武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

209. なるほどナッツ黄金比率 Entendo, a proporção áurea da noz

2023-10-01 | 独言(ひとりごと)

 朝食をとり一仕事を終えたところでコーヒータイムとなる。

 コーヒータイムにはたっぷりのナッツが付く。

セトゥーバル半島先端エスピシェル岬に自生するピスタチオの野生種

 アーモンド、クルミ、マカダミアナッツ、カシューナッツ、それにピーナッツ。たまにはピスタチオがあったり、ヒマワリの種があったり、柿の種があったりする。いや柿の種はナッツではない。おかきだ。それに必ず一片の料理用チョコレートを付ける。チョコレートはカカオナッツが原料だがナッツとは言はない。

 コーヒーはポルトガル式のデミタスではなく日本式にドリップで大きなコーヒーカップにたっぷりと入れ、海などを眺めながらゆっくりと味わう。砂糖もミルクも入れないでブラックだ。ブラックなので、お酒ではないが少しのあてがあれば幸せな気分になる。

 今年の初め宮崎に一時帰国した時に神戸からストックホルム時代の古い友人が遊びに来てくれた。自宅に立ち寄ってくれた時にコーヒーでも出そうと思って『ドン・キホーテ』でナッツでも用意しておこうと思って買い物に行った。すぐ通路の目立つところにミックスナッツがあったのでそれを買った。でも友人夫妻は僕たちの金婚式祝いにケーキを買ってきてくれたので、ナッツは開封せずじまいになってしまった。それをそのままポルトガルまで持参した。そして食卓にその袋がある。買う時は気が付かなかったのだがコピーが凝っている。

 『お酒に合うナッツの要望が多かったので ナッツを愛しすぎた担当者が 自慢の『黄金比率ナッツ』をベースに 複数の胡椒をミックスし味付け 濃厚なのに手が止まらなくなる自信作 ド 情熱価格 黒胡椒ミックスナッツエクストラEX』という長たらしいコピーだがいつもついつい全文を読んでしまう。

 僕はナッツ類の中ではカシューナッツがいい。

 カシューナッツと言えば昔、南米を旅行中にイギリス人で友人になった彼がエクアドールあたりだったか?盛んに「カシューナッツ、カシューナッツ」と騒いでいたのを思い出す。その辺りがカシューナッツの産地だったのだろう。原産地なのかもしれない。やはりいつも食べている食品を原産地の物との違いを味わいたのだろう。僕たちもエクアドールのカシューナッツを食べてみたがいつものと何ら変わりはなかった様に思う。

 アーモンドの原産地はトルコあたりと聞くが昔から南ヨーロッパにもあった。

 ゴッホがアルルで描いた『巴旦杏』は名画のひとつだが、弟テオの子供、それも名親のゴッホの名前ヴァンサンと名付けられた赤ん坊の寝室にその『巴旦杏』の絵はずっと飾られていたと言う。

 巴旦杏はアーモンドのことである。アーモンドは住んでいるセトゥーバルの郊外の沿道などでも毎年1月には花を楽しませてくれる。まるで桜の花にそっくりで春の到来を告げる花でもある。露店市では殻付きのアーモンドなども売られている。

 ポルトガルではアーモンドをそのままではなく粉にしてクッキーを焼いたりもする。贅沢なクッキーだ。

 ピスタチオの原種は我がセトゥーバル半島の先端エスピシェル岬に沢山自生している。食べるには少し小さすぎるが、それでも松の実くらいにはなるのだろう。野鳥の餌だ。

 クルミもトルコあたりが原産と聞くがヨーロッパには古くから栽培がされているし、野生種もあるようにも思う。メイエ村のイクオさん宅の庭にはクルミの巨木があった。庭で取れた小さなクルミをワインの充てに出して下さったが味は濃厚で旨かった。

 クルミも露店市では殻のまま売られている。クルミを殻から開けるにもアーモンドを殻から開けるにもくるみ割りが必要だ。

露店市で売られているアーモンドとクルミ

 我が家でもくるみ割りの道具は幾つかがある。

 くるみ割りと言えば、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』がすぐに頭をよぎる。昔、僕が未だ子供の頃、父はいち早くステレオを買った。同時に何枚かのクラシックレコードを揃えたのだがベートーベンの『運命』と共にチャイコフスキーの『くるみ割り人形』と『白鳥の湖』もあった。

 クルミはロシアにもあったのだろうか?とも思ったがチャイコフスキーの『くるみ割り人形』の原作はドイツの童話『くるみ割り人形とネズミの王様』だそうである。

 ナッツで一番ポピューラーなのはやはりピーナッツであろう。ピーナッツは木の実ではなく土の中に出来るとのことであるが僕はこの歳になっても栽培されている姿を未だ見たことがない。露店市やスーパーで売られている、殻に入ったピーナッツ或いは殻から出されたピーナッツしか知らない。

 昔、宮崎でお店をしていた時にはコーヒーに殻付きのピーナッツをつけていた。ウエイトレスからは「掃除が大変」と言われていた。やはりあちこちと散らかるのだ。

 映画『エリン・ブロコビッチ』でジュリア・ロバーツが署名を集め回っている先のバーに立ち寄った時、そこで飲んでいた何となく胡散臭いお客が重要な証言を話し始めた。もう夜で早く帰宅して子供たちに夕食を与えないといけない時間だし、本人もお腹が空いてくるし、でも重要な証言を聞き逃すわけにはいかない。夕食代わりに殻付きのピーナッツをむさぼり食べながら証言をメモするジュリア・ロバーツのその殻を割る指先は印象深い。これだけでもアカデミー賞級である。

 ナッツとは言えないのかもしれないが乾燥したグリーンピースがある。

 子供の頃、家族で海水浴によく行った。明治生まれで村上水軍の血を引く父は海水パンツの内ポケットに、その硬いグリーンピースを数粒忍ばせていた。父に言わせると「遭難した時の非常食になる」そうである。海水で適度にふやけて柔らかくなり、塩気が付いて旨くなる。万が一遭難しても非常食があれば落ち着いて行動できる。と言っていたが海水浴から上がってそのふやけた青豆で一杯やるのが楽しみの一つだったのだろう。武本比登志

 

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208. ゴムの木 árvore de borracha

2023-09-01 | 独言(ひとりごと)

 ベランダに折り畳み寝椅子を広げて寝転がる。お隣の庭のゴムの木の先端が空に向かって伸びているのが見える。

空に向かって伸びるゴムの木(我が家のベランダから撮影)

 ポルトガルに住み始めてこれ程、外出の少ないことはなかった。年齢的なこともあるのだろうけれど、コロナ禍で自宅に居ることの、案外と快適さを身に沁み始めたのかも知れない。

 最初の10年間は列車やバスを使ってそれこそ貪欲にポルトガル国内を歩き回ってスケッチをした。

 10年経ってクルマを買った。列車やバスでは行かれなかった小さな村々迄出かけた。スケッチ旅行の傍ら野の花やきのこ観察に楽しみを見いだし、それをブログに纏めた。

 30年経ち年齢も年齢、健康のこともあるし、そろそろ帰国をと思っていた矢先、コロナ禍だ。スーパーの買い物とワクチン接種以外全く外出はしなかった。

 コロナ禍が終わってもスーパーへの買い物と週一の露店市歩きくらいで、外食も殆どしなくなったし、野の花観察にも行かなくなった。

 家にばかり居るのだ。それが案外と心地良い。家に居ても陽当たりも良いし、見晴らしは抜群。地平線からの日の出も拝むことが出来るし。水平線を行く貨物船を眺めたり、戦闘機の飛行訓練を眺めたり。渡船やフェリーの行き来。貨物船の出入港。ヨットやレジャーボート。湾にはイルカウオッチングの船も、でもイルカは双眼鏡を使ってもここからは無理。

 先日は毎年、セトゥーバル湾で行われる漁師の祭りを家のベランダに居ながらにして見学することも出来た。漁師の祭りには花火もあった。年始め恒例の花火も我が家からが特等席だ。ベランダからの眺めは飽きることがない。

 家に居る1日は、先ず日の出を拝む。そして朝食。パソコンを開いてメールなどのチェック。それからサド湾を眺めながらコーヒータイム。再びパソコンを開いてラジオ体操第1と第2。北のベランダに置いてあるニラ、パセリ、月下美人への水遣り。油彩を少し。瞬く間に昼ごはん。テレビのお昼のニュース。ブログの掲載。何をする暇もなく夕食。夕食後はテレビの映画。入浴を挟んで映画をもう1本。

 アソーレスに住む幸さんが『文藝春秋』を送って下さる。隅から隅まで読む。面白い。僕は最初の頁から順番に全て飛ばすことなく読むようにしている。でもあまり夢中になって読み過ぎると他のことが何もできなくなってしまうので、時間を見ながら切りの良いところで毎日少しずつの楽しみにしている。

 夕食前後の南のベランダが日陰になる頃などは絶好だ。ベランダに折り畳み寝椅子を出して読む。寝椅子は南向きには置かれないので東向きだ。

ゴムの木とセトゥーバルの街並

 文藝春秋を読みながらふと顔を上げると、お隣の庭から生えているゴムの木の先端が見える。大きくなったものだ。我が家は日本式に言えば4階の高さ。南側の裏は5回の高さがある。ゴムの木は5階の高さまで迫ってきている。

 お隣のオーナーは庭木の剪定をあまりしない人の様だ。それこそ放ったらかしだ。松の木もそのままだし。ブラジル松も葛が絡み付いたまま伸び放題。ジャカランダも手つかずで、ゴムの木は広がり放題。庭木は放ったらかしだがクルママニアの様だ。用途に応じて何台ものクルマを使い分けている。誰もが振り返るスーパーカーもある。

 ゴムの木と言えば日本では室内用観葉植物の代表格だ。ポルトガルでも観葉植物だが、庭木や公園樹としても植えられている。やはり日本よりは少し温かいのだろう。冬でも葉が落ちないどころか、冬でも成長している。公園のカフェテラスで大きな影を作っていると思えばゴムの巨木だったりする。日本でも宮崎あたりなら露地でも生き続けるのだろうが、それ程の巨木は見たことがない。

 指宿で観葉植物の栽培をしている大村さんと知り合いになった。観葉植物と言っても家庭用ではなく事業所用で大型専門であった。一度指宿迄遊びに行ったことがあるが広い温室に指宿の温泉が暖房になっているとのことであったが、温かいところで暖房が要るのだろうかと思った。温泉は無料だが水道水にはお金を払っていると言っていた。羨ましい限りだ。風除けに温室が必要だとのことであった。とにかく他所の2倍も早く成長するそうだ。やはりゴムの木が多かった。それをトラックに満載して東京や大阪の大都市まで運んで行く。高度経済成長期、ビルなどに観葉植物の需要が多かったのだ。

 宮崎に住んでいた時にもゴムの木は身長以上になった鉢数鉢を育てていた。宮崎と言っても標高の少し高い地域で霜も降りたので地植えは無理であった。

 ゴムの木の巨木を最初に見たのはリオ・デ・ジャネイロであった。リオで動物園に行った。ゴムの木の巨木が珍しいと思い眺めていた。幹が動き出したので後ずさりした。何と幹に大きなニシキヘビが絡みついていたのだ。

 セトゥーバルの公園などでもゴムの大木がある。リオ・デ・ジャネイロのイメージがいつまでも離れず、幹にニシキヘビが居ないか恐る恐る見てしまう。

 そういえば、アンリ・ルソーの絵でゴムの木などの熱帯ジャングルの間から大蛇が首をもたげている絵があった。

 明治生まれの父は植物が殊のほか好きであった。生まれ育った新居浜の屋敷にはいろんな珍しい植物を植えていたそうだ。従妹の淳子さんの話では「憲叔父さんは未だバラなどが珍しい時代から育てていたし、新居浜の庭には珍しい植物がいろいろありましたよ」と言っていたくらいだ。

 父は太平洋戦争中の末期に兵役から戻って、大阪の地方公務員になった。母と結婚をし北田辺にアパートを借り暮らし始めた。1階にもアパートがあったのか大家さんの自宅だったのかは判らないが父と母の部屋は2階であった。兄はそこで昭和19年に生まれた。2階には2世帯が暮らしていて、あとの1世帯には犬養孝さんと言う方が住まわれたそうだ。その翌年の昭和20年、大阪では度重なる大空襲があった。B-29からの焼夷弾である。1歳に満たない赤ん坊を抱えて母は大変だったろうと思う。そしてそのアパートは爆撃により全焼した。アパートの門柱の上に父は斑入りのゴムの木を飾っていたそうだがゴムの木だけが、まるで門松のように青々と生き残っていたそうだ。

 父母も赤ん坊の兄も防空壕に隠れたのか、或いは安全なところを求めて逃げ惑ったのか。その辺りは聞いてはいないが、何とか無事であった。その後、戦争が終わってしばらくは、その近所に仮住まいしたことになるがそこで僕が生まれた。そして今の西今川町に家を見つけた。やがて妹が生まれることになる。僕が物心ついてからの家はずっと西今川町であった。最寄り駅は何れも同じ北田辺にある。

 西今川町は今川の西に沿った1丁目から4丁目まである町である。今川は遠い昔、息長川と呼ばれ万葉集にも歌われた鳰鳥(カイツブリ)も生息した美しい流れだったとある。最近になって地元の郷土史家、三津井康純氏の長年の調査により明らかになった史実である。

 万葉集などで歌われている息長川は今川の古い名前であった。

 “鳰鳥(におどり)の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言(こと)尽きめやも“(馬史国人)<万葉集4458番>

 “まだ知らぬ旅寝に 息長川と契らせ給うより ほかのことなし”(紫式部)<源氏物語・第四帖夕顔の巻>と歌われている。

 そして出所の判らない歌をもう一首

 “百済(くだら)野の 息長川の 都鳥 とふべき人は 昔なりけり(国香?)<拾遣?>

 百済と言う地名は西今川から10分も歩けば着くことが出来る地域で、その昔から渡来人の町だったのだろう。

 それが大和川の度重なる氾濫により1704年(宝永元年)の大和川付け替え工事により息長川の水源が絶たれてしまった。そして名称も今川となった。宝永年間には現代の川、つまり今川になってしまったわけである。僕が子供の頃の今川は各家庭からの排水が流れ込み、メタンガスが発生するまさにどぶ川であった。

 各家庭にテレビが普及し始めた頃、テレビに時々、犬養孝さんのお姿があって、父は「この人や、この人や。北田辺で同じアパートに住んでいたのはこの人や!」と喜んでいた。犬養孝さんもご無事であったのだ。犬養孝さんは万葉集の研究者としての第一人者で度々テレビにも登場していた学者の先生になられていたのだ。

 生れたばかりの兄は犬養孝さんにも抱いてもらったそうだ。母も懐かしそうにそう話していた。

 そのせいなのかどうなのかは知らないが、兄は今でも万葉集のポケット版を持ち歩いている。我が家ではお正月には毎年、百人一首を楽しんだ。読み手は母で、朗々と詠い上げた。父はお屠蘇を飲みながら見ているだけ。取り手は子供たち。勿論、一番上手なのは兄である。僕もそこそこには出来るが兄には叶わない。

伸び放題無限に枝分かれした1株のゴムの木

 寝椅子に寝転がってゴムの木を眺めながら、そういえばゴムの木にはあまり野鳥は止まらない。その隣の松には今も野鳥が止まっている。

 暑くて眠られない真夜中、夕方からそのままにしておいた寝椅子に横たわって星空を眺めながら

 “あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む”(柿本人麻呂)<小倉百人一首>などと言ってみると、黒々としたゴムの木がざわざわと音を立てる。

 

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207. 古いクルマは金食い虫じゃ carros velhos são vermes de dinheiro

2023-08-01 | 独言(ひとりごと)

 これ程1台の同じクルマに長く乗ったことはかつてなかった。

 何しろ2000年の5月にシトロエン・サクソがモデルチェンジしたのを機に新車を買って今年で23年にもなってしまった。

自宅前の路上に駐車中の我が家のシトロエン・サクソ(2023年7月30日撮影)

 ポルトガルに住み始めたのは1990年9月。2000年までの10年間はクルマなしの生活だった。買い物に行くにもスケッチ旅行をするにももっぱら公共交通機関を利用した。ポルトガルは日本などと比べると交通費は圧倒的に安い。市内バスであったり、路線バスであったり、列車であったり、渡船であったり。そしてそんな生活を楽しんでいた。10年の内の終わりの方では時々レンタカーもした。

 そして2000年5月になってようやくクルマを買った。当時、ルイサトディ大通り公園でシトロエンの新車キャンペーンをしていてその中から選んだ。

 パリの展覧会に出品をしていたので、フランスまで走ることも多くなるかもしれないと思い、あまり目立たない様にとありふれたフランス車がいいと思った。そしてありふれた白にした。

 1100ccの小型車でヨーロッパではどこででも多く走っているクルマだし、シトロエンのサーヴィスステーションも多いから安心だと思った。

 それまではパリの展覧会には飛行機で行っていたのだが出品作をクルマに載せて行ければ便利になるとも思った。だが結局それはこの23年間で1度もなかった。飛行機で行く方が却って安上がりで便利なのだ。

 フランスにクルマで行ったのは1回だけ。それもスペインからピレネーを超えたフランスの南西部モントーバン、トゥルーズ周辺のみ。スペインにも3~4度は入ったがポルトガルの国境から僅かなあたりだけ。

 23年間の殆どはポルトガル国内のみということになる。走行距離は12万4500キロほど。23年間にしてはそれ程多くはない筈だが、地球を3周した距離だ。

 ポルトガルに住み始めてからも毎年春の2~3か月程は日本に帰国していた。毎年何処かここかで個展があったからだ。その間クルマは自宅前の路上に置きっ放しにしていた。マリアさんの寝室の真ん前で、マリアさんは「私が見ているから」と言ってくれていたので安心はしていた。尤もバッテリーは外しておいたので戻って来てバッテリーを取り付けるとエンジンは1発で掛かった。

 ポルトガルに戻ってすぐの時期5月に車検がある。10年を過ぎたクルマは毎年だ。戻ってすぐにオイルチェンジし車検場に持って行くとたいていは1発で合格した。23年の間にはバッテリーも4~5回は換えているし、タイヤも3回くらいは換えている。確か1回は不合格の時があってその時はマフラーを換えたのだったと思う。そして点検整備とオイルチェンジは毎年している。あまり故障らしい故障はなかったしパンクも1回だけ。

 このコロナ禍で2020年、2021年、2022年の3年間は帰国が果たせなかった。そして今年2023年は4年ぶりにようやく帰国が叶った。羽田の税関では陰性証明書やワクチン接種証明書など書類検査が厳しかった。そしてポルトガルに住み始めて1番長い4か月を日本で過ごしたことになった。ポルトガルでは100人に1人くらいしかマスクはしていなかったが、日本では未だ着用義務があって全員がマスク姿であった。

 そして5月12日にポルトガルに戻って来た。車検の期限は5月17日だが少々なら遅れても大丈夫な様だ。例によってバッテリーを外しておいたのでエンジンは1発で掛かった。

 エンジンを掛けたまま4か月の汚れを雑巾で落としていた。エンジン音が異常に高くなったのを感じていた。運転席に座るとラジエーターの温度を示すゲージが高くすぐに赤ランプが点灯してしまった。こんなことは初めての経験である。

 走って5分ほどでガソリンスタンドがある。そこではあまりガソリンを入れたことがないのだが、時々はタイヤの空気を入れさせてもらう。今回は水だ。水をラジエーターに入れなければならない。ところが水の出し方が判らない。その日に限って整備スペースは閉まっている。聞く人も居ない。クルマに水タンクを積んでいるのを思い出してそれを入れた。直ぐには赤ランプは消えたが、又すぐに点灯した。

 買い物に行くつもりで出かけたのだが、これは整備工場に走る方が良いと判断しセトゥーバルの町の反対側出口にある『ローディ』まで走った。整備士もすぐに判ったらしく「ラジエーターを取り替える必要がある。きょうはこれ以上は走れない」という深刻な事態らしく、タクシーを呼び家に帰る羽目になった。

 ラジエーターを新品に代えて貰った。オイルチェンジもして貰った。併せて329,64ユーロ。

 税務署に行ってクルマの税金を払った。38,87ユーロ。期限は5月末日までで期限前だから追徴課税はない。昨年、一昨年はコロナ禍で税務署は入場制限をしていて、予約をしてのみしか入れなかったのに追徴課税25ユーロずつを纏めて取られてしまった。

 そして車検に行った。車検場は空いていた。待つことはなく直ぐに始まった。そして今回も1発で合格をした。但し、右前のフォグランプが一つ切れているので取り換えておくようにという一言があった。車検費用は34,19ユーロ。

 ACPポルトガル自動車協会にも行き年会費を払った。54ユーロ。新しいポルトガル全国道路地図をくれた。その辺りは昨年までは駐車無料だったのだが今年からは有料になっていた。0,50ユーロ。

 自動車保険は毎年秋に自動引き落としにしているから問題ない。218,75ユーロ。

 それから暫くは近くのスーパーに買い物に行ったり、露店市に行ったりと普通に乗りこなしていた。でも何となく不安な気持ちが残っていた。

 モイタの露店市の駐車場の側に水道がある。先日半分程使ったタンクに水を満たした。タンクから泡がもくもくと噴き出した。タンクは台所洗剤4リッターのタンクを再利用したもので、座りが良くクルマに載せておくには格好のタンクだった。それにろくに濯がないで水を入れていたのだ。ウインドウォッシャーに入れるのなら洗剤が少々入っている方が良いと思っていたからだ。

 露店市歩きとスーパーへの買い物だけではどうしても運動不足になってしまう。

 ラジエーターを交換して初めて遠出をした。日帰りでコルーシェと言う町を目指してスケッチ旅行に出かけた。暑い日だった。でもエアコンは効いているのでクルマの中は快適だ。

 コルーシェよりも手前にカーニャという村がありそこでもスケッチをした。教会の前に駐車したが影がない。陽射しが強いので影を選んでのスケッチだ。教会の鐘楼にコウノトリが巣を架けている。電信柱の上にも軒並みにコウノトリが巣を架けていて、それぞれに2~3羽ずつが居る。アレンテージョ地方でも、セトゥーバル周辺でもコウノトリが増えている。

 9時から開いたカフェで休憩をしコルーシェを目指した。

 カーニャからコルーシェは交通量も少なくコルク樫の森の中の真っ直ぐな道が続く。100キロくらいは直ぐに出てしまう。

 コルーシェはテージョ川とは別のリスボンに流れ込む川の中流域に沿った町で闘牛が盛んなところだ。その闘牛場駐車場の木陰にクルマを停めた。何度かは来ているがあまり絵にしてはいない。とんがった白い屋根の特徴的な教会があるが、それ以外はポルトガルの何処にでもある様な町角風景を貪欲にスケッチした。町角には闘牛のポスターがべたべた貼られていて佐伯祐三の絵を彷彿とさせる。パステラリアでお昼を済ませた。観光客も暑いからかエアコンの効いたカフェなどに避難してビールを飲んでいる。

 そしてアルコシェッテ、モンティージョ周りで帰ることにした。アルコシェッテもモンティージョもショッピングなどでしょっちゅう来るところだ。アルコシェッテまでもコルク樫の森の真っ直ぐな道が続く。アルコシェッテでアイスクリームを食べて休憩した。

 モンティージョに入るところで夕方の渋滞になってしまった。なかなか街を抜けることが出来ない。

 そして新品に換えたばかりのラジエーターのゲージが上昇しだし、やがて赤ランプが点灯した。すぐにガソリンスタンドに入り水を入れた。相当の水が入った。モンティージョの出口辺りで修理工場がある筈だと思ったが見逃してしまった。一応ラジエーターのゲージは正常に保っているのでそのまま帰宅することにした。

 翌日、『ローディ』に行った。事情を説明した。どうやらエンジン・ヘッド・ガスケットというのが問題らしい。それを換えるには1250ユーロがかかる。でも2年間のギャランティ付きとのことだ。大金なので即決は出来ない。「少し考えてみる」といってその日は帰った。

 もう一度、遠出をしてみた。コルーシェよりは少し近場のアライオロスにした。お城があり、絨毯の産地として観光客も多い。トラック運転手相手の安くて旨い食堂があり、そこもしょっちゅう行くところだが、スケッチするところも多い。ここでも貪欲にスケッチをして、トラック食堂で昼食も摂って、絨毯博物館も見学して、そして何とか無事に帰って来た。ラジエーターのゲージが上がることもなかったが、走りながら何となく不安な気持ちはぬぐえない。

 いつも通りピニャル・ノヴォの露店市にも出かけた。何か後ろの方でコトコトと音がする。積んでいる荷物の音でもなさそうだし、半ドアでもない。停めてからマフラーを触ってみるとどうやらマフラーが揺れて後ろのバンパーに時々触れている音の様だ。でもあまり気にせずに走った。

 もう23年も乗っているのだから普通ならとっくに買い替え時は過ぎているのだが、あと2年でポルトガルは引き揚げて帰国しようとも考えているので、今更買い替えのタイミングではない。

 1250ユーロかけてエンジン・ヘッド・ガスケットを換えて、2年間を高いガソリンで走るよりも、この際ハイブリッド車に乗り換えれば、ガソリン代は安く済むだろうし、その方が良いのかもしれないと思い、トヨタのショールームに行ってみた。ハイブリッド車は1000cc程度の小型車はなくて1500cc以上だとのこと。それでも下取り価格も含めて計算してもらったが、買い替えるにはやはり負担が大きすぎる。

 買い替えは諦めて、その足で『ローディ』に行った。トヨタのショールームから『ローディ』までは1キロ足らずの距離だ。『ローディ』に到着する100メートル手前でマフラーが落ちた音がした。道行く人皆がこちらを見ている。マフラーが落ちて爆音を轟かせて走っていたのだ。『ローディ』の駐車スペースに停めてクルマの下を覗いてみるとマフラーが地面に着いてぶら下がっていた。ゴロゴロと引きずって走って来たのだ。爆音を轟かせながら。でもこれ程のグッドタイミングはない。遠出した時や郊外などで、もしマフラーが落ちていたらと思うとゾッとする。

エンジンから取り外された部品の山。床にはマフラーも。

 エンジン・ヘッド・ガスケットとマフラーを交換してもらうしかない。整備士主任は「高くつくけれど新車同様になるよ。2年間のギャランティ付きだしね」と強調した。整備には1週間程が掛かるとのことでタクシーを呼んでもらって帰宅した。1週間はクルマなしの生活だ。

 パンとバナナが切れたので徒歩でスーパーに買い物に出かけた。重い物は持てないので最小限の買い物だ。1週間程度の外出をしないのは普段の生活で何も変わることはないし、引き籠り生活はむしろ得意で快適なのだ。

 予定より早く5日目に電話が鳴った。直ぐにタクシーを呼びクルマを取りに『ローディ』に行った。整備士主任はいなかった。整備士副主任が対応してくれたが、何の説明もないままお金だけ払ってクルマに乗って帰った。『ローディ』では従業員が夏休みに入っている様で交代で休みを取り始めているのだろう。整備士の人数が少なかった。「1250ユーロかかるけど新品同様になりますよ」と言っていたが何となくそんな気がしない。支払ったのは予算の1250ユーロより少し安い1231,12ユーロだった。

 新品同様になる。と言うのはエンジン部分だけでその他は古いままだ。尤も洗車機は一度も使ったことがなく雑巾で拭くだけにしているので塗装は綺麗なままだ。町にはもっと古いクルマも多く走っている。我が家のクルマより新しいのでも塗装が剥げているクルマもある。いろいろだ。

 僕は昭和40年5月8日に免許を取って今までに様々なクルマに乗って来た。最初は発売されたばかりのカローラだった。思えば新車を買ったのはその時と今乗っているシトロエン・サクソ、それに軽のスズキジムニーだけ。それ以外は中古車だった。思いっきり古いフォルクスワーゲンマイクロバスでヨーロッパ5万キロを走破したし、宮崎に居る時もフォルクスワーゲンの古いビートル・ダブルバンパーに乗っていたこともある。ナナハンも中古車だった。普通車のスズキジムニーも乗った。お義母さんが買い物用にとコロナのステーションワゴンを買ってくれたこともあった。中古車でもそれなりに買い替えて乗って来た。だからあまり故障をしたという経験もない。

 昔、岡山の岡本さんと話していたことが頭をよぎった。「古いメルセデスを持っているが、このクルマは金食い虫じゃ~」と岡山弁で愚痴っておられた。一つ修理すると次から次に悪いところが出て来て切りがない。と言う話だった。古いメルセデスならクラシックカー的な楽しみもあるのだろうけれど、わが家のシトロエンは単なるポンコツだ。

 そういえば本拠地はニューヨークでポルトガルにも仕事場を持っておられ、一緒に展覧会をしたこともある彫刻家の新妻實さんはポルトガルにシトロエンを3台持っておられた。その内の1台は1946年型のまさしくクラシックカー。「単なる飾りではなく実際に走ることも出来る」と言っておられた。もう1台はシトロエンの2CV車。これも可愛らしいマニアックなクルマだ。そして3台専用の駐車場に収まっていた。ニューヨークではポルシェだと言っておられた。余程のカーマニアだったのだろう。

 次元の異なる話だが、何か我がポンコツシトロエンは単なる金食い虫になりはしないかと頭をよぎる。

 案の定、何か音がする。新品に換えた筈のマフラーの辺りだ。

 次の日に『ローディ』に行ってみた。「きょうは予約でいっぱいで、明日午後に来てくれ」と言われたので、その次の午後に行った。そうすると「今日ではない。明日午前中に来てくれ」と言うではないか。怒った。「確かに今日午後と言ったではないか」と言って怒った。それを見ていた英語の出来る整備士が副主任に向かって「俺が見てみるよ」と言ってくれた。整備士が夏休みで少ない上に故障車が多く、帰省客のパンク修理などと立て込んでいるのだ。

修理中の我が家のクルマ

 クルマに我々を乗せて周辺を走ってみてくれた。確かに音がする。さすがに整備士だ。すぐに判った様でマフラーを取り付けているクッションゴムが老朽化しているのだ。と言ってその部分を見せてくれた。間違いはなさそうだ。

 「何故、マフラーを取り替える時にこれを一緒に取り換えなかったのだ」と言ったら「確かにそうだ。でも俺はこのクルマの担当ではなかったのでね」と。そしてこれを取り替えるには16ユーロが掛かる。と言うのでやってもらうしかない。

 すぐに部品屋に電話をして「明日出直してくれるか、今日でも1時間45分待ってくれれば出来るけど」とのことだったので待つことにした。

 出来上がったので料金を払おうとしたら、副主任は大型シェードをおまけにくれた。16ユーロ。

 それからも買い物に行ったり、露店市に行ったりと毎日の様にクルマを使っているが、何となく不安は拭えていない。そしてその後遠出は未だしていない。

 

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206. オートバイ motocicleta

2023-07-01 | 独言(ひとりごと)

 このところ早朝6:30にバイクの音で目が覚める。

 通勤にバイクを使い始めたのだろう。下のガレージから軽やかなセルモーターの音が立ち昇ってくる。

朝日を受けて下のガレージから2人乗りで出発するバイク。(南のベランダから撮影)

 我が家は日本式に言えば4階だが、裏側は5階の高さがある。玄関横から急勾配の坂道を下れば裏手には棟割り10軒のガレージがある。その内の一軒の持ち主が最近バイクを購入したのだろう。クルマからバイクに乗り換えたのか、或いはクルマは路上に駐車してガレージはバイク用に使い始めたのかもしれない。

 スマホの目覚ましが鳴る前にバイクの音で目が覚める。いや、以前から目覚ましが鳴る前にメルローの歌声で目が覚めていたのだが、バイクの音がそれに加わった。

 決して騒音という訳ではなく心地よいセルモーター音だ。

 休日には後ろに奥さんを乗せて出かける。いや、知らないが、たぶん奥さんだろう。

 隣の棟の玄関先にも3台ものバイクが駐車されている。これも最近だ。

隣棟の玄関先に駐車してある2台のバイク(北のベランダから撮影)

 そういえばポルトガルではこのところバイクが増えているような気がする。それも大型の高級車ばかりが目立つ。

 国道10号線を走っていても多くのバイクが追い越してゆく。

 自転車も増えているのだが、バイクも増えている。

 自転車は僕の方が追い越すのだがバイクは僕を追い越してゆく。

 先日はポルトガルテレビで北のシャーベスから南のアルガルヴェまで数百台ものバイクが何かを訴えながら走破するニュースがあった。その肝心の訴えは何かを忘れてしまった。

 毎年、アルガルヴェには全国から或いはスペインやドイツあたりからも数千台のバイクが集結して話題になる。

 クリスマス時期にはサンタクロースの衣装を着たバイク数百台が我が家の下のノッサ・セニョーラ・ド・カルモ通りにも姿を見せる。

 昨日も隣のホテルから9台のバイクが出発していた。何処から来たのか、どこまで行くのかは知らないが本格的ないでたちで、その内の3台は2人乗りであった。

朝日を背にホテルを出発する4台のバイク(2023年7月1日8:30北のベランダから撮影)

 僕も若い頃はバイクに乗っていた。

 友人から貰った50ccのスポーツカブを暫く乗った後、大阪から東京まで走破し、返しに行ったこともあった。

 西岡たかしさんからホンダCD250を練習用にお借りし、かなりの期間乗っていた。

 西岡さんはその後、ハーレーマニアになっておられた。

 ハーレーもいいが、僕には似合わない。どちらかと言えばヨーロッパ車のトライアンフなどが好みだ。

 『大脱走』でスティーヴ・マックイーンがバイクで逃走する姿は憧れの的だ。ピーター・フォンダの『イージー・ライダー』もあった。

 いや、最近の映画でも多くの俳優のバイクシーンがある。『ターミネーター』の中でのアーノルド・シュワルツェネッガーはハーレーが似合うし、『エリン・ブロコヴィッチ』の中でのアーロン・エッカートのハーレーもいい。映画『ボディ・ターゲット』でジャン・クロード・ヴァン・ダムが古いトライアンフを自分でオーバーホールして乗る姿は良かった。オルガ・キュリレンコ『ザ・クーリエ』のバイクテクニックには驚かされるが、多分、スタントの姿なのだろう。ヘルメットを被れば誰だかわからない。メグ・ライアンの『恋におぼれて』のバイク姿もいい。

 僕はかつてサイドカー付きに乗りたかったのだが、運転が難しいと言われたので、悩んだ挙句ホンダの単車CB750にした。いわゆるナナハンである。

 それで九州中を走り回ったし、宮崎から四国の足摺岬、室戸岬を回って大阪のグループ展の出品に行ったこともあった。今はそんな体力は到底ないし、もう随分とバイクには乗っていない。

 だいいち、今年の帰国時に大型自動二輪免許は返上してしまった。

 大型自動二輪免許だけではなく、大型車(トラック、バスなど)、牽引(トレーラーなど)、大型特殊(ブルドーザー、ショベルカーなど)、など2種免許以外は全ての免許も持っていたのだが、普通車以外はすべて返上してしまった。

 免許試験場の試験官氏は「勿体ないな~」と言われたが、普通車以外は乗らないのだから無駄だと思ったのだ。

 でもやはり勿体なかったかな。取得する時には何日も試験場に通い、何度も不合格になりで結構苦労もしたし、持っているだけでいつでも乗れるという豊かな気分になれるのだから。 

 そしてバイクに追い越される度に、その後姿を羨望の目で見送っている。武本比登志

 

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205. 赤い鉄瓶と赤い珈琲挽き Chaleira de ferro vermelho e moedor de café vermelho

2023-06-01 | 独言(ひとりごと)

 赤い鉄瓶を買った。黒いのと二つ並んでいたが黒いのはひと回り小さく、同じ価格なので赤い方を買った。それでも600cc入りと小さい。鉄瓶というより急須程度のサイズだ。でも2人家族なのでこれで丁度良い。

 老人になるとカルシュームやビタミン、鉄分などいろいろと不足気味になる。鉄瓶でお湯を沸かせば少しは鉄分の補給になるのかも知れないと思い、鉄瓶を買った。

 実は以前にセトゥーバル郊外のアトランティックシティ内のインテリアショップで鉄瓶を見ていた。西洋梨をもっと押し潰した様な可愛い形で粉を拭いた緑青色をしていた。1種類だけだが幾つかの在庫があった。店員に値段を聞いてみると20ユーロだという。安いと思ったがその時は買わなかった。

 それから数年が経っているが、未だあるかも知れないと思いたち行ってみた。丹念に探したがその店に鉄瓶はなかった。仏像の頭部や造花の盆栽はあったが、鉄瓶はなかった。

 同じアトランティックシティ内にもう1軒インテリアショップがある。以前は『ボーラ』という名前だったが『フォーマ』と名前が代わっていた。『ボーラ』の時にはキッチンタイマーなど幾つかを買ったことがある。

 名前は『フォーマ』に代わっても店内はほとんど同じでインテリア用品、寝室用具、バスルーム用品、キッチン用品、それにガーデン用品などが迷路のような配置になっている。

 キッチン用品のコーナーでは丹念に目を凝らして探した。キッチン用品の棚の下段に小さい黒い鉄瓶を見つけた。執念で見つけたのだ。赤いのと2種類があった。同じデザインだが、赤い方が一回り大きい。鉄瓶はやはり黒がいい。黒がいいが、同じ値段ならと、かなり考えた挙句、ひと回り大きい赤いのを買った。以前に見ていた20ユーロより更に安い17,99ユーロだった。

 日本でも鉄瓶など滅多に見かけない。それに南部鉄瓶など結構な値段がする筈だ。

 ずっしりと重いのを、持って帰って見てみると日本製でもなく中国製でもなく何とフランス製だ。そういえばフランスを旅行中にショーウインドウで何度か鉄瓶をみた。てっきり日本の南部鉄瓶を輸入したのだと思っていたが、南部鉄瓶を真似たフランス製だったのかもしれない。

 さっそくお湯を沸かしてみた。沸騰させても取っ手も蓋の摘みも熱くならないので使い勝手が良い。なかなか良い買い物をしたものだと満足してぐっすり眠った。

 翌朝、再びお湯を沸かした。よく見てみるとほんの少し縦に亀裂が走っている様だ。外側に1センチ程だが内側には2センチ程が入っていた。これは取り替えてもらう必要がある。

 午後からアトランティックシティに出かけた。『フォーマ』に入り、レジのところで「昨日これを買いましたが、少し亀裂が入っている様なので取り替えて下さい。」と言ってみた。店員は愛想よくその鉄瓶がある場所まで道案内し「箱から出して別のを自由にお選びください」と言った。店内は迷路のように複雑に入り込んでいて、店員は近道を案内してくれたのだ。そして新しい同じ型の鉄瓶を選び持って帰った。

 お湯を沸かすのにも珈琲を淹れるのにも使うことにした。

 赤ではどうかな?と思ったが見れば見るほど気に入り始めている。

 大昔の話だ。1971年。ストックホルムで赤と白のツートンカラーのフォルクスワーゲンマイクロバスを買った。思いっきり古い中古車だった。住んでいた家の近くの路上に『売ります』の張り紙があるクルマであった。売主に電話を掛け中も見せてもらった。「運転してみなさい」というので、助手席に売主を乗せ少し走ってみた。売主はお世辞に「運転が巧いね」と言った。人の良さそうな売主は「私はイタリア人の血も入っているスウェーデン人だが、このクルマには愛着もある。日本車も素晴らしいが、このドイツ車は格別だよ。エンジンも載せ替えたばかりだしね。日本人に買ってもらえるのならこれ以上の幸せはないよ。」とも言った。

これは玩具のミニカーだが、こんな感じ。

 それ以上は深くは考えずに理想のクルマだと飛びついて買った。中にベッドと台所用品を吊り下げる棚を作った。カーテンも付けた。クルマが赤なので棚もカーテンも折り畳み椅子もテーブルも赤にコーディネイトした。

 実はそのクルマに寝泊まりしながらヨーロッパを南下し中東を経由しインドまで行くつもりであった。ソ連がアフガニスタンに侵攻する以前の話だ。イスタンブールでは「一緒にキャラバンを組んでインドまで行かないか」とイギリス人から誘われたこともあった。

 それがヨーロッパももっと見ておきたいという思いからストックホルムに舞い戻ったのだ。

 ストックホルムに住みながら夏休みや冬休みなど、それでヨーロッパ中を4年間で5万キロを走った。

 クルマを買って最初の旅の1972年の春であった。パリのオートキャンピング場に住み、アリアンスフランセーズに通い、毎日帰りには何処かここかの美術館見学をしていた。蚤の市にもよく行った。毎週日曜日に出るヴァンヴの蚤の市は好きな場所であった。そこで赤い珈琲挽きを見つけて買った。赤い車によく似あった。何処にでも駐車し、テーブルと椅子を出し、珈琲挽きでがりがりと珈琲豆を挽きキャンピングガスでお湯を沸かし珈琲を淹れ飲んだ。

 ストックホルムの自宅でも珈琲挽きは活躍した。

 ストックホルムからニューヨークに移住する時に大阪の実家に他の荷物と纏めて珈琲挽きも送った。6年後に実家に帰って見ると母はその珈琲挽きを上手に丁寧に使ってくれていた。

 今は宮崎の自宅にあり、今回の帰国時にも使った。日本で売られている珈琲は粗挽き過ぎてもう少し細かく挽いた方が好みに合う。

 既に50年以上も手元にある赤い珈琲挽きだが、今回、偶然に買った赤い鉄瓶と何だか一緒に使ってみたい気分にもなってきた。でも残念ながら置き場所は、日本の宮崎とポルトガルのセトゥーバルでは遠く離れすぎている。    武本比登志

 

 

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