 そこは水道橋を中心とした大きな公園になっていて、朝の散歩を楽しんでいる人や、通勤で横切る人、それに芝刈りが行われていて、芝の匂いが気持ちよい。
 水道橋のてっぺんにはコウノトリの巣がいくつもあったが、コウノトリの姿はなく、メルローくらいの大きさの鳥が群れて一風変った声で鳴いていた。メルローとはまた違う鳥なのだろう。芝が刈られた後には十数羽の白鷺も朝食の最中であった。
 水道橋の真下まで行ってみると、やはりその巨大さに今さらながら圧倒されてしまう。
 ポルトガルにも水道橋はあちこちにあって今も使われているところもある。
 ただ水を引くために古代の人はよくこれだけの建造物を造ったものだと感心させられる。
 いや地上の見えているところだけではなく、地下の下水道設備など本当に良く出来ている。

 

11.地下遺跡のあるサンタ・エウラリア教会[Basilica Santa Eulalia]

 地下遺跡が見学できるサンタ・エウラリア教会の地上階ではミサが行われていて、その人々のお祈りが不気味に響き渡る薄暗い地下には、巨大な柱の基礎と墓地、そしてフレスコ画があり照明が当てられていた。
 長居は無用、早々にそれらを見学した後、再び繁華街を横断して、イスラムの城跡、アルカサバ[Alcazaba Arabe]にも行った。
 ここには大量のモザイクが無雑作に雨ざらし、陽ざらしに立てかけ積み重ねてあって、観光資源として実に勿体ないと以前にも思っていたのだが、11年経った今もそのままであった。

 

12.オリーヴの根元に立てかけ積み重ねられたローマモザイク

 庭園に植栽されているオリーヴの木に緑や紫に色づいた立派な実が鈴なりになっていた。そろそろセトゥーバルのメルカド(市場)にも、アゼイト・ノーヴォ(浅漬けオリーヴ)が出回る時期だ。

 

13.実ったオリーヴの木と発掘大理石柱

 アルカサバの城壁に登るとローマ橋が見える。
 ローマ橋の下を流れるグワヤキル川にはびっしりとホテイアオイが繁茂し薄紫の涼しげな花をいっぱいつけていた。

 

14.ローマ橋とグワヤキル川に繁茂した花咲くホテイアオイ

 昼間の温度計は37度を指していてもやはり9月下旬、夕方には秋を感じさせる爽やかな風が遺跡都市メリダにもそよいでいた。
VIT

 

15.豹狩りのモザイク(博物館の展示品)

 

16.戦士のモザイク(博物館の展示品)

(写真撮影・MUZVIT)

 

(この文は2005年10月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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035. ゴッホが観た絵

2018-10-29 | 旅日記

 このところ毎年秋にサロン・ドートンヌとル・サロンに出品するための2枚の100号をパリまで運んでいる。

 一ヶ月以上も先のル・サロンを観ることは無理だとしてもサロン・ドートンヌだけでも観てから帰るためには搬入から始まるまでの一週間から10日をフランスで過ごすことになる。

 その間いつもいつもパリの美術館見学というのでも良いのだけれど、せっかくだからというのでパリ周辺の佐伯祐三の足跡を訪ねてみよう、と思い立ったのがもう何年前になるだろうか。

 モランやクラマールといったところは佐伯祐三でしかない場所だが、佐伯祐三を訪ねてオーヴェールに行くと、そこにはたくさんの画家たちの足跡がある。

 ドービニー、ピサロ、セザンヌ、ヴラマンクそしてゴッホ等々。

 それなら佐伯祐三の次にはゴッホの足跡もと、一昨年はアルルとサンレミ・ド・プロヴァンスに足をのばした。

 そしてその時にまだ見切れなかったプロヴァンスを今回は歩くことにした。

 

 ゴッホがあの忌まわしい<耳きり事件>を起こした6日前、ゴーガンがゴッホを伴って見学をしたモンペリエのファーブル美術館。

 もともとはアルフレッド・ブリュイアスという富豪のコレクションであろうか。

 他ではあまり観られないモンペリエ出身のファーブル(1766-1837)という画家の作品が一堂に集められてこの美術館の名前が理解できる。

 

01.彫刻家/1812/ファーブル

 

02.聖サウル/1803/ファーブル

 

 パトロンのA・ブリュイアスはたくさんの画家や彫刻家たちに自身の肖像画や肖像を作らせている。

 この作品も一種の肖像画と言えるのであろう。

 田舎道でスケッチに行く途中のクールベとブリュイアスとその執事がばったりと出会って挨拶を交わしている、

 クールベの「ボンジュール ムッシュ クールベ」(クールベさんこんにちは)はこの美術館の目玉だ。

 

03.クールベさんこんにちは/1854/クールベ

 

04.ブリュイアスの肖像/1853/クールベ

 

 ドラクロアまでもがこのパトロンの肖像を何点も描いている。

 ファーブル美術館ではなくてブリュイアス美術館でも良いのではないか、と思える程この人の肖像がたくさん展示してある。

 

 ゴッホとゴーガンがどんな気持でこれらの作品を観て回ったのであろうかと想像しながら観てゆくのも楽しいものである。

 この美術館にはゴッホやゴーガンが観たであろう作品(ファーブルの他にラファエロ、ボッチチェリ、ジオット、スルバラン、テオドール・ルソー、プーサン、ドラクロア、クールベ、コロー等)と、それ以外、ゴッホとゴーガンが見学した以後の作品もたくさん収蔵されている。

 ドガ、カイユボット、ヴァン・ドンゲン、ボナール、マティス等と珍しくユトリロの母、スザンヌ・ヴァラドンの作品、そしてデュフィや現代美術も展示してある。

 がしかし残念ながらゴッホとゴーガンの作品は一点もない。

 

 ゴッホが船や教会、荷馬車を描いたサント・マリー・ド・ラ・メールへも足をのばした。

 教会はそっくりそのままの姿で残っているが、もちろん望むべくもない荷馬車は今はない。

 漁船の形もすっかり現代風に変わってしまっていて、その当時の船の形や色彩はむしろ我がセトゥーバルに面影が残っている。

 

05.サント・マリーの漁船/1888/ゴッホ

 

06.サント・マリーの教会/1888/ゴッホ

 

07.馬車/1888/ゴッホ

 

 サント・マリー・ド・ラ・メールは当時から寒漁村にちがいないが今はリゾート化が進んでいる。

 パリなどと比べると随分暖かく、その時も10月だというのに海水浴を楽しんでいる親子連れがいた。とはいってもポルトガルよりは気温は低いのだが…。

 ゴッホにとってこの温度と夏の様な光線は余程うれしかったにちがいない。

 滞在した5日間にたくさんの作品を残している。

 

 それと今回の旅でぜひ観たかったのが、マルセイユ美術館のモンティセリ。

 モンティセリはその重厚なマティエールでゴッホに少なからず影響をあたえたマルセイユの画家だ。

 以前にオルセー美術館で静物画を一点だけは観ているが、ゴッホと同じ眼で是非ともこのマルセイユのモンティセリを観てみたかったのだ。

 6点の小さな作品と40号ばかりの婦人像で計7点。

 その内、ある1点、6号くらいの縦の風景画を観て、僕は思わずニャッとしてしまった。

 それはあまりにもゴッホが、サンレミ精神病院の前庭を描いた作品に似ていたからだ。

 

08.サンレミの病院の前庭/1889/ゴッホ

 

 ゴッホとゴーガンがモンティセリのこと、そして1888年12月17日、ファーブル美術館でのドラクロアやレンブラント、さらにクールベの作品の前で闘わしたであろう議論。

 112年前のそんなことに思いを馳せながらのゴッホの足跡を訪ねる旅になった。

 

 ついでにと言ってはなんだが、エクス・アン・プロヴァンスにも足をのばした。

 この地はセザンヌが生まれ育ち、終焉の地でもある。

 アトリエは大切に保存されている。

 セザンヌが繰り返し描いたサント・ヴィクトア-ル山がある。

 その山が見たくて足をのばした。

 セザンヌの足跡を訪ねるには、以前にも何度も訪れているオーヴェール・シュル・オワーズと昨年訪れたマルセイユ近郊のレスタック、そして、ここエクス・アン・プロヴァンスで完結という訳である。

 

 佐伯祐三、ゴッホ、セザンヌと足跡を訪ねて、次はゴーガン。

 とは言ってもゴーガンの場合そう簡単にはいかない。

 ノルマンディーのポンタヴァンには来秋にでもすぐに行くことはできるだろうが、タヒチやマルチニック島、さらにはパナマ運河にはそうはたやすくは行けない。

 以前、南米コロンビアから中米に向かう時、パナマは避けてカリブ海に浮かぶサン・アンドレス島を中継点に選んだ。惜しいことをした。

 

 ル・サロンは300年以上も続いている世界一長寿の展覧会である。

 かつてドラクロアも金メダルを獲っているし、後には審査員も務めている。

 一方クールベはその当時の古典的なル・サロンには常に挑戦的で「写実派」という新しい作品を出品し続け、そして審査員たちからは常に非難を浴び続けた。

 「ボンジュール ムッシュ クールベ」にもそんな姿勢が伺える。

 その姿勢は印象派や野獣派にも受け継がれ、やがて 1904 年にはル・サロンに反してフォービズムの画家たちの発表の場としてサロン・ドートンヌが起こることになる。

 時代は変わってル・サロンもサロン・ドートンヌもすっかり様子は変わってしまっている。

VIT

 

 

(2000年12月17日発行の不定期紙「ポルトガルのえんとつNO.94」に書いた文を2005年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に転載した文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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034. ゴッホの足跡をたずねて

2018-10-28 | 旅日記

 セトゥーバルからパリまでサロン・ドートンヌに出品するための100号の絵を運んでいって、それが始まるまでの一週間をアルルで過ごすことにした。

 

 アルルではラ・マルティーヌ広場1~3番地のホテルに一ヶ月も前から予約を取っておいた。

 ぜひともその番地のホテルに泊まってみたかったからだ。

 ホテルは駅からほんの1~2分。

 ロータリーに面していてクルマはひっきりなしだし、そのロータリーに沿った公園には移動遊園地が出ていて、ひょっとしたら夜はうるさくて眠れないかも知れないとも思った。

 部屋はがら空きで「どこでもお好きなところをどうぞ」とのことであったが、あえてそのロータリーに面した2階の部屋にした。

 

 そのロータリーがラ・マルティーヌ広場である。

 かつてこのラ・マルティーヌ広場2番地に黄色い家があった。

 ゴッホの<黄色い家>である。

 

01.アルルの黄色い家/1888/ゴッホ美術館

 残念ながら今はない。

 ロータリーの外側のホテルの前の、今駐車スペースになっているあたりにたぶん建っていたものと思われる。

 ゴッホの絵の黄色い家のうしろに描かれている4階建ての家は今も健在だし、さらにうしろの汽車のガードもそのまま。

 黄色い家と雑貨屋はないけれどゴッホの絵の中の風景の、まさにその場所に泊まることができたというわけ。

 

 フランスでホテルはだいたいいつも2つ星程度に泊まることにしているが、ここは1つ星。

 名前は『オテル・ドゥ・フランス・エ・ドゥ・ラ・ガール』。

 日本語にすると<駅前フランスホテル>といったところか。

 かつてゴッホが食事の世話になっていた<ジヌウ夫人>のカフェ・ドゥ・ラ・ガール(駅前喫茶)がこの場所であったのかも知れない。

 

02.ジヌウ夫人/1888or1889/メトロポリタン美術館


 1つ星といっても部屋にシャワーもトイレも付いているし、ベランダからはラ・マルティーヌ広場を通してカヴァルリ門を見ることもできる。
 移動遊園地がなければローヌ河も見えたはず。
 朝食も広場に面した明るいテラスで、ぱりっと温めてあるクロワッサンとエスプレッソのカフェ・オ・レそれに手作りマーマレード。
 なかなか気が利いている。
 忙しそうに働くその女将も少し若いけれどどことなく<ジヌウ夫人>に似ている様な気がする。


 アルルではゴッホが描いた場所を判るかぎり全て見て歩いた。

 

03.アルルの跳ね橋/1888/クレラー・ミュラー美術館

 

04.フォーラム広場の夜のカフェテラス/1888/クレラー・ミュラー美術館

 

05.アリスカン・ローマ墓地1888/クレラー・ミュラ-美術館

 

06.アルル病院の中庭/1889/オスカー・ライナー・コレクション

 

07.アルルの闘技場遠望/1888/ヴィンテルフール美術館

 

08.星空のローヌ河/1888/オルセー美術館

 

09.モンマジュール僧院遠望/1888/ゴッホ美術館

 

10.赤く色づいたぶどう畑/1888/プーシキン美術館

 

 ヨーロッパの良いところは100年経ってもほとんど変っていないこと。
 ゴッホの絵の場所がほぼそのまま残っている。

 アルルからサン・レミ・ド・プロヴァンスへも足をのばした。
 モンマジュールの僧院を通ってドーデーの風車小屋にも立ち寄った。
 ドーデーはゴッホが愛読した、ということだったので僕もポルトガルに住んで間もなくの頃、もう7~8年前になるか、一冊だけ「タラスコンみなと」という小説を読んだ。
 次にはぜひ「風車小屋だより」も読んでみたいと思っている。

 そして一級の観光地レ・ボー。
 中世の時代、1400年代に城があった岩山の廃墟。
 その岩山が圧巻。
 岩山をくりぬき、削り、柱や梁を差し込むための四角い穴。
 穴のたくさん掘られた岩の壁。
 どんな彫刻家もかなわない山ごと大きなまるで現代彫刻。

 サン・レミ・ド・プロヴァンスに到着したのは暗くなってから。
 町の入口でツーリストオフィスが目に付いたので飛び込む。
 まさに今、閉めようとしているところであったがホテルを紹介してもらう。
 ホテルは教会の前の広場に面したところ。

 翌朝は早くからサン・ポール・ド・モーゾール精神病院を目指す。
 病院はサン・レミ郊外、グラーヌム遺跡(ローマ神殿跡)と隣り合わせにあった。
 その病院は今も精神病院として使われていて見学は出来ないが、病院に付属の教会には入ることが出来る。
 その2階に当時ゴッホにアトリエとしてあてがわれていた6畳ほどの小さな部屋が保存されていた。
 部屋の前の壁にはゴッホが修道女長宛てに書いた礼状のコピーが張られている。
 びっしりと手書の文字で埋めつくされている。
 何が書いてあるのか分からないが、礼状ということは、サン・レミを出てパリからかオーヴェールから投函したものだろう。
 いずれにしろ死の少し前の手紙ということになる。
 ひとしきり部屋や廊下を眺めまわして後、窓の外に目をやって「あっと」目を見張った。
 そこにはあの<囲われた畑>そっくりそのままの風景があった。

 

11.囲われた畑/1889/個人蔵


 グラーヌム遺跡の発掘調査が始まったのは1921年。
 ゴッホがこの病院にいた時より22年後からのことになる。
 遺跡の規模はかなりのもので、我々は半日も居たが見学者は最初から最後まで我々2人だけで、出口のところで3~4人の観光客が入場するのにすれ違っただけ。
 そのローマ遺跡からゴッホの絵にある<穴のあいた山>を確かに見ることができた。
 ゴッホの絵では前景がオリーヴ園になっているから、その遺跡も発掘前はオリーヴ園だったのかも知れない。

 

12.穴あき山/1889/ウイットニ-コレクション

 

13.石切り場1889/個人蔵


 ゴッホが描いた<石切り場>もそのまま。
 その石切り場はグラーヌム神殿のために切り出した石切り場であったとは当時のゴッホにはどの程度判っていたことであろうかと不思議な感覚になる。

 グラーヌム神殿を見下ろす小高いところに立つとサン・レミの町が遠望できる。
 その風景を見てまたまた「あれーっ」と叫び声を出してしまった。
 あの<星月夜>の風景なのだ。

 

14.星月夜/1889/ニューヨーク近代美術館

 昼間なのでもちろん星はないが、絵の中の渦巻く星空の下に描かれた教会の塔と町並の風景がそっくりそのまま。
 あの<星月夜>はサン・レミの町を遠望した風景だったのだ。
 しかも昨夜はその教会の塔のまん前のホテルに偶然にも泊まったことになる。

 サン・レミからはゴッホが辿ったのと同じ道をタラスコンまで。
 ゴッホはここから一人でパリへ戻り、リヨン駅で弟テオの出迎えを受け、無天蓋馬車でシテ・ピガルへ。
 そしてヨハンナと初対面。
 3日後オーヴェールへ向かいラヴウ亭に下宿することになる。

 我々はタラスコンから一旦アルルへ戻り、又一泊してアヴィニヨンでTGVに乗り換えパリ・リヨン駅へ。
 サロン・ドートンヌで自分の作品を見、ハッと夢からさめ我に返った、というわけ。
 それ程、ゴッホを辿る旅はまるで夢の中の出来事の様に感動の連続であったのだ。

 次の日リスボンへ戻る便が夕方だったので我々もオーヴェールに行くことにした。
 オーヴェール・シュル・オワーズへ行くのはこれで4回目。
 以前はラヴウ亭がずっと修復工事中で中が見られなかったのが、やっと今回念願かなって見ることができた。
 やはり6畳程のせまいせまい屋根裏部屋。
 となりのヒルシフの部屋と共に当時のままに復元されていた。

 僕にとっては作品(絵)そのものだけでなく画家がその風景をどの様に捉え絵にしているのか、周りの環境も含めてどういう空気の中で描いたのか、或いは何をどうして省いたのか、又強調したのか。
 そのもの風景を通して作品を見直してみる、というのは勉強にもなるし、大きな楽しみでもある。

 今回の旅では充分な時間がなくモントーバンやサント・マリー・ド・ラ・メールまでは足を延ばすことができなかった。
 又機会があれば早いうちに訪れたいと思う。
 それとズンデルトとヌエネンにも是非行ってみたいと今、思っている。
 いや以前にはその近くは必ず通過していた筈であるが、あらためて行ってみたいと思う。
VIT

(1999年2月3日発行の不定期紙「ポルトガルのえんとつNO.85」に書いた文を2005年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に転載した文ですが、2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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033. オーヴェール・シュル・オワーズ AUVER SUR OISE

2018-10-27 | 旅日記

 ポルトガルに住んでいても、年に何回かはパリに行く。
 いつも用事だけを済ませてとんぼ返りなのだが、一日、時間が出来たらパリ郊外のオーヴェールに行ってみたいと前々から思っていた。
 そしてそれが今回実現した。

 行ってみると案外簡単に行ける。
 しかもインフォメーションでは日本語の地図まで用意してあるのには驚いた。
 よほど日本人観光客が多いのだろう。

 オーヴェールは僕にとって、佐伯祐三の<村役場>や<オーヴェール・シュル・オワーズ風景>などが印象的で、その場所を見たいと思って行ってみたのだが、それよりもゴッホが最晩年を過ごした村ということで観光地になっているのだ。

01.「オーヴェール・シュル・オワーズ風景」1924年/佐伯祐三

 サンレミの精神病院から弟テオの紹介でガシェ医師の住むオーヴェールに移り住んだゴッホは、ピストル自殺するまでの70日間になんと70点の油絵と30枚のデッサン等をものにしている。
 その中には<オーヴェールの教会><医師ガシェの肖像><荒れ模様の空にカラスの群れ飛ぶ麦畑>など力強い代表作も数多く含まれている。

02.「ガシェ医師の肖像」1890年/ゴッホ

03.「オーヴェールの教会」1890年/ゴッホ

 佐伯祐三が描いた<村役場>やゴッホが下宿していたラヴウ亭、そしてヴラマンクが描いた<オーヴェール駅>に面したメインストリートこそ今は車がひっきりなしに通っているが、一歩中に入るとゴッホが住んでいた当時そのままに静かなフランスの田舎の村のたたずまいがある。
 医師ガシェの家をもう少し先まで歩くとセザンヌの<首吊りの家>の場所に出る。

04.「首吊りの家」1873年/セザンヌ/オルセー美術館蔵

 ゴッホがイーゼルを立てたと思われるところにゴッホの作品の印刷物が掲示されていて、草木などはかなり繁ってはいるけれども、作品とそっくりそのままの風景がまだまだ残っているのが嬉しい。

 せっかくだから、ゴッホのお墓参り、と思って教会の坂道を登り始めた頃、それまで何とか保っていた空からぽつりぽつりと冷たい雨が降りだし、やがてまっ黒い雲と横なぐりの雨になってしまった。

05.「雨のオーヴェール」1890年/ゴッホ

 それでも刈り取られた後の麦畑には小ガラスが群れ飛び、ゴッホとテオの墓に着いた時にはもうぬれ鼠で、なにかゴッホのお墓参りに最もふさわしい様な気もして感激してしまった。

VIT

(1992年10月31日発行の不定期紙「ポルトガルのえんとつNO.38」に書いた文を、2005年8月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に転載したものですが、2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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027. オーヴェル7月最後の20日間-ゴッホとドービニーに関する考察-

2018-10-22 | 旅日記

 先日パリのオルセー美術館でドービニーの下の作品を観た。

 何回となくオルセー美術館は訪れているがこの作品を観たのは初めてである。

 気がつかなかっただけなのかも知れない。

 [1989年付与によりオルセー美術館が獲得]となっているから、それまでは個人コレクションだったのだろう。

 タイトルは「雪」となっているが、恐らくはオーヴェルの風景だ。

 雪原に小カラスの群れ、深く垂れ込めた雲、僅かに青空と茜の空が覗いている。

 清々しい明るい絵である。

01.「雪」1873年作・Salon de 1873出品/シャルル・フランソワ・ドービニー[1817-1876]オルセー美術館蔵

 

 ドービニー [1817-1878] はコロー [1796-1875]、テオドール・ルソー [1812-1867]、ミレー [1814-1875] などと共にバルビゾン派(外光派)の画家である。

 そしてオーヴェル・シュル・オワーズに最初に住んだ画家でもある。

 船を持ちオワーズ川やセーヌ川に漕ぎ出し、刻々と変化する光をとらえるため船の上でも描いたと言われている。

 作品は今までにもフランス各地の美術館で少しずつは観ているが、その多くが上の絵の様に横に細長い風景画を得意としている。

 

 普通キャンバスにはF(Figure-人物)、P(Paisage-風景)、M(Marine-海面)と言う規格のサイズがあるが、もちろん「F」なら人物を描かなければならないと言ったものでもない。P、Mになるに従って細長くなってゆくだけの話である。

 日本と欧米はそのサイズも微妙に違い「日本サイズ」「フランスサイズ」などと言って区別している。

 日本で規格サイズ以外を描いたならば結構大変である。

 木枠は特別に誂えなければならないし、額縁も特別注文になってしまう。

 ポルトガルでも一応の規格サイズ(フランスと同じ)は決まっているのだが、それを誰も気にしない。

 画材店で売られている既成の木枠にしても規格外のものさえ多い。

 大体がいつでも何でも注文してから作る。

 逆に言えばどんなサイズでもお構いなしなのだ。

 だから「何号」といった言い方もあまり通用しない。

 何センチかける何センチというやり方だ。

 フランスもそうなのかも知れない。

 ドービニーの多くの絵は明らかに「M」よりもまだ細長い変形で縦のサイズの2倍が横のサイズだ。

 写真で言う今流行のパノラマである。

02.「曇り空の麦畑」50x100.5cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] ゴッホ美術館蔵/アムステルダム

 

 ドービニーのあと、普仏戦争(1870年)が終ってからはルノアール [1841-1919]、モネ [1840-1926]、ピサロ [1830-1903]、シスレー [1839-1899]、ギョーマン [1841-1927]、それにセザンヌ [1839-1906] などもオーヴェルにやってきて絵を描いた。

 

 ゴッホ [1857-1890] がこの地にやって来たのはドービニーの30年後である。

 サン・レミのサン・ポール・ド・モーゾール精神病院からパリを経由して精神科医ガシェ医師の住むオーヴェルに到着したのは1890年5月20日であった。

 ガシェ医師 [1828-1909] はその当時の進歩的画家たちの良き理解者でもあった。

 自分でもP・ファン・リセルと言う雅号をもって絵やリトグラフをやる。

 ピサロやセザンヌなどもガシェ医師の勧めでこの地を描いたと言われているし、近隣に移り住んだ画家たちも多い。

03.「藁束」50.5x101cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] ダラス美術館蔵

 

 ゴッホはオーヴェルでは発作の再来を恐れながらも充実した日々であった。

 代表作の一つである「オーヴェルの教会」をものにしたし、「ガシェ医師の肖像画」も描いている。

 

 僕たちは5~6度はオーヴェルを訪れている。

 2度目に行った時はサロン・ドートンヌの期間であったから、10月末か11月頃の寒い時季であった。

 駅に着くと右手にゴッホが描いたオーヴェルのカトリック教会が見える。

 駅から道を右にとり急勾配の坂道を登って行くとカトリック教会の横手にぶつかる。

 そこにドービニーの銅像がある。

 ゴッホの時代にはもう既に建っていたのであろうか?

 教会の正面に周ると、あのゴッホが描いた場所に出る。

 それを過ぎたあたりから風が吹きだし横殴りの雨になった。

 墓地への道は右手に麦畑を見るが、小カラスが群れ飛んでまるでゴッホの絵そのままの景色であった。

04.「雨のオーヴェル風景」50x100cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] ウォレス国立美術館蔵

 

 ゴッホは充実したオーヴェルでの制作の日々を送っていたが、7月6日にテオの赤ん坊、その名もゴッホが名親になっている、ヴィンセントが病気になったと言うので見舞うためパリに出かける。

 その時に或いはテオの画廊で上のドービニーの作品「雪」を観たのではないか?と思う。

 もしかしたらガシェ医師の家であったのかも知れない。

05.「草葺の家と丘」50x100cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] テートギャラリー蔵/ロンドン

 

 パリから戻ってから7月6日以降に急にゴッホは細長い絵を描き始めている。

 ここに掲げたゴッホの絵は全て1890年7月に描かれた作品である。

 それまでパリでもアルルでもサン・レミでも細長い絵は一点もないと思う。

 僅かに初期ヌエネンの時代には描いてはいるが…、

 

 絵を描き始めの頃からミレーの精神性を師とし模写を続けてきたゴッホがバルビゾン派として仲間でもある、そしてオーヴェルの先駆者である、ドービニーを意識していなかったわけがない。

 今まではガシェ医師を通じてオーヴェルとドービニーと言う共通点は考えていた。

 でも今回オルセー美術館で観たドービニーの「雪」は季節こそ違えゴッホが「荒れ模様の空にカラスの群れ飛ぶ麦畑」として表現を変えても不思議ではないのではないだろうか?と直感したのだが…。

 ドービニーの作品も「カラスが群れ飛ぶ雪景色」と題しても良いようなモティーフでもある。

06.「荒れ模様の空にカラスの群れ飛ぶ麦畑」50.5x103cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] ゴッホ美術館蔵/アムステルダム

 

 その間には細長い絵ばかりではなく普通サイズの絵も勿論あるのだが、ゴッホが細長く描いた最初の作品が「ドービニーの庭」である。

 「ドービニーの庭」を描きながらゴッホはどんな心境だったのだろうか?

07.「ドービニーの庭」50x101.5cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] バゼル美術館蔵

 

 その後にもオーヴェルに住んだ画家は多い。

 ヴラマンク [1876-1958] もその1人。ヴラマンクはオーヴェルの駅を描いている。

 その駅を出て教会とは反対側の左に道を取ると、ゴッホの死んだ年に生れたザッキン [1890-1967] 作のゴッホ像の建つ公園がある。

 その隣がドービニーの庭である。

 さらにその道を行くと右手にゴッホが下宿したラヴゥ亭とその真向かいに町役場がある。

 「町役場」はゴッホが恐らく最後に描いた作品として知られているが、僕は佐伯祐三 [1898-1928] も描いたその「町役場」を見たくて最初はオーヴェルにやって来たのだった。

 佐伯祐三はヴラマンクに絵を観てもらうためにオーヴェルにやってきたのだが…。

08.「畑を横切る二人の夫人」30.3x59.7cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] マリオン・クーグラー・マックネイ美術館蔵/サン・アントニオ

 

 ゴッホは1890年7月27日に自分の胸に銃弾を撃ち込んだのだ。

 そして29日午前1時30分。ラヴゥ亭の屋根裏部屋で息を引き取った。

 この短い20日間に描いた横に細長い絵の数々は何かを意味しているのであろうか?

09.「根と幹」50x100cm/Auvers-sur-Oise/1890年7月作/ゴッホ[1853-1890] ゴッホ美術館/アムステルダム

 

 日本ではカラスというと厄介者である。

 そして不吉?な鳥でもある。

 都会では生ゴミを漁るカラスが増え人まで襲うと言う。

 

 オーヴェルにいるのは小カラスである。

 ハシブトカラスとルリカケスのちょうど中間くらいの大きさだろうか?

 フランスでも不吉な鳥なのかも知れない。

 

 ポルトガルではそれほどカラスの姿をみかけない。たまにいても2~3羽。

 コウノトリやカモメの方が多い。

 ポルトガルでカラスは神聖な鳥として崇められている。

 聖人サン・ビセンテは9世紀ポルトガルの南西の地、サグレス岬に埋葬され小さな教会が建てられた。

 その教会をカラスが守った。

 12世紀モーロ人によりこの教会が破壊され、サン・ビセンテの遺骸はリスボンに運ばれることになった。

 その船がリスボンに着くまでカラスが付き添い遺骸を守り通したのだと言う伝説がある。

 リスボン市の紋章は船とその両側にカラスがいる図柄である。

 そしてたびたび郵便切手などにも登場する。

 


▲カラスとリスボン市の紋章の切手


▲リスボンで開催されたヨーロッパ文化祭記念

10.11.12.13.

 これはポルトガルで売られているジュースのパッケージでテレビCMにも登場する。

 真四角に切り取られたゴッホの「荒れ模様の空にカラスが群れ飛ぶ麦畑」がデザインされている。

 オレンジ、バナナ、レモン、人参と麦がミックスされた健康に配慮された飲物であるが、麦が少しばかり入っているからと言うだけで、何故ゴッホなのであろう?

 飲みながらもおおいに悩み考えさせられ、この考察を書くきっかけにもなった。

VIT

 

(この文は2004年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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026. ロレーヌ地方ナンシー、アールヌーボー紀行 (下)

2018-10-21 | 旅日記

026. ロレーヌ地方ナンシー、アールヌーボー紀行(上)よりの続き

 

2004/10/03(日)晴れ/Nancy-Strasbourg

 

 ナンシーから少し足を延ばしてストラスブールにも行った。

 ストラスブールでは街の中心、グーテンベルグ広場にすぐの「ホテル・グーテンベルグ」に予約を取っておいた。

 部屋は屋根裏部屋で窓からはカテドラルとグーテンベルグ広場もよく見える。

 広場ではメリーゴーランドが廻って子供たちが楽しそうにはしゃいでいる。

 その隣にグーテンベルグの銅像も見える。

 グーテンベルグは印刷術を発明した人物だ。

 この街にも暮らしたことがあるとのことである。

36.37.ホテルの窓から見えるカテドラルとグーテンベルグ広場の夜景/グーテンベルグの像

 

 早速カテドラルの横にある、観光案内所に行った。

 美術館や遊覧船にも乗れるストラスブール・パスを買い求めようとすると「今日は日曜日なので美術館は全て無料ですよ」と言う。

 「あとは遊覧船くらいだから個別にチケットを買った方がお徳です。」

 それは良いことを聞いた。今日中に美術館を全て観てしまおう。

 先ずは「近代・現代美術館」[Musée d'Art Moderne et Contemporain] に急いだ。

 一番古いのがモネ (1840-1926) でゴーギャン (1848-1903)、ボナール (1867-1947)、ヴィヤール (1868-1940) などあり、キュビズムやカンディンスキー (1866-1944) の展示。

 それにアルプ [Jean Arp 1886-1966] は平面、レリーフ、立体を含めかなりまとまったコレクションがあった。

 その他、大半は写真、映像、コンピュータなどを使った超現代美術の展示であった。

38.39.Victor Brauner(1903Roumanie-1966Paris)/アルプ(1886-1966)の部屋

 

 埃と鳩の糞まみれになった彫刻が雑然と置かれている屋根付きの古い橋を渡って次は「ストラスブール美術館」[Musée des Beaux-Arts de Strasbourg] へと向った。

 最初、駅に着いた時にポスターを見て「あれっ」と思ったのだが、この美術館でドラクロア展が開催されているのだ。

 美術館に着くと行列が出来ていた。

 入場券を無料で貰って列に並んだ。

 ポスターにはルーブルにある「民衆を導く自由の女神」が印刷されている。

 いつもルーブルで観ているので、それは観なくても常設の展示を観たいと思っているのだが。列は一つしかない。

 入場制限をしている様だが、比較的すぐに入れた。

 入るとドラクロアではなくてイタリアのイコンなどからの展示から始まり、フィリッポ・リッピ (1406?-1469) やボッチチェリ (1445-1510) それにラファエロ (1483-1520) などもあり、やがてドラクロア (1798-1863) の「民衆を導く自由の女神」の前に出た。

 他にドラクロアは小さいのが2点ほどしかなかった。

 あとはコロー (1796-1875) やドービニー (1817-1878) も一点ありその時代までの展示であった。

 外に出るともうほとんど行列はなく2~3人が並んでいるだけであった。

40.41.42.ドラクロア展のポスターとカテドラル/ラファエロ(1483-1520)/ボッチチェリ(1445-1510)

 

 「装飾美術館」[Musée des Arts Décoratifs] と「考古学博物館」[Musée Archéologique] にも入った。

 パリのとは違ってここの装飾美術館にはアールヌーボーはない。

 

2004/10/04(月)晴れ時々曇り/Strasbourg

 

 朝からコロンバージュ(木骨煉瓦造りの建物)が美しい「プティ・フランス」を散策。

 その後、運河巡りの観光船に乗った。

 ストラスブールの運河は水量が非常に多くアルプスに近いことを感じさせる。

 途中2箇所で水門がある。

 船が水門の中に入ると後ろの門が閉まり、水位が上がるのを待つ。

 水位が上がれば前の水門が開き前へ進む。

 今は観光客の為の乗り物だがかつてヨーロッパでは交通、運搬の重要な仕組みだったのが判る。

 そしてパナマ運河はこの方式で造られたのだ。

 ゴーギャンもその肉体労働に従事した事があるというエピソードを思い出していた。

 コロンバージュの間を抜け天井ぎりぎりの石橋を幾つも用心深くくぐり、やがてガラス張りの大きな建築物の前に出た。

 EU(ヨーロッパ議会)本部ビルだ。

 今、その議長はポルトガルの前首相ドラン・バロッソが勤めている。

43.44.45.プティ・フランスのコロンバージュの家並とハクチョウが遊ぶ運河

 

 今日は美術館は休館日で一軒だけ「アルザス博物館」[Musée Alsacien] を見逃してしまったと思っていた。

 その隣で昼食を済ませ入口のショーウィンドーを何となく見ていると、今日は午後から開館と出ていたのでさっそく入った。

 古いコロンバージュの建物で、昔使っていたいろんな道具類が職業別に展示してあって興味深いものであった。

 焼き物は繊細なフランス的な物ではなく、どちらかと言うとどっしりとしたドイツ的な物が多くてやはりここはドイツに近いことを感じさせる。

46.47.アルザス博物館入口/薬局の展示

 

2004/10/05(火)晴れ時々曇り/Strasbourg-Paris

 

 ストラスブールを9時51分発の列車に乗る。

 パリに着くのは14時である。

 僅か5日間の違いなのに車窓を流れる紅葉は進んでいる様に思える。

 今日は火曜日なのでパリのほとんどの美術館は休館日である。

 昨年訪れた時はあいにく工事中で観る事が出来なかった、市立近代美術館 [Musée d'Art Moderne de la Ville de Paris] に行ってみる事にした。

 ここだけは月曜日が休館日なので今日は開いている筈だ。

 ナビ派とエコール・ド・パリの作品が充実している美術館である。

 行ってみると驚いたことに未だ工事中で閉鎖されていた。

 工事はいつ終るとも知れない。

 

 そのメトロ入口の向かいにある東洋美術館 [Musée Guimet] に明かりが見えたので行ってみたがやはり休館日であった。

 その前を [Luxembourg] と表示したバスが走ったので、帰りはメトロではなくその次のバスを待つ事にした。

 バスはエッフェル塔の真下を通りやがて見知らぬ町並を抜けモンパルナスも過ぎて終点ルクサンブールに到着した。

 パリではメトロが便利だがたまにはバスも気持が良いなと感じた。

48.秋のルクサンブール公園


2004/10/06(水)晴れ/Paris

 

 ホテルから歩いて15分程のサン・ジェルマン・デ・プレのすぐ裏手にドラクロア美術館がある。

 この美術館にはもう6~7回は通っている。

 通っていると言っても入った事はない。

 余程縁がないのか、いつも工事中であったり、昼休みであったりで上手く入れたためしがない。

 今日も案の定閉まっていた。

 でも張り紙があって「今、企画展の入れ替え中で明日9時30分に開館」とあった。

 

 サンジェルマン・デ・プレの一つ手前オデオンからバスに乗りパッシー地区に行ってみることにした。

 パッシー地区にはアールヌーボーの創始者ベルギーのヴィクトル・オルタ (1861-1947) に触発された建築家・エクトル・ギマール [Hector Guimard 1867-1942] とその一派が手がけた建物が幾つか集っている。

 

 ギマールは後に地下鉄公団から依頼を受けてメトロの入口のデザインや公園のベンチなどのデザインをしたことでも知られている。

 

 バスはいつも右手にエッフェル塔を等間隔に見ながら進んだ。

 セーヌを渡ってラジオ・フランスのモダンな建物が見えたところで降りた。

 降りたところに一軒のカフェがある。

 いきなりアールヌーボー風のガラスのひさしのある建物だ。

 6つ7つのアールヌーボー建築を巡ってお昼はこのカフェで昼食にした。

 ギャルソンの本日のお勧めはドイツ風のウインナとキノコとジャガイモのソテー。

 これが案外旨かった。

 このあたりのカフェでは観光客は殆んどいなく、ラジオ・フランスなどで働くビジネスマンたちの昼食場所になっている様であった。

49.50.51.52.お昼を食べたアールヌーボーのガラスのひさしのあるカフェ/ギマール一派設計のパッシー地区のアールヌーボー建築3軒

 

 帰りも同じ番号のバスが丁度来たのでそれに飛び乗った。

 行き先はオテル・ド・ヴィレ [Hotel de Ville] とある。

 その終点の少し手前で降りればルーブルである。

 ル・サロンは夜に行けば良いのでその前にルーブル [Musée du Louvre] を観ることにした。

53.54.55.「モロッコのユダヤ結婚式」ドラクロア(1798-1863)/ドラクロアの自画像/「食卓」モンティセリ(1824-1886)

 

 一旦ホテルに戻り今年から会場がバンサンヌの森に移ったル・サロン [Le Salon] の会場へ向かった。

 かつてこのバンサンヌの森とブローニュの森にあったオートキャンプ場で4ヶ月を暮らしたことがある。

 1月の雪の積もる中で、ワーゲンのバスの中とはいえキャンプ暮らしであった。

 そのキャンプ場からアリアンス・フランセーズ(フランス語学校)に通っていた。

 ロウソクを灯して宿題をしたものである。それがひとかけらも身に付いていないのが情けない。

 帰りには毎日美術館を観て、バンサンヌの駅前パン屋で夕食用に一本のパリジャン(フランスパン)を買う。

 駅からキャンプ場に帰り着くまでにパリジャンはかじって殆んどなくなり、夕食まではとても持たなかった。

 その旨かったことは今でも忘れられない語り草になっている。

 春になって動き出せる日が待ち遠しかった。

 そのバンサンヌが今年の会場である。

56.ル・サロン2004の僕の作品「CIDADE」100F

 

 僕の作品は今年も入口に近い比較的良い場所に掛けられていて満足であった。

 

2004/10/07(木)晴れ/Paris-Lisbon-Setubal

 

 飛行機の時間までは半日がたっぷりある。

 ドラクロア美術館 [Musée Delacroix] へは開館時間の少し前に着いた。

 20歳そこそこの若い日本人女性が1人、既に門の前で開くのを待っていた。

 今日が企画展の初日だと言うのに9時半の開場時に入ったのは日本人の3人だけであった。

 彼女も前日に下調べをして今日に臨んだ様である。

 「昨日はルーブルに行ってドラクロアを観てきた」と言っていたから余程ドラクロアファンなのかも知れない。

 明日には日本に帰るのだそうだ。

 今日一日だけのタイミングでドラクロア美術館に入れたのは幸運だ。

 でも代表作の一つである「民衆を導く自由の女神」をルーブルで観ることが出来なかったのは不運と言わざるを得ない。

 「僕たちはストラスブールでそれを無料で観てきた」とは教えなかった。

 ドラクロア美術館にドラクロアは1点もなかった。

 企画展は 「Piotr Michalowski」 という画家の展示であった。

 ドラクロアに似ていたので弟子筋にあたる画家なのかも知れない。

 ドラクロアは晩年ここにアトリエを持ち最後までこの地で制作をしていた。

 作品は一点もないがパレットや画材などが展示されている。

 思っていたよりもモダンなアトリエに少々驚いた。

57.ドラクロアのアトリエ

 

 こんなパリのど真ん中であのようなイスラム的な絵が描けたものだとも感心して見ていた。

 一室目を観ている時に日本人夫妻らしき人が受付に来ていた様だ。

 この美術館には日本人しか来ないのだろうか?

 或いは朝早くから美術館を訪れるのは日本人位しかいないのか。

 でもその夫妻はドラクロアはないと聞かされて帰って行った。

58.59.サンジェルマン・デ・プレにあるアールヌーボーブラッセリー「Le Petit Zanc」/佐伯祐三(1898-1928)がパリに着いて最初に泊まったホテル「グランゾンム」

 

 今回の旅ではアールヌーボーを中心に観るつもりでそれなりに下調べもして臨んだが、振り返って考えてみると当初漠然と考えていた「ミレー (1814-1875)、テオドール・ルソー (1812-1867)、コロー (1796-1875)、ドービニー (1817-1878)、ドラクロア (1798-1863)」といった時代の絵にも引き付けられていた様に思う。

 僕の中でどの様に整理をつければ良いのか多いに動揺している。
VIT

 

(この文は2004年11月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しずつ移して行こうと思っています。)

 

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026. ロレーヌ地方ナンシー、アールヌーボー紀行(上)

2018-10-21 | 旅日記

 昨年のフランス行きはブルターニュ地方のポンタヴァンとル・プルデュなどを旅し、ゴーギャン (1848-1903) を中心としたポンタヴァン派について考えてみた。

 今年は漠然とではあるが、時代を遡って「ミレー (1814-1875) について考えてみる旅も良いかな」と思っていた。

 そんな時恩師の藤井満先生からお便りを頂いた。

 「ポンタヴァン派の続きとしてアールヌーボーを観てこい。」と言う。

 具体的には「ナンシーに行って高島北海 (1884-1889/ナンシーに留学)がフランス美術に与えた影響を…黒田清輝や久米桂一郎のように仏国から持って帰って来た美術に対して置いて来た美術がどう西洋美術を変えたか?浮世絵が変えたその後?へ…。」とのことであった。

 

2004/09/30(木)晴れ時々曇り/Setubal-Lisbon-Paris

 

 パリへの飛行機はいつもリスボン空港を7時40分に飛び発つ朝一番の便を予約する。

 それに乗るには夜中4時に起きて、セトゥーバルを5時発の始発ローカルバスに乗らなければならない。

 それでもド・ゴール空港に着くのは11時10分。

 ポルトガル時間なら10時10分だがフランスとポルトガルでは1時間の時差があるので1時間損をする事になる。

 もう一つ遅い便では14時50分着だから空港でちょっとぐずぐずしていたらパリ市内に着くのは夕方になってしまうのでもう何も出来ない。

 

 先ずはグラン・パレにあるル・サロンの事務所に行ってル・サロンに関する事務手続きを済ませた後、リュックを担いだままチュイルリー公園をルーブル宮の方に歩いた。

 マロニエの実がたくさん落ち、それが道路にまで転がり出てクルマに潰され白い身を見せている。

 立派な実なのに食べられないとは惜しい。

 葉っぱも既に茶色く色づいて濃淡が美しい。

 

 アールヌーボーでは最重要コレクションの「装飾美術館」をナンシーに行く前に是非観ておきたかったのだ。

 「装飾美術館」[Musée des Arts Décoratifs] はルーブル宮の一角にある。

 チュイルリー公園のマイヨール (1861-1944) の庭に面したベンチでサンドイッチの昼食を済ませ



01マイヨールの庭園

 

 「装飾美術館」の入口に行くと黒人女性のガードマンが「何を観たいのですか?」と訊ねる。

 「アールヌーボー」と答えると「それは今はダメです!閉鎖中です。」

 つい先日この美術館で宝石の企画展のオープニングパーティーがあって、その時、歴史的にも貴重で巨大なダイヤモンドが盗まれる事件があった。

 まるでサスペンス映画ばりの事件である。

 その事件はポルトガルのニュースでも見て知ってはいたが、やはりその現場検証やなにやらで入れなくなっていたのだ。運が悪い。

 

 仕方がないので一旦ホテルでチェックインを済ませ荷物を降ろし、オルセー美術館 [Musée d'Orsay] に向かった。

 オルセーもアールヌーボーでは重要な美術館である。

 昨年にもオルセーは観ている。

 でもいつも絵画を中心に観るのでアールヌーボーの部屋をじっくりと観ることはなかった。

 じっくりと観ると実にアールヌーボーにスペースを割いていることが分る。

 ガレ (1846-1904) やドーム兄弟 (Auguste/1853-1909)(Antonin/1864-1930) のガラス器やルネ・ラリック (1860-1945) のアクセサリーもあるが、大型の家具とか部屋ごとを再現した展示など一通りを鑑賞することが出来る。

 家具と対にしてボナール (1867-1947) の縦長、4点の絵が飾られていたりもした。

 また、ステンドグラスはアールヌーボーにとって重要な装飾の一つでもある。

 そのデザインを当時最先端のナビ派の画家たち、ボナール、ドニ (1870-1943)、ヴァロットン (1865-1925)、ヴィヤール (1868-1940) やロートレック (1864-1901) にも依頼している。

 なるほど初期の木彫レリーフなどはポンタヴァン派のそれとさほど変わらない。

 重複して大きな流れの中に美術運動があるのが解る。




02.03.04.05.オルセー美術館大時計の裏側から見えるルーブル/ボナールの絵とアールヌーボー家具/試着室の扉/ガレのランプのある「別荘の食堂」シャルパンティエ

 

 アールヌーボーを観終わってそのまま出るのは惜しい気がして、ゴッホ (1853-1890)、ゴーギャン (1848-1903)、セザンヌ (1839-1906)、モネ (1840-1926) などとボナール (1867-1947)、ヴィヤール (1868-1940)。

 それにミレー (1814-1875)、テオドール・ルソー (1812-1867)、コロー (1796-1875)、アングル (1820-1856)、マネ (1832-1883) と一通りをさーっとではあるが駆け足で観た。

 やはり昨年とは少し展示替えが行われている。




06.07.「オランピアと浮世絵がバックのゾラの肖像」マネ(1832-1885)/「干草作り」サロン1850出品作・ミレー(1814-1875)

 

2004/10/01(金)曇り一時小雨/Paris-Nancy

 

 パリ東駅からナンシーまではTGV(新幹線)はない。

 近いと思っても在来線だから3時間近くもかかってしまう。

 それでも座席はTGVと変わらない快適な乗り心地である。

 例年より1ヶ月早いフランス旅行であるが、車窓を流れる木々も少しは紅葉していて美しい。

 でも例年よりはやはり緑が深い。

 コローやテオドール・ルソーの絵の様な中を走る。

 

 ナンシーでは毎年この時期にジャズ祭が催される。

 ストラスブールでもこの時期はワイン祭の筈である。

 いつもなら余程夜遅くに到着の予定がない限りホテルの予約はしないのだが、心配だったので今回の旅では全日程のホテルを予約しておいた。

 インターネットが出来る様になったおかげだ。




08.ナンシージャズ祭のポスター

 

 でもナンシージャズ祭は一週間後のスケジュールになっていて、予約したホテルは空いていた。

 親父さんは自慢げに「一番良い部屋だよ」と言いながら鍵を渡してくれた。

 ホテルはアールヌーボー建築のお屋敷町の近くだったが部屋にはロココ調の飾りが施されていた。

 200年も前の古い建物らしいがバスルームなどは現代風にリメイクされたばかりで気持ちが良かった。

 

 さっそく町の中心スタニスラス広場の観光案内所まで、駅から歩いてきた道とは違う裏道を歩いて行った。

 街の中心からはかなり遠くに宿を取ってしまったらしい。

 明日の土曜日にしか公開されない「マジョレルの家」 の予約に行ったのだ。

 マジョレル [Louis Majorelle/1859-1926] とはアールヌーボーでは重要な家具作家の一人である。

 観光案内所では「ここでは出来ません。ナンシー派美術館で予約をして下さい。」とのことだったので早速「ナンシー派美術館」に向かった。

 ナンシー派美術館は駅とホテルを通り越して町の反対側にある。

 途中には入口のステンドグラスが競うようにして並んでいるアールヌーボー建築が続く道を進んだ。

 その一つ一つがまるで美術画廊通りの様に感じた。

 「内側から見れば美しいのだろうな?」と想像しながら…ステンドグラスだけではなく、家の造り、窓の手すりの飾りなど同じ物は二つとなくそれぞれが主張しあい贅を尽くした美術品であった。

 

 「ナンシー派美術館」[Musée de l'Ecole de Nancy] はガレたちナンシー派作家のパトロン・コルバン夫妻の屋敷を美術館にしたものである。

 ガレやドームの作品はもちろん、曲線のアールヌーボー家具、寄せ木象嵌細工のピアノ、ベッド、椅子、机など天井から柱、ステンドグラスまで全てがアールヌーボーの華麗な世界である。




09.10.11.「セリの図柄ランプ」ガレ/「竹模様飾り棚」ガレ/「エミル・ガレの肖像」ヴィクトル・プルーヴェ作

 

 残念ながらそこには「高島北海」の作品はなかったが、確かに日本画の花鳥風月の影響はある。

 でもそれだけではなくペルシャやイスラム的な図案の影響も色濃く感じられる。

 ヨーロッパ伝統の左右対称の均衡を保った美しさから脱して、アールヌーボーは今までのそういった殻を破り異文化のいろんな型、素材を貪欲に吸収し、自然に立ち返り、かつ斬新で革新的な度肝を抜く様なデザインを競って創り出していった運動の様に思える。

 それは当時普及しはじめた、雑誌や装飾見本集などによってヨーロッパのあらゆる大都市に広がって行った。

 

 19世紀末は急激な人口増加に伴い産業革命の嵐が沸き起こった。

 それによって容易に得られる鉄。又、植民地政策によって豊富に確保できたアフリカからのマホガニー材。

 それらはアールヌーボーの曲線を作り出すには好都合な素材であったのだ。

 庭に出ると個人水族館?や墓までもがアールヌーボーであった。




12.13.14.ナンシー派美術館/水族館?/お墓

 

 明日の「マジョレルの家」の予約をしようとすると「予約はしなくてもその時間 (14:30)か(15:45) に行けば良いですよ。」とのことであった。

 もう一つ市の中心にあるナンシー美術館まで歩いて行って観るのは今からでは無理の様に思えたし、それに少し歩き疲れていたので、ホテル近くのソリュプト地区 [Parc de Saurupt] というところに行ってみることにした。

 

 先ほど観光案内所で貰った地図にはアールヌーボー建築のお屋敷街と出ている。

 地図を頼りに歩いて行きソリュプト地区に着くと観光バスが停まっていて一団の観光客が一人のガイドの説明を受けているところであった。

 僕たちは適当にアールヌーボー屋敷を見て廻った。

 パリのメトロの入口と同じ様な扇型に広がったガラスのひさし。

 蔦が絡まった様なデザインの鉄の珊。

 階段の踊り場のステンドグラス。曲線を多用した窓枠と手すり。

 どれを取ってもアールヌーボーで、ここでも同じ物は二つとしてなかった。

 一軒の前で写真を撮っているとその場に居合わせたその屋敷のご主人がひょうきんなポーズをとりながら「ポーズを取ろうか?」などと言って笑わせてくれる。

 豪邸には似合わず気さくな人が住んでいる様だ。

 ソリュプト地区からホテルまではすぐの距離であった。




15.16.17.18.ソリュプト地区のアールヌーボー屋敷

 

2004/10/02(土)曇り時々晴れ/Nancy

 

 朝、マルシェ(市場)を通り抜け美術館が開く時間にあわせて「ナンシー美術館」[Musée des Beaux-Arts de Nancy] に入った。

 スタニスラス広場に面した古めかしい入口を入ると内装は全くリメイクされたモダンな造りで一瞬、別世界に迷いこんだ様であった。

 

 先ず眼に飛び込んできたのはナンシーにゆかりのサロン画家エミール・フリアン [Emile Friant/1863-1932] 。

 典型的な自然主義の作風であるがナンシー派とも関りがある。

 10数点の油彩はどれも的確なデッサン力と力強い構図、色彩、一瞬を捉えた様な主張を感じるモティーフばかりで年代順に展示されていて変遷がよく判り素晴らしいコレクションであった。


19.20.フリアン(1863-1932)の作品と自画像

 

 その展示の続きにはナンシー生まれのアールヌーボー画家、ヴィクトル・プルーヴェ [Victor Prouvé(1858-1943)] の縦3m横7~8m程の巨大な絵が2点アールヌーボーの額に収まって飾られていた。

21.プルーヴェ(1858-1943)の作品

 

 その裏にユトリロの母・スザンヌ・バラドン (1865-1938) の縦2m横3mの大きな絵。

 それに続いてマネ (1832-1885)、モネ (1840-1926)、エドモンド・クロス (1856-1910)、シニヤック (1863-1935)、ボナール (1867-1947)、マルケ (1875-1947)とナビ派そしてユトリロ (1883-1955) ともう1点、スザンヌ・バラドンが母子仲良く並べて架けられていた。

22.スザンヌ・バラドン(1865-1938) と ユトリロ(1883-1955)

 

 その向かいの壁にはモジリアニ (1884-1920) と藤田嗣治 (1886-1968) が並んでいた。

23.24.25.「アコーデオンのある私の部屋」(130x79)藤田嗣治(1886-1968)/「ブロンドの女」(54x43.5)モディリアニ(1884-1920)/「男と女」(130x79)ピカソ(1881-1973)

 

 デュフィ(1877-1953)やキュビズムの作家たちそれにピカソ (1881-1973) 晩年の作など見応えがあり、しかも観易い展示になっている。

 

 二階に上がるとぐっと時代は遡って14世紀のイコンから始まって、レオナルド・ダ・ヴィンチ (1452-1519) の8号位の小さな油彩人物画と、ティントレット (1518-1594) などのイタリア絵画。

 ルーベンス (1577-1640)、やヤコブ・ジョーダン (1593-1678) などのフラマン絵画。

 そしてドラクロア (1798-1863) へと続く膨大なコレクションが展示されていた。

 そんな中にひっそりと僕の好きなシャルダン (1699-1779) の小さな静物画も1点光を放っていた。

 そしてもう一度1階部分を丹念に観て歩いた。

 別室にコロー (1796-1875) やドービニー (1817-1878) の部屋もあった。

26.「カラスが群れ飛ぶ雪景色」ドービニー(1817-1878)これはオルセー美術館蔵

 

 充分に堪能して出入り口を出て画集などが売られているコーナーでカタログを買った。

 

 そう言えばこの美術館にはドームがある筈。

 それを1点も観ていない。カタログ売場のマダムに尋ねると、「突き当りの階段を降りた地下にありますよ。」と言う。

 大急ぎで引き返して再入場し地下に降りた。

 今日は美術館併設のギャラリーで1950年代の東欧の風刺画家たちの企画展のオープニングでその関係者たちが大勢胸にワッペンを付けてあちこちしていた。

 その関係者が地下室でパーティーをした後、一室でコンサートが行われていた。

 パーティーの後片付けをしている、その脇を通り抜けて唖然とした。

 膨大な数のガラス器の展示室が隠されていたのである。

 あるわあるわドームのガラス器が何百と種類別に展示されていた。

27.28.29.30.地下のドームの展示室/ドームのガラス器

 

 でもここにも「高島北海」はなかった。

 

 「マジョレルの家」[La Villa Majorelle] の14時30分開始にあと30分。ギリギリ間に合う。

 しかし街の反対側。のんびり歩いている場合ではない。大急ぎで歩く事にした。

 「マジョレルの家」には5分過ぎていたが、入口にはまだ人だかりがあって無事に切符が買えた。

 すぐにガイドの説明が始まった。

31.32.「マジョレルの家」の入口で説明をするガイド/全景

 

 外観、塀、門、玄関、1階、3階と丁寧に1時間余りのフランス語のツアーであった。

 アールヌーボーは建築、内装、家具、絵画、ガラス、陶器、彫金などの総合芸術であるから、様々な部分での共同制作がある。

 マジョレル (1859-1926) とドームはかなりの部分で共同制作をしている様である。

 「マジョレルの家」の正面のステンドグラスはドームとマジョレルの合作だとの事であった。

 居間の天井に繋がる壁の部分に狩野派的な花と鶏の絵が描かれていたが、それも残念ながら「高島北海」ではなかった。

 

 その後、再び市の中心旧市街にある「ロレーヌ地方博物館」[Musée Lorrain] にも行ってみた。

 ここにはアールヌーボーはなく、先史時代からローマ彫刻、キリスト教木彫、そしてロココまでの膨大な展示であったが、当然ながら「高島北海」はなかった。

 

 ナンシーの街中にアールヌーボー建築は点在している。

 銀行、商工会議所、ブティックなどとして使われていて、内部を観ることは出来ないが、外観だけでも楽しめる。

 そんな一つアールヌーボーのレストランとして有名な「ブラッセリー・エクセルシオール」[Brasserie Excelsior Flo]の前を通りかかってメニューを見ると「牡蠣」がある。

 毎年フランスに来て牡蠣を食べることを楽しみの一つとしている。

 この際この「エクセルシオール」で牡蠣を食べない手はない。

 そうすればアールヌーボーレストランのインテリアも鑑賞する事ができる。

33.34.35.商工会議所入口/エクセルシオール内部/エクセルシオール外観

 

 ナンシーでは充分アールヌーボーを堪能することが出来た。

 「高島北海」を観ることが出来なかったし、その足跡を感じることが出来なかったのは残念であった。

 いつか機会があれば下関美術館に行って「高島北海」を観てみたいと感じている。

 

026. ナンシー、アールヌーボー紀行(下)へつづく。

 

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018. 真冬の雨あがり・小さなドライブ・スケッチの旅

2018-10-16 | 旅日記

 

 雨もあがり天気が良くなったので急に思いたってスケッチ旅行に出かけることにした。

 思いたったのがもう昼近くになってからだ。

 とりあえず一泊くらいは出来る様にとパジャマと下着の替え、洗面道具を大急ぎでリュックに詰めた。

 クルマのエンジンをかけていざ出発。

 でも別にどこに行かなければならないというあてはない。

 

 セトゥーバルの町を抜けて国道10号線沿いのガンビアの入り口にある、以前にも入ったことのある食堂で先ずは腹ごしらえ。

 この食堂はいつも地元の人やトラックの運転手たちで満員。

 今日は少し早めなのでまだ席はある。

 

 本日の定食。

 コジード・ア・ポルトゲェーサ(野菜と豚足、サラミなどの煮込み)とフランゴ・アサード(鶏の炭火焼)を注文。

 食事をしながらどこに行くかを考えた結果、昨年にも行ったことのあるポルテル Portel を目指すことにした。

 食事が終る頃には5人ほどが立って席の空くのを待っていた。

 

 アルカサール・ド・サルからアルカソヴァスを抜けポルテルまでずーっと田舎道を走る。

 ところがアルカサール・ド・サルからアルカソヴァスへ抜ける道は先日降り続いた大雨のせいか穴ぼこと水溜りの最悪の悪路。

 ほとんどクルマは通らないがたまにすれ違っても全てトラックかRV車。

 乗用車では無理なのかもしれない。

 ラリーの気分で穴ぼこをよけながら走ったが時々は「ガツン」とやってしまう。

 時速はせいぜい20キロしか出せない。

 ところどころに土が盛られている。

 穴ぼこに埋めるための土が用意されているのだろうが、その盛り土もよけてハンドルを切らなければならない。

 

 小さな野鳥がたくさん道に出てくる。

 コウノトリもところどころに巣をかけている。鷹の様な猛禽類が空を舞っていた。

 道路脇に猟犬の檻を牽引したクルマが駐車してあったから、このあたりで狩猟をしているのだろう。

 ウサギだろうか?イノシシだろうか?鹿かもしれない。

 道路標識に鹿の絵が描かれたものがある。

 けっこう森は深いようだ。

 松とユーカリそれにコルク樫。

 このあたりは夏の山火事にはさいわい遭わなかったようだ。

 

 やはり南国アレンテージョだ。

 真冬だというのに黄色と白の小さな花が沿道を埋めつくしていちめんに咲いている。

 でも春にはこんなどころではない。

 これに赤、青、紫が混色してまるで錦の絨毯を敷きつめた様になる。

 

 かなりの距離を走ってようやく悪路から抜け出した。

 悪路から抜け出すと田舎道とはいえ真っすぐなので90キロくらいは出てしまう。

 スピードは意識して70キロに押えて走行。

 

 アルカソヴァスに到着。でもこの町は今回はノンストップで素通り。

 アルカソヴァスは何度も来てかなりのスケッチをしているし、油彩にもたくさんなっている。

 

 アルカソヴァスからは道も立派でポルテルにあっというまに着いてしまった。

 町の入口からの風景がみごとなのだ。

 ポルテルのお城と街並みそれに手前にオリーヴ畑がある。

 この風景を以前もスケッチして20号の油彩に描いたのだが、一旦は仕上げてもどうも気に入らないまま消してしまった。

 絶好のモティーフなのだが巧くはいかなかったのだ。

 今日は以前とはほんの少しだが角度を変えてスケッチをしてみた。

 何度も挑戦してみる価値はある。

 スケッチが巧くいっても油彩にならない時もあるし、逆にスケッチがもひとつでも油彩にしたら巧くいく場合もある。

 いずれにしろ僕のやりかたは先ずはスケッチをする事が肝腎なのだ。

 

 スケッチブックはいつもクルマのトランクに入れてある。

 鉛筆もベストのポケットに入れてあるのだが今日はカッターナイフを持ってくるのを忘れた。

 最近はテロの関係で飛行機に乗る時はカッターナイフとかハサミとかは厳重で持ち込めなくなった。

 そのせいでベストのポケットやリュックにはカッターナイフを入れなくなったのだがうっかりしていた。

 しかも今日に限って鉛筆は一本しか入っていない。

 芯が折れたら大変だ。力がはいりすぎてよく折ってしまうのだが今日はなんとか折れなくて済んだ。

 次からは鉛筆とカッターナイフもクルマのトランクに入れておく方が良いようだ。

 

 以前来た時は閉まっていた城門は今日は開いていた。

 城壁の上に登ってそこからもスケッチをした。

 手前に赤瓦のドーム屋根の古い建物があって曲がりくねった道沿いに丘の上まで小さな建物が軒を連ねていて重なり具合が面白い。

 これも20号くらいの油彩にできるかもしれない。

 お城は城壁と塔だけであとは空っぽである。

 ポルトガルの城はほとんどがこういったものである。

 彫刻が施された柱の一部などが転がっている。

 当時はさぞや立派なお城だったのだろうと偲ばれる。

 

 今日は悪路をかなり走ったので後になって疲れがどっとでたようだ。

 予定通り一泊することにした。

 クルマもラリーを完走したごとくに泥だらけである。

 明日はどこかで水道場を見つけて洗ってやらなければならない。

VIT

 

(この文は2004年1月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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017. ポンタヴァン旅日記 (下) Pont-Aven ★ Bretagne

2018-10-15 | 旅日記

ポンタヴァン旅日記(上)

2003/10/29(水)曇り時々雨 ポンタヴァンPont Aven-カンペルレQuimperle-ル・プルデュLe Pouldu

 

 朝、目が覚めるとまだ雨が降っていた。今日はトレマロ礼拝堂Chapelle de Trémaloに行く予定だ。

 トレマロ礼拝堂にはゴーギャンが描いた黄色いキリスト像がある。

 

 ホテルの年配の方のマダムに尋ねると4キロの道のりだという。

 往復で8キロはとても歩けない。

 道もよく判らないし雨も降っているのでタクシーを呼んでもらうことにしたが「タクシーが来ない」と言う。

 マダムは「歩くしかないわね。途中の道は散歩には素晴らしいですよ。

 往復で2時間だからバスにはギリギリ間に合うわね」と簡単に言ってくれる。

 朝食が済んだ頃には雨もあがっていたので歩くことにした。

 幸い標識は出ているのでそれに従って行けば道に迷う事もないだろうと急ぎ足で歩き出した。

 町外れから森の道に入った。

 しばらく行くとまた道路標示があって《トレマロ礼拝堂まで500M⇔ポンタヴァンまで700M》と書いてあった。

 合計で1200メートルしかないわけだ。

 ホテルのマダムは歩いたことがないのだろう。ホテルを出てからたった20分で着いてしまったのだ。

 途中は本当に素晴らしい散歩道であった。

 栗の木がたくさん生い茂っていてその実をいがごと道いっぱいに落していた。

 だれも拾わないのがもったいなくて不思議であった。

 どんぐりもたくさん落ちていたし、野生化したような小さなリンゴも足の踏み場もないくらいに落ちていた。

 昨夜の雨で落ちたのかもしれない。

 それに紅葉も美しい道であった。標識には《愛の散歩道》と書かれてあった。

 

リンゴ

 

トレマロ礼拝堂

 

クリ

 トレマロ礼拝堂はそれ自体絵になる可愛い礼拝堂であった。

 礼拝堂の内部の正面にはゴーギャンが描いた黄色いキリストはなかった。

 マリア像とか他の聖人像が何体かがあったがキリスト像はなかった。

 どこかに貸し出しでもしているのであろうか?と思った。

 あるいは貴重なものだからどこかの博物館入りになったのであろうか?とも思った。

 聖人像たちはやはり彩色木彫でカンペールの博物館で観たのと同じ様に面白みがあって素晴らしいものであった。

 

 狭い小さな礼拝堂であるが一番うしろまで下がって全体を見てみることにした。

 そうすると天井から少し下がった梁のところに薄ぼんやりとキリスト像が見えるではないか。

 入口の所にホテルにあるような時間が経てば自動的に切れる仕組みの電灯のスィッチがある。それに飛びついた。

 まさしくゴーギャンが描いた黄色いキリストがそこに浮かびあがったのだ。

 名もない木彫師が作った素朴なキリスト像であるが、僕にとっては絵を描き始めの頃からゴーギャンの《黄色いキリスト》として慣れ親しんできた絵のモデルである。

 ちょっと大げさな表現であるが『感動的』な出会いであった。

 

聖人彫刻

 

黄色いキリスト

 

トレマロ礼拝堂内部

 今までは単なる黄色いキリストとしか考えていなかったが、この旅を通して感じたことは、この黄色いキリスト像が木彫、つまり木であったというのはゴーギャンにとって重要な要素であったのだ。

 もちろんブルターニュの家具(リ・クロ)。その木彫装飾。木骨煉瓦造りの家屋。

 どれもポンタヴァン派の画家たちとは切っても切れない関係にあったと言うのが理解できる。

 それにジャポニズムの浮世絵木版画が加わる。

 観光客の誰一人も訪れない。落ち着いてゆっくり眺めることが出来た、まったく静かな礼拝堂であった。

 

 来る時は途中の標識までは急ぎ足だったのが帰りはのんびりと《愛の散歩道》を引き返した。

 町外れまでくると家の庭に季節はづれの紫陽花が二輪、蔦の紅葉と競い合う様に鮮やかなブルーに咲き誇っていた。

 町に戻ってもバスの時間まではまだまだあったので港まで行ってみることにした。途中は軒並み画廊が林立していた。

 大きな岩がごろごろと川にころがりまるで日本の渓谷の様な景色である。

 ところどころで水車が回っていた。

 

ポンタヴァンの水車

 なるほど100年前からのリゾート地であったことがよく分る。

 港には今は豪華なヨットが数隻停泊してあった。

 

 ホテルでチェックアウトを済ませる時「次はル・プルデュに行く予定だけどそこにホテルはありますか?」と尋ねてみた。

 「ああル・プルデュね。あの村にはマリー・アンリの家があるものね」

 「えっ、マリー・アンリ?」

 「そうですよ、ゴーギャンが家の天井、壁、ドアに絵を描いたところですよ」

 

 意外であった。そんなところが残されているとは思ってもみなかった。

 当時ル・プルデュにも女性が経営する下宿屋があってお金がない画家からは下宿代を請求しないので、それをよいことにゴーギャンたちはたびたびここに滞在して絵を描いていた。

 といった話は知ってはいたのだが、まさかその家が今も残されていて見学が出来るとは…。

 それならばどんな事があっても観てみない訳にはいかなくなった。

 

 ゴーギャンの画集にはル・プルデュの絵がよく出てくる。

 海辺に立つ十字架の水彩画があって、その十字架だけでも見ることができればよいと当初は思っていた。

 どんな村なのか?海の色は。波の音は。それと美味しい牡蠣が絶対に食べる事ができる漁村だと信じていた。

 でも交通の便が悪かったり、天気が悪くなったりする様だったら、このル・プルデュはパスをしてもよいとも思っていた。

 でもそうはいかなくなった。どんなことをしても絶対行かなければならなくなったわけだ。

 

 ポンタヴァンのホテルを出る時には再び雨が降り出した。しかもかなりのどしゃぶりになった。

 バスは5分程遅れてやってきた。昨日ここまで乗ってきた時と同じ運転手である。

 ル・プルデュに行くには一旦カンペルレに行かなければならない。

 そこからル・プルデュ行きのミニバスが運行されているとのことである。

 

 カンペルレの駅前には2台のミニバスが停まっていた。

 運転手がいたのでル・プルデュ行きを聞いてみたらバス停に張ってあるその時刻表を指し示して「次は17時半です」という。

 人の良さそうなその男は「俺がその運転をして行くのだがね」と付け加えた。

 

 まだ昼すぎであるからこの何にもない町で半日も待たなければならない。

 地図を見るとル・プルデュまでは僅か17キロ程の距離である。

 タクシーで行く事にした。でも駅前のタクシー乗り場にはタクシーは停まっていない。

 

 とりあえずは腹ごしらえ。サンドイッチでも食べようと駅前カフェに入った。

 ところが食べる物は何も置いてない。「その先にスーパーがあるので買ってくれば?」とカフェの人は言った。

 まあなければル・プルデュまで我慢すれば海産物の旨い物が食える。

 コーヒーだけを飲んでいるとタクシー乗り場に一台のタクシーが停まった。

 大急ぎでコーヒーを飲み干しリュックを担いでタクシー乗り場に走った。

 

 でもそのタクシーは客から呼ばれて来ていてやがて列車が着くのだという。

 「1時間あとなら戻ってきて乗せていくがね。」

 「他のタクシーを無線で呼べないのですか?」

 「いや俺はこの町のタクシーじゃないのでね」

 

 そうこうしている内にもう一台のタクシーがうしろに止まった。

 ポンタヴァンのホテルのマダムに教えてもらったル・プルデュのホテル「オテル・パノラミクへ」と言うと「ああ」と運転手は親しげに答えた。

 

 ホテル・パノラミクからは名前の通り海が見渡せた。黒々とした海に大きな白波がたっていた。

 ホテルのマダムに「メゾン・マリー・アンリ」を尋ねると「ホテルの横の道をまっすぐに1.4キロ先のカフェ・レストランの隣ですよ」と教えてくれた。

 さすが海からの風は冷たい。夏場ならおそらく開いているのであろう所々ある店は全てが閉ざされていた。

 途中海岸通の公園の中にツーリストインフォメーションの建物があったので寄っていくことにした。

 次の《メゾン・マリー・アンリ》は3時半からだという。なんでもガイドが付くらしい。

 

 《メゾン・マリー・アンリ》の入口を確かめてから隣のカフェ・レストランに入った。

 それほどは時間がないからサンドイッチくらいがちょうどよい。

 「サンドイッチはありますか?」というと「ない」という。

 仕方がないので他を当ってみることにした。

 すぐ側にもレストランがあったが閉まっていた。ここも夏場のリゾートシーズンしか開いていないのだろう。

 クレープの看板を見つけたので行ってみた。

 クレープ屋の前は大規模に掘り返されていて道路工事の真っ最中であった。ブルドーザの音がうるさい。

 工事の人が近寄ってきて「通るのか?」と聞く。

 「いや、そこのクレープ屋が開いているかだけ知りたいのだ」と言うとわざわざ見に行ってくれた。

 戻ってきて「いや、開いてない」という。

 

 MUZは遠くの方から見ていて「あたりまえやんか」と言っている。それもそうだ。

 仕方がないので再び最初のカフェに戻ってビールだけでも飲むことにした。

 結局この村で開いているのはこのカフェと泊まっているホテルとインフォメーションの3軒だけである。

 それと3時半には隣の《メゾン・マリー・アンリ》が開く。

 ビールを注文して「ポテトチップスがあリますか?」と聞くと、それも「ない」。

 「でもクローク・ムッシュゥだったら出来るけど…」と言うではないか。

 “それを何故もっと早く言わないの!そうすればうろうろしなくて済んだものを。”

 でもこれでなんとかめでたく昼食にありつけたわけである。

 

マリー・アンリの家入口

 3時半を5分過ぎて隣の《メゾン・マリー・アンリMaison Marie-henry》の扉を押した。

 既に3人の観光客が来ていた。

 受付の女性が「2人で9ユーロですよ。」「説明はフランス語でしますけれど分りますか?」

 「分らない時はいつでも質問してください」と言いながら英語で書かれたプリントをくれた。

 他の3人の観光客はいずれもフランス人である。

 入口の扉は鍵を閉めてしまってその受付の女性が皆を案内していった。

 

 大きなはきはきとした張りのある声と強弱をつけた話っぷりはまるで演劇を観ているようで内容が解らなくても思わず引き込まれてしまう。

 ゴーギャンが住んでいた部屋。相棒のマイエル・デ・ハーンが住んでいた部屋。

 行水用の大きなブリキのたらいが置いてある部屋。

 などどの部屋にもポンタヴァン派の画家たちの絵や版画が飾られていた。

 マリー・アンリの寝室にはエミル・ベルナールの油彩もあった。

 僕が目を近づけて熱心に観ていると、ガイドの女性は「これは本物ですよ!」と強調していた。

 各部屋にはポンタヴァン派以外にもマリー・アンリが当時からコレクションしていた様々な絵が飾ってある。

 英泉、晴信、歌麿などの浮世絵版画も5点ほどの本物が飾られていた。

 

 2階から見学して階下に下りた。

 ガイドの女性は一階の扉をおもむろに開けた。

 壁からドアから全てに絵が描かれている。

 中には画集で見慣れている絵もたくさんあった。

 「もちろん外せるものはみんなアメリカの美術館が持っていってしまって、今は印刷が張ってあるけど雰囲気は当時のままですよ」

 観光客は僕たちも含めて皆が圧倒されていた。

 

 僕は『月と6ペンス』の最後のシーンを思い描いていた。

 ブルターニュを旅するにあたっていろいろな本を読み漁った。

 と前にも書いたが『月と6ペンス』サマセット・モーム(角川文庫)もその内の一冊であった。

 この本を最初に読んだのは僕が高校生の時だった。その後も何回か読み返した好きな本の一冊である。

 『月と6ペンス』はゴーギャンをモティーフにして描かれた小説だと誰もが分る。

 でも主人公の名前はチャールズ・ストリックランドというイギリス人でゴーギャンのようにフランス人ではない。

 有能な証券取引人だった主人公は突然妻子を捨て画家になる決心をする。

 やがて自分の絵の真髄を求めてタヒチに渡る。

 最後には頼病に冒されるが、自分の住む小屋の天井から壁からドアまで全てに絵を描く。

 そしてチャールズ・ストリックランドの絵は完成をみる。

 原住民の妻アタに「自分が死んだらこの小屋もろとも燃やしてくれ」と頼む、壮絶な最後である。

 その小屋はサマセット・モームが描いた架空の物だと僕は思っていた。

 でもその下敷きになっていたのがこの《メゾン・マリー・アンリ》なのだろう。

 

 帰りもう一度ツーリストインフォメーションに寄って海辺に立つ十字架の場所を尋ねたが、その存在自体判らなかった。

 

 一旦ホテルに戻った。ホテルの向かいにはレストランがあるが、今日は休みだという。
 夕食はどうすれば良いのだろう。

 海産物や牡蠣どころではない。夕食からあぶれる恐れさえ出てきた。

 小さなスーパーも店の一軒もない。

 でも最悪の場合でも親戚の人から頂いた小袋のおかきがある。

 それにコンカルノーで買ったビスコットも半分は残っている。飢え死にすることはない。

 あとはメゾン・マリー・アンリの隣のカフェに望みを繋ごう。

 昼に見た時、黒板にチョークで肉料理のメニューなら書いてあった。

 

 7時過ぎに再び凍える道を歩き出した。

 カフェに着いて「レストランは開かないのですか?」と尋ねると「開かない。夜に開くのは夏場だけだ。」とのこと。

 カウンターでビールを飲んでいた客たちが口々に「レストランなら4キロ先にある。」と教えてくれるがこちらには車がないのでわざわざ夕食を取るために4キロも歩けない。

 もう既にホテルから1.4キロを歩いてきているのだ。

 

 昼のクロークムッシュゥが結構旨かったので、もう一度それを食べる事にした。

 それしか残された道はなかったのだ。

 ただし夕食なのでダブルで注文した。それに例によってシードルの大瓶。

 よほど僕たち二人は情けなく惨めな顔をしていたのだろう。

 キッチンで奥さんと相談してきたのか「よかったらサラダも出来るけど?」と言う。

 サラダも二人前注文した。デザートには昼からショーケースに入っていた、プラム入りのカスタードケーキがある。

 仕上げにはやけくそでカルバドス(この地方で産するリンゴの絞り粕から抽出した強い焼酎)を飲んだ。

 立派なディナーになった。

 

 クロークムッシュゥといえば思い出すことがある。

 かつてスウェーデンでストックホルム大学に通っている時に夜中にレストランでコックのアルバイトをしていた。

 夕方から夜中の3時までキッチンにはたった一人での勤務である。

 百貨店の前にあるレストランだから昼時は猛烈に忙しい店だった。

 夜は経営者も交替し、黒人のピアノ演奏が入りバーが主になる。

 一通りの食事メニューはあるのだが、殆ど注文はこない。一日にほんのひとつか二つ。

 でも一応のことは出来なければならないから給料は良かった。帰りには毎日自宅までのタクシー代がでた。

 夜中になってよく注文が来るのがクロークムッシュゥだった。

 僕はクロークムッシュゥに腕を振るった。

 クロークムッシュゥはその店で評判になりますます注文が増えた。

 「いったい誰がクロークムッシュゥを注文するのか?」と聞いたことがある。「娼婦」との答えだった。

 それは仕事にあぶれた娼婦のささやかなディナーになっていたのである。

 

 良い気持ちでカフェを出た。

 気温はますます下がっていた。

 そして満天の星空がそこにあった。これほど美しい星空を見たのは久しぶりである。

 セトゥーバルでは昼間は雲一つない快晴でも夜になれば雲がでだして星空の美しい夜空をあまりみたことがない。

 もっとも早寝早起きを心がけているせいもあるが。

 ホテルまでの1.4キロを星座を眺めながら帰った。

 みち半ばまで戻った時である。

 北斗七星の取っ手のあたりから大きな流れ星がこぼれ落ちるのを2人で目撃したのである。

 

ブルターニュの家

 

月明りのル・プルデュ夜景

 

2003/10/30(木)曇りのち雨 ル・プルデュLe Pouldu-カンペルレQuimperle-ヴァンヌVannes

 

 その日は祭日でミニバスの運行はなかった。同じ道をタクシーで戻るしかなかった。

 同じタクシーを頼んだが昨日とは違う女性の運転手であった。

 カンペルレに着いて料金を払おうとするとメーター料金よりも安い金額で良いと言う。

 往復割引が付いているのかも知れない。

 「またカンペルレに来る事があったら、私のタクシーを使ってください。」と言って名刺をくれた。

 本当にそんな日が近い内に来れば良いと感じている。

 

 カンペルレからは列車である。ブルターニュの古都ヴァンヌでもう一泊してからパリに戻る。

 ヴァンヌに着くとまた雨であった。

 駅前のホテルでも良かったのだが最初に泊まったレンヌのホテルが良かった。

 そのチェーン店がこの町にあることを知っていたので、雨の中そこまで歩いた。

 

ヴァンヌの洗濯場

 

ステンドグラス

 

ヴァンヌの家

 

ヴァンヌの木靴屋

 ヴァンヌでは美術館見学の予定はない。街を楽しめば良いことにしていた。

 先ずはカテドラルを観た。内部は一部工事中であったがここでもステンドグラスが美しかった。

 フランスにはステンドグラスの美しいカテドラルが各地にある。

 雨が降っていたので雨宿りのつもりで《ヴァンヌ美術館》Musée des Beaux-Arts de Vannesにも入った。

 全体に大きな作品が多くて、ルーベンスやドラクロアの作品もあった。

 

 雨は降ったり止んだりである。傘をさしたりたたんだりが忙しい。

 初めから傘を持たないでアノラックのフードだけでびしょぬれになっても平気な観光客がたくさん歩いていた。

 港にも行ってみた。「今夜は絶対に牡蠣を食べるぞ。」と決心していた。

 その日の夕食は港の近くの城門の内側で見つけたブラッセリーに決めた。

 

 早くからそこのカフェでビールを飲みながらレストランの開くのを待った。

 7時にレストランが開いてすぐに席を移したつもりだったが、もう既に何組もの客が座っていた。

 今夜は牡蠣だけではなく、表のメニューに掲げてあったシーフードの盛り合わせを頼む事にした。

 蟹、手長海老、普通の海老、2種類の巻貝、あさり、それに牡蠣の盛り合わせである。

 豪華に注文してしまったが、蟹や海老、巻貝などはセトゥーバルの自宅でいつも生きた新鮮なものを食べているのだから

 やはり牡蠣だけにしておけば良かった。

 

ヴァンヌの家並み

 

ヴァンヌの街門の家

 

ヴァンヌ夫妻の木彫

 

店先のシードル

 

2003/10/31(金)曇り時々小雨 ヴァンヌVannes-パリParis

 昼すぎのTGVでパリに戻る日である。

 ヴァンヌの町角でサンドイッチとペリエールを買って乗り込んだ。

 二人席であるが喫煙席しか取れなかったのだ。

 喫煙席と言うのは困ったものだ。

 以前のどこでも喫煙できた時代より今の喫煙席は嫌煙家にとってはきつい。

 愛煙家が禁煙車に座っていてタバコが吸いたくなると喫煙車にやって来て空いた席を見つけて吸い始めるのである。

 吸い終わると又自分の禁煙車両に戻って行く。

 それが入れ替わり立ち代わりだから、喫煙車両から動けない嫌煙者は堪らない。

 見渡すと幼児も何人か乗っていた。この問題は何とかしなければならないと思う。

 

 今は飛行機は全部禁煙になったから愛煙家は大変だろうと思う。

 でもそれになる前に一度大変な思いをしたことがある。

 僕たちは禁煙席を希望したのだが、禁煙席の一番後ろの席で次の列からは喫煙席になっていた。

 前の方の禁煙席に座っている愛煙家が入れ替わり立ち代わり喫煙席にタバコを吸いに来るのだ。

 僕たちの席にはタバコの煙がパリから日本に着くまでずっと漂っていた。

 

 TGVの喫煙車両では幼児が祖母らしき人に絵本を読んでもらいながら、無邪気な可愛い声でずーっと唄を歌いつづけていた。

 祖母らしき人も一度もタバコを吸っていなかったから、僕たちと同じ様に禁煙席が取れなかったのだろう。

 モンパルナス駅に入った時には唄はぴたっと止んでいたので見てみるとすやすやと眠っていた。

 ああいった子供に害が及ばなければ良いがと心配する。

 

 モンパルナスからメトロに乗り換えていつものルクサンブールのホテルに入った。

 フロントの男は僕たちの顔を憶えていた。毎年1~2泊しかしないがもう10年近くもこのホテルを使っている。

 空港との行き帰りにもパリをうろうろ歩くにもこのルクサンブールは僕たちにとって便利な位置にある。

 昨年からル・サロンの会場が替わったがそれにもメトロのクリュニューまで歩けば乗り換えなしのメトロ一本で行ける。

 

 ル・サロンの前にサン・ジェルマン・デ・プレにあるドラクロア美術館に向う。美術館の前に着いたのが5時半だった。

 今回も閉まっている。開館時間の表示をみると17時15分までとなっていた。

 ドラクロア美術館を訪れたのは4回目位だろうか?

 工事中であったり今回の様に時間切れであったりとなかなかうまくいかない。

 また次回に楽しみを残す事になった。

 

 さっそくル・サロンに出かけた。その日はベルニサージュ(オープニング)なので人で溢れていた。

 僕の絵は入口からすぐのところにあった。でも少し歪んでいるのが気になる。

 まっすぐに直してひと回りしてくるとまた歪んでいた。紐の取り付けが悪いのだ。

 人の多いのに閉口して早々に退散した。


2003/11/01(土)曇り時々小雨 パリParis-サン・ジェルマン・アン・レーSt.Germain en Laye-パリParis

 今日は忙しい。

 ホテルで朝食を済ませて《タヒチのゴーギャン展》が催されている、グランパレまでのメトロの路線図を調べているとMUZは「歩いたらええやん」という。

 メトロで下手に乗り換えをたくさんするより返って歩いた方が良いこともある。

 ちょっと遠いと思ったが歩くことにした。歩くのなら簡単である。セーヌ沿いに下って行けばグランパレに着く。

 でもルーブルのところからチュイルリ公園の中に入って紅葉を楽しみながら歩いた。

 

 グランパレに着いた時には既に200人位の行列が出来ていた。

 別の入口では「ヴイヤール展」が催されていた。そこにも少しの行列が出来ていた。

 随分経って、もう少しで開館という時間になって列に向って大声でアナウンスしている関係者がいた。

 側に来たので聞いてみると「今日の午前中は予約をしている人だけの入場です」という。

 「予約をしていないのなら午後1時からまたここに並んでください」

 

黄昏のグランパレ

 今パリでは同時にルクサンブール美術館で《ボッチチェリ展》ポンピドーセンターで《コクトー展》それにここグランパレで《タヒチのゴーギャン展》と《ヴイヤール展》が開かれている。そしてこの行列である。

 常設のルーブルやオルセー、ポンピドーそれにピカソ美術館やロダン美術館とたくさんの美術館が他にもあるのにこの人たちはどこからやってくるのだろうか?と不思議に思う。

 昔はどこでもこれほどの人だかりはなかった。世界中で美術ブームなのであろうか?

 

 午前中はサン・ジェルマン・アン・レーの《プリウレ美術館》に急ぐ事にした。

 一度行ったところなので地図も何も見ないで歩き始めた。

 セーヌを渡ったところのRERの駅から乗れば一本で行けると間違って思い込んでいたのだ。

 間違った思い込みのお陰で随分複雑な乗換えで時間もたっぷりかかって、ようやくサン・ジェルマン・アン・レーにたどり着いた。

 駅から《プリウレ美術館》への道のりもすっかり忘れてしまっている。

 ちょうどとおりかかった在住らしき日本人に尋ねてみたが行った事がないという。

 方角だけ聞いて歩き出したら見覚えのある道にさしかかって無事プリウレ美術館の塀が見えた。

 

プリウレ美術館

 プリウレ美術館はかつてはモーリス・ドニの屋敷であった。

 ドニの手になる教会がある。ステンドグラスや壁画それにそのエスキース。

 ドニのタイル絵が天板として張られた木彫家具もあった。

 それにドニ自身が集めたコレクションがたくさんある。当然のことながらポンタヴァン派のコレクションが多い。

 ゴーギャンのタヒチでの素晴らしい木彫が2点あった。

 その内の一点は木の葉型の大きな皿に熱帯魚が二尾彫られ一本の繋がった紐のようなものを二尾がそれぞれの口にくわえている。

 

ゴーギャンの木彫

 

ドニの木彫レリーフ

 

ドニのドア

 これと同じ図柄を別の絵でも見たことがあるが、なにか意味があるのだろうか?

 それと珍しいモーリス・ドニの6号くらいの着色木彫レリーフも素晴らしいものであった。

 彩色の施し方はあのブルターニュの聖像の彩色に似ているとおもった。

 ここでもエミル・ベルナールやセリジェの作品とゴーギャンの油彩。

 

E・ベルナール

 

P・セリジェ

 それにボナールやヴイヤールの作品もあり結構見ごたえがある美術館であることを再認識した。

 でもパリの美術館の行列が嘘のようにここでは僕たちのほか一組の家族づれがいただけであった。

 庭に出るとブールデルのブロンズ像がいくつもあり、紅葉の蔦とコントラスト良く映えていた。

 

ブールデルと蔦

 こんどの旅は本当に強行軍で、お昼はたいてい電車かバスの中でのサンドイッチということになってしまった。

 サン・ジェルマン・アン・レーからの電車でもサンドイッチである。幸いフランスのサンドイッチはどこで買っても旨い。

 いや但し、フランスでのサンドイッチはパン屋で買うべしである。

 シシカバブ屋のサンドイッチは量ばかり多くてあまり旨くない。

 帰りはまともにシャンゼリゼに到着した。

 

 ゴーギャン展の入口に着いたのは1時をかなり過ぎていた。

 行列はたいしたこともなさそうで、2~30人づつどんどんと入って行く。

 入口でテロ対策の荷物検査をやっているのだ。

 入ればかなりの人でしかも多くの人が『電子解説』とでも言おうか?

 携帯電話の様な器械で作品の前に来たらその書いてある番号を押すとその解説が聞こえる仕組み、を入口で借りていてなかなか次へ進まないのだ。

 でもさすがいままで画集で観ていた本物がよく集められていた。

 アメリカのボストン美術館からロシアのプーシキン美術館から日本の倉敷のものまで、それにオルセーのもの、個人所蔵の物もあった。

 そしてやはり木彫と木版画も多い。

 ゴーギャンは画家であると同時に僕は彫刻師であるとここでも実感した。

D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?

『われわれは何処から来たか?われわれは何か?われわれは何処へ行くのか?』の集大成的油彩大作(139.1X374.6)もボストン美術館から運ばれてきていた。

 が今まで画集で観なれていた印刷物とは全く異なった鮮やかな色彩に驚いてしまった。

 

 僕は今年日本に帰国した折にゴーギャンの小説『ノアノア』を探したが残念ながら手に入らなかった。

 その『ノアノア』の原画、原稿も展示されていた。

 

2003/11/02(日)曇り パリParis-リスボンLisboa

 

 いよいよポルトガルに戻る日。今日もスケジュールは目いっぱいである。

 ドゴール空港を15時45分発のエール・フランス機に乗る。

 ドゴール空港には2時間前の13時45分に着く必要があるのだ。ルクサンブールを13時に出れば間に合う。

 それまでに3つの美術館のハシゴをする予定である。

 朝食を済ませ、荷物をまとめてホテルのチェックアウトを完了しておいてリュックをホテルに預けた。

 ホテルからサンジェルマン大通りを歩いて先ずはオルセー美術館に行くのだ。

 今日は日曜なので美術館は無料である。

 オルセー美術館には今日の開館の9時を少し回っていたがすんなり入る事が出来た。

 エスカレーターで最上階まで上がってポンタヴァン派の部屋を観るのだ。

 途中ゴッホの部屋を通り過ぎた。横目で見ながら通り過ぎたが以前来た時とはかなりの絵が入れ替わっている。

 やはりオルセーにしろルーブルにしろポンピドーにしろしょっちゅう来なければ駄目だ。

 

紅葉のルーブル

 

夕映えのノートルダム遠望

 

エッフェルとA三世橋の欄干

 

オルセー美術館

 エミル・ベルナールとポール・セリジェの絵を初めて観たのがここオルセーであった。

 ここにも作品は少ししかないが今回の旅でたくさんまとめて観ることができたので僕には充分である。

 ゴーギャンの部屋ではタヒチ時代の絵はグランパレの特別展に行っていたので

 その分ポンタヴァンの絵が多く展示されてあったのは僕にとって好都合であった。

 この一週間でこれほど多くのゴーギャンをまとめて観たこともない。

 

 タヒチに向う前にゴーギャンはゴッホと弟テオの要請にしたがって、ポンタヴァンを去り南仏アルルでゴッホとの共同生活に入る。

 でもそれは2人の強烈な個性のぶつかりあいによって僅か2ヶ月で破綻を迎えることになる。

 しかしその僅か2ヶ月のアルル生活がゴーギャンにとっても、ゴッホにとってもその後の作品に大きく影響を与え転機になったことは言うまでもない。

 ゴーギャンが他のポンタヴァン派の画家たちよりは強さに於いても、文学性に於いても、また装飾性豊かな色彩の多様さに於いても一歩抜きんでているのにはアルルでのゴッホとの2ヶ月の共同生活を抜きにしては語れないのではないのだろうか?

 それはまたゴッホに於いても同様のことが言える。

 

 オルセー美術館を早々に退散して次は《市立近代美術館》に向った。RERを2駅乗ってセーヌを歩いて渡ればすぐだ。

 ところが行ってみると《市立近代美術館》は先月から一年間の工事に入っていて休館であった。

 

 仕方がない、あとは《ポンピドーセンター》を観るのみである。再度メトロに乗りシャトレで降りた。

 勝手知ったる駅である筈がひとつ出口が違うと戸惑ってしまう。

 

 ポンピドーセンターでも以前と展示内容が随分と違っていた。

 ルオー、マチス、ピカソ、ブラックなどの作品もかなりが入れ替わっていた。

 それに市立近代美術館にある筈のモディリアニとスーティンがポンピドーセンターに避難?してきていた。

 

 予定をしていたドラクロア美術館には4度目の挑戦で今回も観ることは出来なかった。

 市立近代美術館も工事中でかなわなかった。

 

 市立近代美術館では今回重点的に観てきたポンタヴァン派の後に続くナビ派とポンピドーセンターではフォーヴィズムとキュビズムをちょっとだけ覗いておきたかった。

 

 またドラクロアは近代美術に大きく暗示を与えている画家である様に僕には思えるから、そのアトリエをちょっとは見てみたいとかねてから思っているのだが…。

 

 今回のポンタヴァンへの旅はタイムリーにも《タヒチのゴーギャン展》に出くわしたこと、ル・プルデュで《メゾン・マリー・アンリ》の存在を知り、観ることが出来たことなど、思いもかけずに観ることができた、といったものを差し引いても予想以上に収穫の多い旅であった。

 そしてこの旅が今までにしてきた全ての旅がそうであった様に、今後の僕にとって宝物となることを確信している。

 

 ルクサンブールからドゴール空港までのRER内でもサンドイッチの昼食を取る事にしていた。

 日曜なのでいつものサンドイッチ屋は閉まっている。

 学生アルバイト風の男が駅の入口のところでサンドイッチとクレープの店を開いていた。

 僕たちの前に2人のパリジェンヌがクレープを焼いてもらっていた。

 僕たちはブルターニュで本場のクレープをさんざん食べたので、ここでは普通のチーズとハム入りのサンドイッチを注文した。

 男はクレープ台の上でサンドイッチを温めてくれた。

 今日もいまにも雪にでもなりそうなしんしんと冷える寒いパリである。

 

 パリからリスボンに戻ってくる飛行機では隣になんと半そでに短パンの髭顔男が座った。

 どこか熱帯の国から来てパリを中継してリスボンまでの旅の途中であろう。

 まさかタヒチではないであろうが、べつに聞くこともしなかった。

 さすがパリ出発の時には寒そうにはしていたがリスボン空港に着いた時には僕たちも服を2枚は脱がなければならなかった。VIT

 

(この文は2003年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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017. ポンタヴァン旅日記 (上) Pont-Aven ★ Bretagne

2018-10-15 | 旅日記

 ル・サロンとサロン・ドートンヌに出品するための作品を持ってパリに行き、搬入してからその展覧会を観るためには始まるまでの1週間を何らかの形で潰さなければならない。
 パリの美術館をくまなく観て歩くのだけでも良いのだけれど、どうせなら「佐伯祐三の足跡を訪ねてみよう」と思い立ったのが1994年。
 画家がどんな環境に住み、どんな気持ちでそのモティーフを選び、何を強調し何を省き。というのを観察するのは、僕にとって勉強にもなるし楽しみでもあった。

 佐伯祐三の足跡を訪ねる旅はゴッホとも重複している。
 次にゴッホを訪ねるとまたいろんな画家との拘わりが出てくる。
 といった具合にそれ以後毎年、拘わりを求めた旅をしてきている。

 そうして今回はゴッホと拘わりの深い、エミル・ベルナールとゴーギャンらが活動した、ブルターニュ地方のポンタヴァンを目指す旅とした。

(文章は日記形式とし、かなりの長文になりました。一部美術に関し専門的で読みづらい箇所もあるかと思いますが、そういった興味のないところは飛ばしてお読み下さい。また関連した写真をカット的に挿入しました。大きくはなりませんのでご了承ください。下線の入った美術館のホームページへはリンクが繋がっています。但しフランス語です、併せてご了承ください。武本比登志)

 

 プロローグ

 ブルターニュのポンタヴァンという響きは僕の心の中でかなり以前から持ち続けていた。

 それは高校生の絵を描き始めの頃にさかのぼる。

 美術部顧問の恩師・藤井満先生から課外授業で教わった『美術史』

 その教科書に使われたのが福島繁太郎著『近代絵画』(岩波新書/昭和27年第1刷)であった。

 その中に《ポンタヴァン派》という記述が登場する。

 

 ポンタヴァン派《L'École de Pont-Aven》とはゴーギャンを筆頭にエミル・ベルナール、モーリス・ドニそれにポール・セルジェらが中心となって起った近代絵画史上重要な位置を占める絵画革命のひとつであった。

 セザンヌの理論的背景とジャポニズム(浮世絵)の影響を受け後のナビ派やフォービズム、キュビズムそして抽象絵画へと発展、暗示を与えたことになる。

 それまでは印象派による光線の分割理論によって七色の色彩を混色することなく点描で表わしていたものを、浮世絵版画からの発想による黒い線の縁取りの中は点描ではなくて原色や混色した平塗りでもって、そしてその色は自由に最も自分が好きな色を塗れば良いのだ。

 といった自由な発想がポンタヴァン派であると思う。

 それは色や塗り方だけではなく大胆な構図、装飾性、モティーフにも自由な考えは広がって当然のことであった。

 芸術とはひとつの抽象作用であるという《サンテティズム》(綜合主義)を明確に表わした。

 

 縁取りのことを《クロワゾイズム》と言う。

 僕は油彩を描き始めた当初からこの縁取りを多用してきた。

 もっとも僕の場合黒ではなく赤土色であるが…。

 そんなこともあってかポンタヴァン派には人一倍興味があるのかも知れない。

 

 そしてこの程ようやくブルターニュのポンタヴァン行きの実現にこぎつけたわけだ。

 でもいざブルターニュへ行くとなるとその資料は殆ど見つからない。

 インターネットで検索してみても薄っぺらな観光案内しか見つからなかった。

 

 ゴーギャンと並んでポンタヴァン派の中心的画家エミル・ベルナールはポンタヴァンにいる時やパリにいる時に頻繁にゴッホと手紙のやりとりをした。

 そのゴッホからの手紙をまとめて『ゴッホの手紙』(エミル・ベルナール編)として出版した。

 エミル・ベルナールはその他にも『回想のセザンヌ』と言った著書を著していることでも知られているが、それらの本の中にもポンタヴァンについての記述は殆どない。

 

 色々読み漁ったあげくひとつの興味深い文章を見つけた。

 あまのしげ著『ゆらぎの時代-環境文化誌』(リトルガリバー社)の中の《ブルターニュの小箱》という章の記述である。

 僕たちもパリに住んでいた時によく行った《ポルト・デ・バンブ》の蚤の市。

 そこでもう30年も前になるがひとつのコーヒー挽きを買って今も日本に帰った時には使っている。

 著者のあまの氏が見つけたのは《木彫りの小箱》。

 《木彫りの小箱が想像を掻きたてブルターニュへの旅を誘う》という書き出しである。

 それはヨーロッパに於ける木の文化について触れられていて興味深い。

 僕はこれを読んでブルターニュではあまの氏が言うその木彫の寝台《リ・クロLit-clos》をしっかり見て来ようと思った。

 

 2003/10/25(土)曇りのち小雨 セトゥーバルSetubal-リスボンLisboa

 

 親戚の人が団体旅行でポルトガルに来ているという突然の電話が入ったのでリスボンで逢うことにして自宅は一日早めて出発した。

 当初の予定なら朝4時に起きてセトゥーバルを5時発のローカルバスに乗らなければならなかった。

 パリに行く時はいつもそうしているのだが、今回はそういう訳で親戚の人が団体で泊まる予定の同じホテルに一泊することにした。

 幸いリスボン空港に比較的近い位置にそのホテルはあった。

 それでもホテルを朝5時半には出発しなければならない。

 

 2003/10/26(日)曇り リスボンLisboa-パリParis-レンヌRennes

 

 リスボンを発つ日はちょうど夏時間が終って冬時間に変わったその朝で一時間得をした。

 パリで出品の手伝いをしてくれている画材店のマダム&ムッシューMは昨年で永年営業してきた画材店を閉じた。

 今までならその画材店に絵を持って行けば良かったのだが今回からは自宅に持ってゆく必要があるわけだ。

 同じモンマルトルの18区なのだが自宅には行った事がないのでうまく逢えるかどうかが心配だった。

 

 その日のうちに行くブルターニュの最初の町レンヌ行きのTGV(フランスの新幹線)の切符をド・ゴール空港のTGVの窓口で先に買っておくことにした。

 モンパルナス駅を予定の15時05分発ではちょっと不安だったので、2つ遅らせて17時05分発を買うことにした。

それでも7時過ぎにはレンヌに着くことができる。

 

 だが禁煙席はもう既に満席で喫煙席ならあるという。それでも仕方がない。

 思ったよりも結構混んでいるようだ。他の区間も心配になったので、次の日のレンヌからカンペール行きも、そして帰りのヴァンヌからモンパルナスもまとめて買っておくことにした。

 カンペールからヴァンヌのあいだはTGVではなく、普通の列車かバスでの移動になる。

 その間に目指すポンタヴァンがある。

 

 モンパルナスでもし時間が余ってもぶらぶら歩いて、久しぶりに《ポルト・デ・バンブ》の蚤の市を歩くのも悪くないとも思っていた。

 18区のムッシューMの家の前まで来るとムッシューMが寒い中、家の前まで出て待っていてくれた。

 おりしも2~3日前からヨーロッパにはかなりの寒波が来ていて例年に増してパリは寒く、ポルトガルよりは15度程も気温は低かったのだが…

 お陰でル・サロンとサロン・ドートンヌ用の二枚の100号はすんなりと預ける事ができた。

 画材店のあったところと自宅はすぐ1ブロック程であったのでその場所のメトロを目指して歩き出そうとするとムッシューMは「メトロならこちらの方が近いですよ」と言う。確かにメトロ駅がもうすぐそこに見えていた。そのメトロ駅にはユトリロの絵になって見慣れている《ジュール・ジョフリン教会》があった。

ジュール・ジョフリン教会

 そこからモンパルナスには15程も駅があるものの乗り換えなしの一本で行くことができる。

 そんなわけでモンパルナス駅には2時過ぎには着いてしまっていた。

 

 切符売り場に行き「15時05分発に変更が出来ますか?」と尋ねたところすんなり切符が取れてしまった。

 僕たちには好都合の禁煙席で、しかも20ユーロもの金額が戻ってきた。

 「なんで?」と尋ねたら、ひととおりぺらぺらと説明してくれたが、それでも解らない振りをすると、切符売り場の女性は「いらないのなら私が貰っとくわよ!」と笑っている。

 これで《ポルト・デ・バンブ》の蚤の市には行けなくなってしまったが、予定どおりブルターニュに明るい内に着ける。

 

 それでも1時間程の時間が余ったのでモンパルナス高層ビルの横から延びている、

 以前にも行った事のある露店市に行ってみることにした。

 今日は日曜日なのでやっている筈である。

 以前この露店市では美味しそうな暖かいソーセージとシュクレの盛り合わせが売られていたので、それを買い込んでTGVのなかで食べるつもりである。

 

 行ってみると露店市ではなくテント張りの展覧会会場になっていた。

 そしてそのテントは果てしなく続いている。

 テントのひとつのコーナーはそれぞれの個展会場になっていて10点づつ程の展示である。

 ル・サロンがまもなく始まろうとしている時期にまるでかつての《サロン・ド・リュフュゼ》(落選展覧会)の様相である。

 全てを見ることは出来なくて途中からモンパルナス駅に引き返した。

 

 駅の売店でサンドイッチとペリエールを買って列車に乗り込むことにした。

 戻ってきた20ユーロでサンドイッチ代を払ってもまだおつりがきた。

 リスボンからの飛行機のなかで機内食が出たので遅い昼食をTGVの中でするのは当初からの折込済みである。

 

 僕たちの席は18号車になっていて、手前から1号車だからホームを延々と歩かなければならなかった。

 車両は20号車までで、機関車両が前後と中程にも二両が付いていて全部で24両編成の超長車両である。

 どこかの駅で切り離すのかも知れない。

 僕たちの席は4人掛けである。さっそくテーブルを引き出してその上にサンドイッチの入った袋を乗せた。

 TGVが動きだすとすぐにでも開いて食べるつもりである。

 

 出発間際になって向かいには中学生くらいの女の子が二人座った。

 祖父母とおぼしき二人が見送りに来ていた。

 たぶんブルターニュから祖父母の住むパリに週末を利用して遊びに来ていたのかも知れない。

 テーブルが小さいのが不満らしく、もっと大きく出せないのかとやってみたくて僕たちのサンドイッチの袋を一旦どけてくれと言う。

 そうしてやってみるがそれ以上は大きくはならない。

 

 TGVが走り出したので僕たちはすぐにサンドイッチを食べ始めた。

 サンドイッチの袋がなくなったテーブルにその女の子はキャンバス地で出来た大きな手提げ袋の中身をぶちまけた。

 自分の持ち物をこの際整理したかったのだ。

 CDモニター、数枚のCD、ゲーム機、雑誌、それにクッキーの箱とジュース、その他もろもろ。

 CDをセットし耳にイヤホンをつけ、クッキーの箱とジュース、雑誌を一冊だけ残して荷物を再び袋の中に詰めなおし雑誌を読み始めた。

 僕たちはこのTGVが停まる最初の駅ブルターニュの入口レンヌで降りる。レンヌにはわずか2時間で着く。

 その2時間のあいだ雑誌をみたり、ゲームをしたり、CDを聴いたり2人で笑いあったりと、手提げ袋ひとつで随分手軽な旅のようにも見える。

 まるで隣町に買い物にでも行く様な感じである。

 いまTGVを使えば本当に短い時間でフランス国内どこにでも気軽に行ける。

 しかも日本の新幹線ほどは運賃も高くはない。

 

 100年前のゴーギャンの時代はどうだったのか?と考えてしまう。

 TGVも飛行機もない時代、煙を吐く汽車はあったにしろ線路のないところは馬車か歩くしかなかった。

 そんな時代にゴーギャンといえベルナールといえ随分気軽にパリとポンタヴァンの行ったり来たりを繰り返している。

 いやポンタヴァンには限らず、パナマやタヒチ、マルケス島、アルジェリアなどとほんとうに気軽に世界中を歩き回っているのには驚きである。

 

 TGVはほぼ満席である。出入り口の補助椅子にも人が座っている。

 僕たちがフランスを訪れるのは展覧会の都合でいつもこの時期なのだが、今回も車窓を流れる紅葉が美しい。

 寒すぎたり、天気が悪かったりまた日も短く旅をする条件としてはあまり良くはないのだが、紅葉だけは本当に美しい。

 それとホテルなどは空いているし格安で泊まることができる。

 

 今回の旅でもいくつかの美術館を観る予定を立てている。

 レンヌの《レンヌ美術館》Musée des Beaux-Arts de Rennes

 カンペールの《カンペール美術館》Musée des Beaux-Arts de Quimper

 《ブルターニュ博物館》Musée Dèpartemental Breton

 それにポンタヴァンの《ポンタヴァン美術館》Musée de Pont-Avenである。

 

 またパリに戻ってから自分の出品している《ル・サロン》Le Salonを観たあと

サン・ジェルマン・アン・レーの《プリウレ美術館》Musée du Prieuré

パリの《市立近代美術館》Musée d'Art Moderne de la Ville de Paris

《オルセー美術館》Musée d'Orsay《ドラクロア美術館》Musée National Eugène-Delacroix

《ポンピドー現代美術館》Musée National d'Art Moderneを予定している。

 勿論それらの美術館内の全てを観るのは無理なので《ポンタヴァン派》に関連深いところだけをポイント的に観ていくつもりである。

 

 ところがリスボンからパリへのエール・フランスの機内で、その機内誌を見ていて”あっと驚く記事”を見つけてしまったのである。

 『タヒチのゴーギャン』と題した展覧会がパリのグラン・パレGrand Palaisでちょうど催されているのである。

 ゴーギャンはその時期ポンタヴァンとタヒチを行ったり来たりしている。これを観ない手はない。
 昨年はちょうど『モディリアニ展』がホテル近くのリュクサンブール美術館で開かれているのをポルトガルに戻る前日に気がついて戻る日に朝早くから列に並んだのに飛行機の時間が迫って時間切れで見ることが出来なくて悔しい思いをした。

 そんな事もあったので今回はその機内誌をよく調べておこうと思っていたのだが、これほどのタイミングの良さだとは想像もしていなかった。

 

 TGVはきっかり予定通り17時08分にレンヌ駅に到着した。

 駅前のホテルに大急ぎでリュックを下ろし、早速《レンヌ美術館》に行ってみることにした。

 予定では明日の朝からの見学だが、もしかしたら1時間くらいは観ることが出来るかも知れない、と思ったがあと5分で閉館となっていた。

 切符売り場の黒人女性は「今日はもう時間はないわ。明日にしたら。明日は10時からだからね」と言う。

 出来たら少しでも予定を早送りしてあとの予定になかった『タヒチのゴーギャン展』を見なければならないと思ったからだが…。

 

 しかたがないので薄暗くなりかけた旧市街を歩き回った。

 木骨煉瓦造りの家並が続く。上階に上るにしたがって道に張り出している。

 また上階に上るにしたがって隣に食い込んでいたりもする。

 隣は隣でまた更に隣に食い込んでいる。まったく面白い。

 柱は太くセピア、赤、緑と様々な色のオイルステンが塗られまるでアンデルセンやグリム童話の世界か、「まるでブリューゲルの絵の中にでも入り込んだようだ。」とあまの氏は書いているが全く同感である。

 なるほどあまの氏の言うヨーロッパの木の文化がこの街にも息づいている。

 同じフランスでも南のプロバンス地方とはあきらかに違う。

 むしろドイツなどの北ヨーロッパで同じ様な建物を見ている。

 

 ヨーロッパはローマ帝国が支配した時代からどうも石の文化の様に見られがちだが、どうして木というものも見過ごすわけにはいかないのだ。

 そう言えばスウェーデンの伝統的な建物も木造であった。

 ノルウェーはベルゲンにはヨーロッパ最古?の木造教会があった。

 

 ひときわ明るく輝いている地区があったので行ってみることにした。

 夜の露店市でも開かれているのかな?と思ったのである。

 行ってみると大きなメリーゴーランドであった。

 そのメリーゴーランドが面白い。乗り物一つ一つがまるでボッシュの絵の世界から飛び出てきた様である。

 あるいはハリーポッターのイメージなのだろうか?子供たちは大喜びで興じていた。上の方でひきつっている子供もいる。

 このレンヌにはここの他、狭い地域に3つものメリーゴーランドがあった。

 

レンヌの木骨煉瓦造りの家

 

メリーゴーランド

 

レンヌの街並み

 

レンヌの通り

 

2003/10/27(月)快晴 レンヌRennes-カンペールQuimper

 

 その朝も早くから街を歩き回って、10時の開館と同時にレンヌ美術館に駆けつけた。

 入口には既に幼稚園児が20人ばかりとその先生たちが4~5人で列をつくっていた。

 その美術館は博物館も兼ねていてエジプトの発掘品、ギリシャ時代の陶器、ローマ時代、イコン、と一通り美術の歴史順に展示がされている。

 ルーベンスの迫力のある大作がある。本当にルーベンスの作品はヨーロッパ中どこの美術館にもある。

 シャルダンJean-Baptiste Siméon Chardin(1699-1779)の2点の静物画が素晴らしかった。

 

 18世紀の絵が飾られている部屋に幼稚園児が座り込んで美術館員の説明を受けている。

 やがてゲームが始まった。美術館員が一枚の絵の部分写真を持っている。

 「この絵はこの部屋のどこにありますか?」という部分当てクイズなのだ。

 子供たちは一枚一枚絵の前に立って「ノン」「ノン」などと可愛い声で答えていた。

 僕たちはそういったところもひととおり観ながら《ポンタヴァン派》の部屋に急いだ。

 

 印象派のシスレーやカイユボットのいい絵もあったが、ゴーギャンのピサロやセザンヌの影響をそのまま受けている初期の静物画も興味深く観た。

 そしてエミル・ベルナール、モーリス・ドニ、ポール・セルジェなどのポンタヴァン派はさすが充実していて、じっくり観ることが出来た。

 またピカソの時代の異なった絵が数点、現代美術のサム・フランシスまで、エジプトから20世紀までと実に幅広い。

 

 この日のレンヌからカンペール行きのTGVも予定していた時間の切符は取れなくて2時間遅れである。

 お陰でレンヌの街はゆっくり堪能する事は出来たが…。

 

 TGVはレンヌを14時11分に出てカンペールに16時23分に着く。

 お昼は少々味けがないが駅で軽くリンゴ入りクレープとシードルのハーフボトルで済ますことにした。

 でもこれもブルターニュ式である。

 

クレープ屋の看板

 レンヌからのTGVは昨日のよりも更に満席であった。

 入口の補助椅子にも座れなくて立っている人もいる。

 僕たちの席も別々である。

 しかも窓が小さくまるでスペースシャトル(乗った事はないが)のようでもあり、監獄(入った事はないが)のようでもある。

 1時間ほどの途中の町、ロリエントで殆どの人が降りてしまい、それからカンペールまでは4人席に2人だけでゆっくりする事が出来た。

 カンペールでは美術館と博物館の2つを観る予定なので今日中にひとつはどうしても観ておかなければならない。

 カンペールにもTGVは定刻通り16時23分に到着した。

 

 レンヌでは駅前のホテルが想像以上に良かったのでカンペールでも何も考えずに駅前の一番目立つホテルに飛び込んだ。

 後でよく見てみるとその隣にもっと設備の良さそうなホテルがあったのだが…。

 ここでもリュックを放り投げてカンペール美術館に急いだ。

 

 美術館に着いた時には薄暗くなりかけていたがその日は充分に観賞する事が出来た。

 ここでも初期のゴーギャン[Paul Gauguin](1848-1903)をはじめ、エミル・ベルナール[Emile Bernard](1868-1941)モーリス・ドニ[Maurice Denis](1870-1943)、ポール・セリジェ[Paul Serusier](1864-1927)に加えて、クロード・シュフネッケル[Claude-Emile Schuffenecker](1851-1934)、アンリ・デュラヴァレェ[Henri Delavallee](1862-1943)アンリ・モレ[Henry Moret](1856-1913)、マキシム・モウフラ[Maxime Maufra](1861-1918)ジョルジュ・ラコンブ[Georges Lacombe](1868-1916)、マイエル・デ・ハーン[Meijer de Hann](1852-1895)シャルル・フィリジー[Charles Filiger](1863-1928)、モーゲン・バラン[Morgens Ballin](1871-1914)アルマンド・スギャン[Armand Seguin](1869-1903)、ロドリック・オコーナー[Rodric O'Conor](1860-1940) 、フェルディナンド・プィゴドウ[Ferdinand LoyenduPuigaudeau](1861-1930)、ウラディスラヴ・スレヴィンスキー[Wladyslaw Slewinski](1854-1918)といった、ポンタヴァン派の画家たちの作品がひととおり網羅されていた。

 やはり後のタヒチのゴーギャンに比べるとどれももう一つ強さや個性といったものに欠けるのかも知れないが、その当時の競い合って新しいもの、独自のものを捜し求めていた息ずかいを感じ取ることが出来る充実した展示であった。

 

 フランスに来た時はいつも何度かは牡蠣を食べる事を楽しみにしている。

 フランスの牡蠣は旨い。

 今回は特にその産地のブルターニュである。勿論この時期が旬でもある。

 そんな訳だから「毎夕食には牡蠣ばかり食べまくるぞー」と張り切っていた。

 パリでもニースでも牡蠣は氷をびっしり敷きつめたお盆のようなものに盛られて出てくる。

 レンヌではあまりの寒さにとても氷に乗った牡蠣を注文する気にはなれなかった。

 暖かいシーフードスープと暖かいムール貝を注文した。

 カンペールでは牡蠣専門店のある市場の隣のブラッセリーに入った。

 ここではいくら寒くても牡蠣を食べないわけにはいかないだろう。

 暖房も効いていたので思い切って12個づつの24個を注文した。旨かったがやはり身体が凍えた。

 身体を暖めようとムール貝のクリームソース煮を追加注文した。それもぺロリと平らげてしまった。

 デザートにはブルターニュではフロマージ・ブランが良い。甘くないヨーグルトのようなものだから。

 それを食べたら再び身体が冷えた。いずれにしろ食べすぎである。

 

カンペールのカテドラル遠望

 

氷の上の牡蠣

 2003/10/28(火)快晴 カンペールQuimper-コンカルノーConcarneau-ポンタヴァンPont Aven

 

 その朝は芝生にもベンチにも真っ白に霜が降りていた。

 先ずは昨夜入ったブラッセリーの隣の市場に行ってみた。やはりセップ(まつたけもどき)が出ている。

 それに市場の中だけで3軒ものクレープ屋があった。

 カマンベール入りとハム入りのクレープを焼いてもらって歩きながら食べた。

 

セップ

 

クレープ屋さん

 

 ポルトガルと比べるとフランスの市場は小綺麗だがあまり元気がない。

 大型スーパーに客を取られて活気がなくなっているのであろうか?

 

 インフォメーションがあったので地図をもらった。そのインフォメーションの前に1枚のポスターが貼ってあった。

 なんと『ポンタヴァンのゴーギャン』と題された展覧会ポスターである。

 でも期間は7月12日から9月30日となっていて、残念ながらもう終っている。

 

ゴーギャン展のポスター

 

 パリといいここカンペールといい違う時期のゴーギャン展を同じ様な時期に催すとは…。

 《ゴーギャン》がいま流行っているのであろうか?

 

 カテドラル内部のステンドグラスも朝の光りを透して美しく輝いていた。

 パステル調で色の優しいモザイクがあったのでサインを読んでみると《モーリス・ド二》と書いてあった。

 

ステンドグラス

 

ドニのモザイク

 10時の開館を待ってカテドラルの隣のブルターニュ博物館に入った。

 先ずはこのあたりに点在する紀元前2~5世紀頃の巨石群の石のレリーフの展示である。

 

 それに教会の為の聖人の彫刻。これが彩色木彫でありどれもこれも面白い。

 ヨーロッパでは大理石の聖人彫刻が主流である。フィレンツェのすぐ隣シエナでは陶器の聖人像もあるが…。

 

 それにしてもこのブルターニュの聖人彩色木彫は面白い。

 まるで子供に見せる人形劇にでも出てきそうな、マリオネットとして今にも動き出しそうな温かみがある。

 街並みの家の柱にそのままノミを入れたようでもある。

 

 この博物館にあまの氏が言う大きな寝台(リ・クロ)が展示されていた。

 栗の木であろうか?扉とベンチの付いたずっしりといかにも重そうな大きな寝台(り・クロ)Lit-closが箪笥Armoireや揺りかごBercerまでが一体となったものにどっしりとした彫刻が施されている。

 

木彫家具

 

寝台,箪笥が一体となったリ・クロ

 

 展示室にはそのような木彫家具が所狭しと展示されていた。

 そんな中に囲まれていると、ゴーギャンがたくさんの木彫を彫ったのが当然のなりゆきであったかのように思われてくる。

 

 カンペールからコンカルノーそれにコンカルノーからポンタヴァンはバスである。

 コンカルノー行きのバスは駅前つまりホテルの真ん前をお昼の少し前に出発する。

 だから今日も昼食はバスの中でサンドイッチを食べる事にした。

 

 コンカルノーは城壁に囲まれた町が港の中に突き出た島になっていて橋ひとつで繋がっている。
 でもその島の中はみやげ物屋、売り絵画廊、レストランなどと観光的な色彩ばかりが目立ってあまりたいしたこともなかった。

 直径20センチほどもある大きなクッキーを焼いている専門店があったので一枚買ってみた。

 どうもこの島の名物らしくて「ビスコット」というらしい。

     

コンカルノー

ハロウィンの飾り

コンカルノーのビスコット屋

 次のポンタヴァン行きのバスには時間が余ったのでカフェのテラスでシードルを飲むことにした。

 気温は低いのだが天気が良いので陽の当るところでは陽射しが強くて気持ちが良い。

 ブルターニュ名物のシードルはアルコール分5%くらいと低いので僕にはちょうどよい。

 このコンカルノーでゴーギャンは船乗りと喧嘩をして怪我を負っている。

 ゴーギャンはシードルでは済まなかったのだろう。

 ここでもアルコール分70%のアブサンを引っ掛けていたのかも知れない。

 

 コンカルノーのバス停のうしろには椿の生垣があって蕾をたくさん付けていた。

 ゴーギャンをはじめポンタヴァン派の画家たちはたくさんの木版画を残している。

 浮世絵の影響なのだろうが、こうして観てくると昔からブルターニュでは木に細工をするというのは日常に行われてきたのが分る。

 版木には何の木を使っていたのだろう。棟方志功は「版木には椿が最も良い」と言っていたのを思い出していた。

 

 20歳くらいの女性がバスが行ってしまったのではないか?とあせりまくっている。

 僕たちは時刻表の5分前からバス停に座っていたが、そう言えば時刻はもう過ぎている。

 やがて5分遅れでバスはやってきた。バスの本数が少ないのでひとつ逃しても大変なのだ。

 でも乗客の殆どはその女性も含めてすぐに降りてしまってポンタヴァンまで乗っていたのは僕たちともう一人の3人だけだった。

 30分ほどバスに揺られていよいよポンタヴァンに到着した。

 僕たちを降ろしたバスはさらにカンペルレまで行く。

 ここでもバスを降りてすぐの広場に面したところにあったホテルに迷うことなく決めた。

 隣に美術館の看板が見える。リュックを置いてさっそくポンタヴァン美術館に出向いた。

 

ポンタヴァン美術館

 ここでは文字通りポンタヴァン派の展示が中心である。

 この時代のゴーギャンの作品が少しと、その他のポンタヴァン派の画家たちの作品がたくさん展示されていた。

 それとその当時の写真が展示されていて興味深いものであった。

 ゴーギャンや人の良さそうなベルナールは以前から少しは写真を見ていたがセリジェは初めてであった。

 髭面でいつも笑っていて絵からは想像ができない容貌である。

 恐らくゴーギャンが居ない時はこのセリジェがリーダー的だったのかも知れない。

 でもやはりゴーギャンがいなかったらポンタヴァン派という動きは出来なかったのだろう。

 

 美術館はポンタヴァン派の常設展示場と特別企画展示場になっていて企画展でもポンタヴァン派の画家たちの個展を定期的に催しているようであった。

 その日はポンタヴァン派よりは少し後の時代だが、ポンタヴァンゆかりのシャヴィエー・ジョッソXavier Josso(1894-1983)という画家の個展が催されていた。

 水彩と主に木版画の展示でモティーフとしてはブルターニュの風景には違いないのだけれど、木版の細かい彫り方や構図の取り方などまるで東海道五十三次の広重の様であった。

 

 夕方ホテルに戻ると「もしここで夕食を考えているのなら席を予約をしておいたほうが良いですよ」とのことだったので予約をしておいた。

 とても寒くなっていたしこれ以上歩き回るより…

 それになによりキッチンからは食欲をそそるとても良い匂いが漂ってきていた。

 7時半の開店を待ちかねて部屋を出た。

 ホテルの受付のマダムもウエイトレスに変身して、他の2人のボーイと共に大忙しである。

 すぐにレストランは満席になった。ポンタヴァンの町の人たちが大勢このホテルのレストランに食事に来ているのだ。

 町にはたくさんレストランがあったがどれも皆夏場のリゾート客向けで今の時期は営業はしていない様子だったから、

 このレストランに集中したのかも知れないが、なによりも味が良いのだろう。

 良い匂いがしていたのでここでも牡蠣は止してブルターニュ料理にした。

 さすが早い内に満席になるだけのことはあって、素材も味も盛り付けも第一級であった。

メニューは

t.Soupe de Poisson(魚味のスープ-チーズとさいころパンが別盛になっていて極深椀で出てくる。ブルターニュ風)

u.Lieu Jaune(鱈のシードルソース和え)

v.Eglefin Au Chou(キャベツと鱈のクリームソース和え)

x.Baba Framboise(木苺と3種類のソースのカステラ)

y.Charlotte Fromage Blanc(クリームチーズのシャルロット)

         
         

 ホテルは広場に面した良い部屋であった。

 部屋にはそれぞれポンタヴァン派の画家たちの名前が付けられていて僕たちの部屋は「Henri Moret」となっていた。

 アンリ・モレもポンタヴァン派の中心的画家でいい絵をたくさん残しているが、まだ印象派のピサロあたりから抜け出せないでいるように僕には思えた。

 窓からはゴーギャンたちが泊まっていた『グロアネク夫人の下宿屋』の建物と、入り浸っておそらく飲んだくれていた『カフェ・デザールCafe des Art』が見える。

 広場の名前は今《ゴーギャン広場》と呼ばれていて、ゴーギャンの胸像が建てられている。

 今までは快晴続きだったのが夜から雨になった。

   

カフェ・デザールと下宿屋

ゴーギャン像とホテル

ポンタヴァン旅日記(下)へ続く。

 

(この文は2003年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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010. IL DE FRANCE 佐伯祐三の足跡を訪ねて

2018-10-10 | 旅日記

 今年もサロン・ドートンヌとル・サロンに出品した。
 最初に出し始めた 1991 年の会場はエッフェル塔が建てられたのと同じ時に万博会場として造られた 100 年前と同じグラン・パレであった。
 1994年からグラン・パレの老朽化によって改修工事に入るとの事でエッフェル塔近くのテントの会場に移ったのだが、テントの会場と言うのもパリでは伝統があるものなのだ。
 展覧会の他にファッションショーなども行われている。
 1887 年の博覧会の時にマネとクールベらがやったサロン・ド・リュフューゼ(落選展覧会)もテント会場であった。

 サロン・ドートンヌは 1904 年ルオーやヴラマンクらがフォービズムの発表の場として始まったといわれている。
 そのサロン・ドートンヌに佐伯祐三は 1925 年「コルドヌリ」と「煉瓦屋」を出品して初入選している。
 一時帰国のあと 1927 年「新聞屋」と「広告のある家」が再び入選。

 翌、1928 年 2 月の寒い一ヶ月間、サン・ジェルマン・シュル・モランとヴィリエ・シュル・モランに写生旅行をしている。
 その 6 月パリの東、ヌーイイ・シュル・マルヌのセーヌ県立エブラール精神病院に入院。8 月死去。

 僕が佐伯祐三の足跡を訪ねてみようと思ったのはちょうどサロン・ドートンヌがテントに移った年だった。
 かつて天王寺美術館の半地下にあるデッサン研究所に通っていた頃、研究生は美術館の入場はフリーパスで、僕はデッサンに飽きると美術館をうろうろとうろつき回っていたものだ。
 その時々架け替えられる常設展で佐伯祐三を観ることができるのは楽しみであったし、そんな中で観た「モランの寺」は僕に強烈な印象を与えたのを昨日のことの様に憶えている。

 モランがパリの郊外にあるということは知っていた。
 それがどのあたりにあるのかフランスの地図を丹念にたどってみるけれど一向に判らなかったのだが、ミッシュランのイル・ド・フランス地方の地図を買い求めてすぐに見つけることが出来た。
 小さい村だからフランスの全国地図には載っていなかったのだ。
 パリの東方 30 キロ程のところにサンジェルマン・シュル・モランとヴィリエ・シュル・モランがある。
 それは最近できたユーロ・ディズニーのすぐ東側にあたる。
 地図上の鉄道の線路をたどっていくとユーロ・ディズニーはリオン駅から RER(郊外電車)で行く事ができるが、モランに行くには東駅からの昔からの鉄道になっていてユーロ・ディズニーとは線がちがう。

 東駅の案内所に行き地図を示しながら「モランに行きたいのだけれど」と尋ねると「それならリオン駅からです」と即座に答えたので「おかしいな」とは思ったのだが半信半疑でリオン駅に行った。
 リオン駅ではインフォメーションと切符売り場が一緒になっている。
 そこでも同じ様に地図を示しながら聞くとインド人風の係員は、古文書館にでもあるような褐色に変色したぶ厚い文献を持ち出して調べ始めた。
 即答した東駅の案内所のフランス人の女性とは大違いである。
 その間にインフォメーションは切符売り場でもある訳だからたちまち長い行列になる。
 文献も二冊目。それと僕が示したミッシュランの地図。
 いろいろ見比べ検討した結果「Couilly-St-Germain Quincy」という駅「Villiers-Montbarbin」という駅が浮かび上がったのだ。
 モランという文字は一つも無い。そしてそれはこのリオン駅からではなく東駅からだ。
 やはり僕に間違いはなかったのだが、駅名と町名が違っているのでなかなか判らなかったのだ。

 東駅の案内所の女性は何故即答できたのだろうか?
 日本人は皆が皆ディズニーランドに行くとでも思っているのだろうか?

 「でもわざわざ東駅まで行くよりもこのリオン駅から RER に乗ってユーロ・ディズニーで降りて、近くだからバスも出ているだろうし…その方がいいかもね」とインド人風の係員が言ったのでそうすることにした。
 長い行列は既に一人も居なくなっていた。皆別の窓口に移動したのだろう。

 ユーロ・ディズニー駅に着き、停まっているバスの運転手にモラン行きを尋ねると
「たった今出たところで次は二時間あとです」ということだったので奮発してタクシーを使うことにした。
 タクシーはユーロ・ディズニーの周りを半周ぐるっと大回りして国道に出た。
 運転手は「モランのどこに行けばいい?」と聞いた。
 まあどうせ小さい町だからどこでもいいけれど中心にと思って「セントラルへ」と答えたはずが、運転手は「レストラン?」と聞き返した。「ノン、セントラル」。
 ほんのしばらく走っただけでタクシーは停まった。
 「ここがモランだけど、此処で良いかね」
 それはレストランの前だった。

 「ちょうど昼だしここで昼食とするか」とタクシーを降りてレストランの反対側に目をやると、なんとなんとそこにあの天王寺美術館で観た佐伯祐三の「モランの寺」が 1928 年当時のそっくりそのままの姿で僕の目の前にあったのだ。

 教会の周りを歩きながら、また佐伯がイーゼルを立てたと思われるあたりに立ってみると、僕はたちまち 70 年前の佐伯祐三の時代にタイムスリップしていた。

 レストランもまるで古くからの店の様で、佐伯祐三たちもこのレストランできっとお昼を取ったに違いないとさえ思えてくる。
 パリではあまり旨いフランス料理には当らないけれど田舎ではたいてい満足できる。
 ワインも一本空けてデザートにもピリッと辛口の珍しいチーズを食べて、大満足のモランでのひと時であった。

 ほろ酔い気分でローカル列車に乗りあっという間に次の駅「Villiers-Montbarbin」に到着。
 もう一つのモランである。

 画集では何枚も「モランの寺」があり、どれも「モランの寺」となっているため、同じ教会を何枚も角度を違えて描いたのかな?と当初は思っていたのだが、実は隣町の別の二つの教会を描いたのだったのだ。

 画家が描いたその現場に立って周りの環境や空気や温度やにおいを感じて、さらには歴史的背景を考慮して、そのモティーフをどういう風な捉え方をしているのかを考えるのは楽しい事だしとても勉強になるとおもっている。

 モランの他には佐伯祐三が最初の滞仏で住んだパリ郊外のクラマールにも行った。
 教会と町役場のある町の中心へは駅からまっすぐ伸びる道をかなり歩いた。
 さらに教会の後ろ側へ回って坂道を登ったはずれに佐伯祐三が住んだリュ・ド・スュッド2番地を見つけることが出来た。
 かつてはお屋敷でもあったのだろうか?古い塀がめぐらされた中に今は新しくマンションが建っている。
 入居者はまだ決まっていないのか、売出し中の看板がある。
 佐伯祐三は随分不便な奥まったところに住まいを見つけたものだ。

 帰りは駅まで戻るのも遠いし教会のところからバスが出ている様なのでパリ市内までバスにした。
 途中は町つづきで町工場やガレージ(自動車修理屋)コルドヌリ(靴屋)といったかつて佐伯祐三が描いたモティーフそっくりのパリ市内ではもう見られなくなってしまった街並みがあった。

 22 年ぶりにシャルトルにも行った。
 ここには世界一のステンドグラスのカテドラルがあるので観光客も多い。
 最初このステンドグラスを見た時はすぐにルオーの作品をオーバーラップさせて「なるほど」と感心した。
 ジャポニズムの影響でベルナールやゴーガンが始めたクロワゾニズムを更に進めたルオーだが、推し進めることによって古いステンドグラスに到達したことになったのではないのだろうか?

 そのカテドラルの裏手に美術館がある。
 美術館のはなれの館といったところにヴラマンクがまとめて 30 点ばかりがあった。
 普段なら見逃してしまうところだ。
 「トイレ」の矢印があって「ちょっとトイレ」と思って階段を下りたところ、そのトイレの隣にヴラマンクの館があったのだ。

 このシャルトルとヴラマンクがどういうつながりがあるのかは知らないけれど、佐伯祐三の足跡を訪ねる旅をした後だけに何だかヴラマンクのあの一喝が聞こえてきそうだった。
 「このアカデミック!」

 佐伯祐三はパリに着いて 3 日目に里見勝蔵に連れられて、オーヴェール・シュル・オワーズのヴラマンクのアトリエを訪ねている。
 その時に観てもらった 50 号の「裸婦」に対してのヴラマンクの一喝だ。

 その後、佐伯祐三の絵は急速に変わっていった。
 ヴラマンクの影響をまともに受けている作品も少なくはない。
 このシャルトルの美術館でもそんな佐伯祐三に影響を与えた様な作品がたくさんあった。
 いっぽう、その時代のフランスの画家の多くがそうであったように、ヴラマンクもまたジャポ二ズムの影響を受けていて、この美術館にヴラマンクの「屏風絵」があったのも面白い。
 ヴラマンクは時代によってかなり大きく作風を変えている。

 パリの北西ポントワースの近くオーヴェール・シュル・オワーズはゴッホの終焉の地。
 あのカラスの舞う麦畑でピストル自殺をした村である。
 ゴッホと弟テオの墓のあることでも知られているが、その他にもドービニィが先ずアトリエを構えたところでもある。
 ピサロもたくさんの作品を残しているし、セザンヌが「首吊りの家」やヴラマンクの「オーヴェール駅」など、多くの画家のゆかりの場所が数多くある。
 それらの画家たちと交流の深かったガシェ医師の家も残っている。

 ゴッホはこの村のいたるところを描いているが、ゴッホと同じ「村役場」と「オーヴェールの教会」を佐伯祐三も描いている。
 その頃から佐伯祐三はヴラマンク一点張りからユトリロの影響も見られ、そして独自の世界「広告の壁」へと進んで行った。

 佐伯祐三がクラマールの後移り住んだモンパルナス付近などは高層の駅ビルが建ち、僕達が初めて訪れた 1968 年~72 年頃と比べても少しは違っては見えるけれども、パリは本質的にはちっとも変わっていない気がする。
 ちょっと郊外へ足をのばすと 70 年前の佐伯祐三のモティーフや 100 年前のゴッホのモティーフさえもそっくりそのままの姿で残っている。

 モラン河はユーロ・ディズニーの北でマルヌ河と合流し、さらにマルヌ河はヌーイイの下流ヴァンサンヌの森でセーヌと出会い、セーヌはパリを横断しつつクラマール付近へ向って蛇行、さらに大きく蛇行を繰り返しながらポントワースの南でオワーズ河を抱き込み、ノルマンディー地方を悠々と流れやがて英仏海峡へと注ぎ込んでいる。

 英仏海峡に海底トンネルが開通して TGV や高速道が発達しても、河の流れは佐伯祐三やヴラマンクさらにゴッホがいた 70 年前も 100 年前も、そしてこれからの 100 年先、いやそれ以上何世紀をも変わることなく流れ続けるのだろう。VIT


この文は 1994 年に書いたものにこの度少し書き加えました。

 

(この文は2003年5月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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