武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

205. 赤い鉄瓶と赤い珈琲挽き Chaleira de ferro vermelho e moedor de café vermelho

2023-06-01 | 独言(ひとりごと)

 赤い鉄瓶を買った。黒いのと二つ並んでいたが黒いのはひと回り小さく、同じ価格なので赤い方を買った。それでも600cc入りと小さい。鉄瓶というより急須程度のサイズだ。でも2人家族なのでこれで丁度良い。

 老人になるとカルシュームやビタミン、鉄分などいろいろと不足気味になる。鉄瓶でお湯を沸かせば少しは鉄分の補給になるのかも知れないと思い、鉄瓶を買った。

 実は以前にセトゥーバル郊外のアトランティックシティ内のインテリアショップで鉄瓶を見ていた。西洋梨をもっと押し潰した様な可愛い形で粉を拭いた緑青色をしていた。1種類だけだが幾つかの在庫があった。店員に値段を聞いてみると20ユーロだという。安いと思ったがその時は買わなかった。

 それから数年が経っているが、未だあるかも知れないと思いたち行ってみた。丹念に探したがその店に鉄瓶はなかった。仏像の頭部や造花の盆栽はあったが、鉄瓶はなかった。

 同じアトランティックシティ内にもう1軒インテリアショップがある。以前は『ボーラ』という名前だったが『フォーマ』と名前が代わっていた。『ボーラ』の時にはキッチンタイマーなど幾つかを買ったことがある。

 名前は『フォーマ』に代わっても店内はほとんど同じでインテリア用品、寝室用具、バスルーム用品、キッチン用品、それにガーデン用品などが迷路のような配置になっている。

 キッチン用品のコーナーでは丹念に目を凝らして探した。キッチン用品の棚の下段に小さい黒い鉄瓶を見つけた。執念で見つけたのだ。赤いのと2種類があった。同じデザインだが、赤い方が一回り大きい。鉄瓶はやはり黒がいい。黒がいいが、同じ値段ならと、かなり考えた挙句、ひと回り大きい赤いのを買った。以前に見ていた20ユーロより更に安い17,99ユーロだった。

 日本でも鉄瓶など滅多に見かけない。それに南部鉄瓶など結構な値段がする筈だ。

 ずっしりと重いのを、持って帰って見てみると日本製でもなく中国製でもなく何とフランス製だ。そういえばフランスを旅行中にショーウインドウで何度か鉄瓶をみた。てっきり日本の南部鉄瓶を輸入したのだと思っていたが、南部鉄瓶を真似たフランス製だったのかもしれない。

 さっそくお湯を沸かしてみた。沸騰させても取っ手も蓋の摘みも熱くならないので使い勝手が良い。なかなか良い買い物をしたものだと満足してぐっすり眠った。

 翌朝、再びお湯を沸かした。よく見てみるとほんの少し縦に亀裂が走っている様だ。外側に1センチ程だが内側には2センチ程が入っていた。これは取り替えてもらう必要がある。

 午後からアトランティックシティに出かけた。『フォーマ』に入り、レジのところで「昨日これを買いましたが、少し亀裂が入っている様なので取り替えて下さい。」と言ってみた。店員は愛想よくその鉄瓶がある場所まで道案内し「箱から出して別のを自由にお選びください」と言った。店内は迷路のように複雑に入り込んでいて、店員は近道を案内してくれたのだ。そして新しい同じ型の鉄瓶を選び持って帰った。

 お湯を沸かすのにも珈琲を淹れるのにも使うことにした。

 赤ではどうかな?と思ったが見れば見るほど気に入り始めている。

 大昔の話だ。1971年。ストックホルムで赤と白のツートンカラーのフォルクスワーゲンマイクロバスを買った。思いっきり古い中古車だった。住んでいた家の近くの路上に『売ります』の張り紙があるクルマであった。売主に電話を掛け中も見せてもらった。「運転してみなさい」というので、助手席に売主を乗せ少し走ってみた。売主はお世辞に「運転が巧いね」と言った。人の良さそうな売主は「私はイタリア人の血も入っているスウェーデン人だが、このクルマには愛着もある。日本車も素晴らしいが、このドイツ車は格別だよ。エンジンも載せ替えたばかりだしね。日本人に買ってもらえるのならこれ以上の幸せはないよ。」とも言った。

これは玩具のミニカーだが、こんな感じ。

 それ以上は深くは考えずに理想のクルマだと飛びついて買った。中にベッドと台所用品を吊り下げる棚を作った。カーテンも付けた。クルマが赤なので棚もカーテンも折り畳み椅子もテーブルも赤にコーディネイトした。

 実はそのクルマに寝泊まりしながらヨーロッパを南下し中東を経由しインドまで行くつもりであった。ソ連がアフガニスタンに侵攻する以前の話だ。イスタンブールでは「一緒にキャラバンを組んでインドまで行かないか」とイギリス人から誘われたこともあった。

 それがヨーロッパももっと見ておきたいという思いからストックホルムに舞い戻ったのだ。

 ストックホルムに住みながら夏休みや冬休みなど、それでヨーロッパ中を4年間で5万キロを走った。

 クルマを買って最初の旅の1972年の春であった。パリのオートキャンピング場に住み、アリアンスフランセーズに通い、毎日帰りには何処かここかの美術館見学をしていた。蚤の市にもよく行った。毎週日曜日に出るヴァンヴの蚤の市は好きな場所であった。そこで赤い珈琲挽きを見つけて買った。赤い車によく似あった。何処にでも駐車し、テーブルと椅子を出し、珈琲挽きでがりがりと珈琲豆を挽きキャンピングガスでお湯を沸かし珈琲を淹れ飲んだ。

 ストックホルムの自宅でも珈琲挽きは活躍した。

 ストックホルムからニューヨークに移住する時に大阪の実家に他の荷物と纏めて珈琲挽きも送った。6年後に実家に帰って見ると母はその珈琲挽きを上手に丁寧に使ってくれていた。

 今は宮崎の自宅にあり、今回の帰国時にも使った。日本で売られている珈琲は粗挽き過ぎてもう少し細かく挽いた方が好みに合う。

 既に50年以上も手元にある赤い珈琲挽きだが、今回、偶然に買った赤い鉄瓶と何だか一緒に使ってみたい気分にもなってきた。でも残念ながら置き場所は、日本の宮崎とポルトガルのセトゥーバルでは遠く離れすぎている。    武本比登志

 

 

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204. パリで道に迷っている夢 Sonhar que está perdido em Paris

2023-01-01 | 独言(ひとりごと)

明けましておめでとうございます。

 パリで道に迷っている夢を見た。

 どこか目的地があってそこに行こうとしているのだが目的地もはっきりとしないし、現在地もはっきりとしない。そして誰かを道案内しようとしている様なのだがその誰かもはっきりとしない。

武本比登志油彩作品F100

 目が覚めてから考えるとパリでは見たことがない場所ばかりで夢の中だけのパリで現実とは違うパリなのだ。

 夢の中では疑いようのないパリなのだが、複雑に入り込んで地図では表すことが出来ない四次元の町並の様だ。デジタル技術で作られたSF映画的なパリと言えるかもしれない。くだらない映画の観すぎなのだろうか。

 やたら幅の広い黒々とした石畳の坂道と、急こう配で滑り落ちそうな階段道だけ。それが縦と横に複雑に絡み合って重くのしかかる。

 そして目覚めるとぐったりと疲れている。そんな同じような夢をこのところ時々見る。

 花の都『パリの空の下』でエディット・ピアフは『ばら色の人生』を歌ったけれど僕の夢のパリには1輪のバラも1片の花びらさえも出てこない。

 でもエディット・ピアフの歌声も決して明るくはない。暗く重い。

 僕の夢のパリは更に暗くさらに重い。

 現実のパリに最初に行ったのは1968年の夏。エディット・ピアフが亡くなってから5年後、ジョルジュ・ルオーが亡くなって10年後、パブロ・ピカソはコート・ダ・ジュールで未だ精力的に制作に励んでいた1968年。大学から美術研修という名目で2週間のヨーロッパ旅行だった。誰もが行くべきところにしか行かない団体旅行なので道に迷いようがない。

 その次は1972年の1月から3月までの3か月間をパリのオートキャンプ場で過ごした。

 ストックホルムでおんぼろのフォルクスワーゲンマイクロバスを買い、何処でも寝られるように簡単な料理も出来る様にと自分で改造をした。

 1971年11月、小雪の舞い始めたストックホルムを出発し凍える冬に、スウェーデン、デンマーク、ドイツ北部、オランダ、ベルギーを網の目の如く、全ての美術館を見逃すことなく2か月をかけてフランスに入った。

 パリで春が来るまで少し落ち着きたいと思ったがパリの住宅事情はそれほど甘くはない。結局、オートキャンプ場でクルマの中での生活を続けざるを得なかった。

 オートキャンプ場からアリアンス・フランセーズ(フランス語学校)にメトロで通った。オートキャンプ場のクルマの中、蠟燭の明かりの下で宿題などもしたが、全く身につかなかった。でもその後の旅では数字だけでも理解できるようになったからか少しは便利になった様な気もする。

 アリアンスの授業が終わってからの帰りには何処かここかの美術館に寄って帰るのを日課としていた。毎日必ず1軒の美術館。パリには大小の美術館は多い。1972年だからポンピドゥーセンター(1977年開館))もオルセー美術館(1986年開館)も未だ誕生していない時代であったが、その頃にも美術館は多くあった。パリ中をカタツムリの如く良く歩いた。よく歩いたがパリで道に迷ったという記憶はない。

 確かにパリの道は日本の碁盤の目の様な町並ではなく放射状になっているから一つ間違えばとんでもないところに行ってしまう。それでも道に迷ったという記憶はない。

 メトロを上がったところのブーランジェリー(パン屋)で1本のパリジャン(フランスパン)を買い、キャンプ場までの道すがらちぎっては口にした。夕食用に買ったパリジャンがオートキャンプ場に着くころには殆ど食べてしまっていた。旨かったのだ。

 その当時、オートキャンプ場はブローニュの森とヴァンサンヌの森にあった。最初はブローニュの森のオートキャンプ場だったのがお正月に1週間閉鎖をすると言うのでヴァンサンヌに移った。それからはずっとヴァンサンヌで過ごした。そこにはロマの人たちも定住していたし、管理人は何と日本人男性で犬とキャンピングカーで暮らしておられた。

 どちらのオートキャンプ場もシャワーなどもありトークン(専用コイン)を入れるとお湯が出てくる仕組みだが水離れした程度のぬるいお湯しか出なくて温まることは出来なかった。キャンプ場には雪も積もった。それでも今から考えると若かったからか苦にはならなかった。

 その当時パリに住む先輩、今、エディット・ピアフを歌っておられるアータンご夫妻からアラジンの石油ストーブをお借りし、クルマの中で炊いた。あれは有り難かった。

 先日、カタールではサッカーワ-ルドカップが行われ、決勝戦はフランス対アルゼンチンであったのは記憶に新しい。アルゼンチンが先行したがぎりぎりでフランスが追いつき3対3のままPK戦にまでもつれ込み、結局アルゼンチンが優勝を飾ったが決勝戦に相応しい見応えのある良い試合であった。マクロン大統領の興奮気味の応援も印象的であったが、その決勝戦の頃からパリでは暴動が起こっていた。

 クルド人コミュニティを標的とした銃撃事件で3人死亡3人が負傷。それに対する抗議行動が暴動にエスカレートしたものだが、これは夢ではなく現実のパリだ。人種差別か宗教対立かは知らないけれど、そういったことは1970年代よりも今の方が世界中で不穏になっている様に思う。

 1972年頃は人種差別や宗教対立よりも、政治に対する抗議行動で、日本でも学生運動が盛んになり校内にバリケードなどが築かれ休講の日が続いた。その頃のパリも同様で、アリアンスの帰りに、ある美術館に行くのに近道をと思って出た所が機動隊と投石用の石を持った学生たちがにらみ合いをしているちょうど真ん中に出てしまったことがある。慌てて後ずさりしたが、あれもパリであった。

 春になり旅を再開した。ロワールの古城めぐりをし、モンサンミッシェルへも行きフランスを順調に南下する筈であった。モンサンミッシェルを堪能した後田舎道で自炊をした。何かの食材にあたったのかMUZが体調を崩した。田舎町の医者は往診中で留守であった。医者の娘が「アンジェまで行けば大学病院があります」と教えてくれた。必死でクルマを走らせ、アンジェの大学病院に緊急入院した。体調は直ぐに回復したものの、検査で1週間の入院を余儀なくされた。

 アンジェにもオートキャンプ場がある筈だと、看護婦さんに尋ねると「病院の庭に泊ればいいんじゃない。」と言われたのでそのまま病院の庭でクルマの中で寝た。看護婦さんはMUZの入院食を2人前持って来てくれたりもした。入院食と言へど立派なフランス料理であった。その時のカリフラワー入りのクリームシチューの味は今でも忘れられない美味しさだった。

 毎日大勢のインターン生を引き連れて教授の回診があった。その内の1人のインターン医学生とも仲良くなった。楽しい思い出だ。

 その後は、スペインの国境を越えフランコ独裁政権下のスペインを旅した。同じ独裁政権下でスペインよりも更に厳しいと言われていたポルトガルには入国せず、ジブラルタル海峡をフェリーに揺られモロッコまでもクルマで旅した。そして再びストックホルムに舞い戻ったのだ。そんな思い出は1972年の話である。

 更に月日は流れ、1990年からはポルトガルに住んで絵を描いている。そして毎年パリのサロン・ドートンヌとル・サロンに出品して来た。幸いなことに落選をした経験はない。100号の出品作を携えて飛行機でパリに行く。作品を預け、展覧会が始まるまでの1週間を何処かここかフランスの地方を旅し、パリに戻って来てヴェルニサージュ(オープニング)に展覧会場に行き自分の出品作を確認してからポルトガルに戻ると言うサイクルで1991年から2010年までの20年を毎年やってきた。

 地方と言ってもフランス全国でノルマンディであったり、ブルターニュであったり、ロレーヌであったり、ブルゴーニュであったり、イル・ド・フランスであったり、プロヴァンスやコート・ダ・ジュールまでにもたびたび足を延ばした。主に画家たちの足跡を辿る旅とした。それはそれぞれの旅日記として書いたが充実した旅でもあった。(下段にもくじ)

 地方に行けばパリは少しだがやはりパリが拠点となり前後最低2泊はパリのホテルに泊まり、その都度パリの美術館にも必ず行く。ホテルもノードやリオン駅周辺であったり、サン・ミッシェルであったりと様々であったが、数えきれない程パリのホテルには泊まった。

 地方には行かないでパリだけの時もあった。そしてパリはよく歩いた。メトロにも市バスにもRERにも乗ったが、よく歩いた。その頃もパリで道に迷ったと言う記憶はない。

 コロナ禍以来、暫くは帰国をしていないのだが、それまでは毎年日本に帰国し、個展やグループ展に出品してきた。最近ではフランクフルト経由やロンドン経由が多いのだが、以前は必ずパリ経由にし、パリのサロンに出品した作品を預かって頂いていたのだがそれを受け取って帰国するようにしていた。その時にもパリは歩いた。

 夢は何故パリでなければならないのかが判らない。

 ローマでもなく、アテネでもなく、ロンドンでもなく、ストックホルムでもなく、アムステルダムでもなく、ブエノスアイレスでもなく、ニューヨークでもなく、大阪でもない。

 夢の中のパリにはエッフェル塔も凱旋門もオペラ座もサクレクールもグランパレもルーブル宮も出てこないし、セーヌの流れもない。現実のパリではないパリなのだ。夢の中だけで作られたパリ。でも他の都市ではなくはっきりとパリなのだ。それが厄介で疲れる。そして重くのしかかり楽しくはない。

 自分だけなら道に迷おうが何をしようが一向に構わないのだが、案内をしようとしている誰だかわからない人が居られるのでよけい焦り疲れる。

 現実のパリは楽しい筈であった。嫌な思い出などこれっぽっちもない。やはり僕にとっては花の都だ。

 このところサロン・ドートンヌにもル・サロンにも出品していない。長らくパリには行っていない。もう行くことはないのかも知れないが、だからと言って今パリに行きたいと言う願望もそれ程はない。

 僕は大阪で生まれ育ち、大阪以外では東京、ストックホルム、ニューヨーク、宮崎などに住んだ。そして1990年からはセトゥーバルに住んでいる。

 1972年には3か月をパリで過ごしたがオートキャンプ場暮らしだったので、住んだとは言えない。だからと言って今更住んでみたいと言う願望もない。

 2022年最後の夢。『パリで道に迷っている夢』はどう解釈すれば良いのだろうか。

 2023年の初夢は明るい楽しい夢でありますように。宮崎の夢でも良いなと思う。はて、宮崎ならどんな夢になるのだろうか…。

 そして2023年が皆様にとって、私たちにとっても良い年になりますように。

2023年1月1日。武本比登志

 

『ポルトガル発フランスの旅日記もくじ』

オーヴェール・シュル・オワーズ [1992年]

佐伯祐三の足跡を訪ねて [1994年]

ゴッホの足跡をたずねて [1998年]

ゴッホが観た絵 [2000年]

ニース周辺美術館巡り [2002年]

ポンタヴァン旅日記 [2003年]

ナンシー、アールヌーボー紀行 [2004年]

オーヴェル7月最後の20日間 [2004年]

ミレーの生れ故郷・グリュシー村を訪ねて [2005年]

イル・ド・フランス旅日記 [2006年]

ルオー讃歌 -パリ・ランス旅日記- [2008年]

アングルとフォーヴィズム -モントーバン旅日記- [2009年]

ヴァイデンを観るために-パリ、ボーヌ、ディジョン旅日記- [2010年]

 

 

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203. ガスの定期検査 Inspeção periódica de gás

2022-12-01 | 独言(ひとりごと)

 『11月21日午前9時からガスの点検を行います。』というメールが11月16日に来た。

武本比登志油彩作品F30

 その1か月前の『10月21日19時からマンションの管理組合会合を行います。』というお知らせメールがあり出席した。そのメールと同様の内容が玄関ホールにも張り出されていた。てっきり8軒の全てが出席するものだろうと思って19時ちょうどに玄関ホールに降りて行った。

 1年ほど前から管理組合を任されているガブリエラさんだけが居られ議題となる書類の点検をしておられた。そして挨拶をした。ガブリエラさんはマリアさん宅とマダレナさん宅のベルを押して、出席を促した。マリアさんなどは部屋着のままで顔を覗かせ「ああ、忘れていたわ」などと呑気なことを言いながら出てきた。マダレナさんもすぐに降りてこられた。そしてガブリエラさんは「きょうは3軒だけですよ」と言い、「議題はガスのことでこのマンションでガスを使っているのは3軒だけで他は電気に換えているので関係ありません。」「ガスの定期点検が実施されます。日時はおってお知らせします。」と言う内容であったが、詳しい説明があって30分ほどで終わった。

 そして11月16日の『11月21日午前9時からガスの点検を行います。』というメールである。確か10年ほど前にも一度ガスの定期点検というのがあって、その時はパイプの一部を交換してもらった記憶がある。だから10年に一度くらいの割合でそういった検査があるのだろう。と言う具合に思っていた。

 ポルトガルでは時々『ガス爆発事故』のニュースがある。ニュース映像ではマンションの窓枠が吹き飛びその恐ろしさが想像できる。

 セトゥーバルでもあった。アレンテージョに向かうセトゥーバルの出口辺りの10階建て程の新しいマンションの上階で国道からクルマを走らせながらでもその凄まじさが見られた。

 だから定期的に専門家の検査は有り難いものだ。でもガス器具の周りと湯沸かし器の周りなどくらいは綺麗に掃除をしておかなくてはなどと思っていた。 

 定期検査がある21日月曜日前日の日曜日になってようやく重い腰を上げ掃除に取り掛かった。普段はあまり掃除をしないものだから、と言うよりいい加減な掃除しかしないものだからやり始めるとなかなか大変である。一部が綺麗になるとそれまでは気にならなかったところが目立ってくる。きりがないほど次から次である。そして換気扇の汚れが目立ってしまった。

 換気扇はステンレス製だからすぐに綺麗にはなるがフィルターを取り替えなければならない。納戸を探したが買い置きは切れ端しかない。 

 掃除もひと段落だし気分転換に買い物に出ることにした。でも日曜日である。『アレグレ』などの駐車場はなかなか空いていないかも知れない。『アトランティックシティ』には2軒の家電量販店があるのでそちらに行くことにした。

 その前に『オウシャン』のガソリンスタンドでガソリンを満タンにしておいても良いかなと思った。

 出かけようとしたところクルマの右前タイヤの空気がかなり減っている。これは『オウシャンGS』までもたないかも知れないと思うほどにまで減っていた。直ぐ近くの『レプソールGS』に寄ろうとしたが日曜日で空気入れは使えなくなっていた。仕方がないので『オウシャンGS』まで恐る恐る走った。

 あまり日曜日に出かけることはないのだが何処も人が多い。『オウシャンGS』ではニュースの通りガソリン価格は少し下がっていた。 

 下がっていたと言ってもこのところの高値である。ガソリンが値上がりしてからは何処へも行かれない。近くの買い物にだけクルマを使う。それでも1か月に1度位は満タンにしなければならない。 

 ユーターンして『アトランティックシティ』の駐車場にクルマを停め、家電量販店に行った。どこもクリスマス商戦でイルミネーションなども華々しく賑わっていて、子供連れも多い。

 換気扇売り場にフィルターはなかった。店員に聞いてみても判らなかった。2軒の量販店とも同様で換気扇本体は売られているのだがその交換フィルターまでは置いていない。今時の換気扇はフィルター方式ではないのかもしれない。掃除機もフィルター方式はなくなってどんどん新しい器具が出てきている。 

 仕方なくショッピングモール『アレグレ』に行った。家電売り場で順番札をとり、聞いてみるとそこにはちゃんと売られていた。5,69ユーロである。普段『アレグレ』に行くといつもの『コンチネンテ』や『リドゥル』とは違う物が売られているのでいろいろと見てみるのだが、あまりに人が多かったので家電売り場だけで早々に引き揚げることにした。

 オミクロンもまだまだ予断は許さないし。 

 帰宅して早速換気扇のフィルターを取り替えた。 これでまあまあ、ガス検査の人が来られても大丈夫だろうと思った。

 このマンションでガスを使っているのは3軒だけと言うのには驚いた。他は早々に電磁調理器に切り替えたのだろうか。

 我が家ではカレーの仕込みにガスを使う。米を炊くのにもガスだ。毎晩風呂にも入るがそれもガスだ。コーヒーを点てるのもガスだし、揚げ物なども良くするがやはりガスだ。

 ポルトガルのガスは数年前からはロシアからの天然ガスに切り替えた。と言っていたからこのウクライナ戦争でロシアからは止まっているのだろう。

 先日ヨーロッパ議会はロシアをテロ国家と認定した。

 今カタールではワールドカップサッカーが行われている。カタールでも天然ガスは豊富に採れるそうであるが、ポルトガルまで来るのだろうか?

 そのカタールで人道問題が明るみになっている。サッカー場建設とその周辺整備に40度を超える暑さと過酷な労働で6500人もの人命が失われ、賃金未払も後を絶たないと言う。

 それでも予定通り11月21日にワールドカップサッカーは開幕した。我々も主な試合は欠かさずに観戦している。勿論、選手たちには関係のない話だが、FIFAにしろ、オリンピック委員会にしろ、運営側の経済優先には問題が多い。

 ポルトガルは大航海時代或いはそれ以前のモーロの時代更にローマ時代から風力や波力利用の伝統があり、現代も風力や太陽光、波力の資源化を推し進めている。

 その電力同様、ガスも化石燃料にばかり頼るのではなく、大量に消費する豚や鶏から出る糞尿を利用しメタンガスなどの実用化が進めば良いのにと思う。

 化石燃料は地球温暖化ばかりでなく経済的にも問題が多い。

 そしてサッカーワールドカップカタール大会開幕と同じ21日月曜日のガス検査当日。

 朝食も済ませ、ガス周りのフライパン類や包丁フォルダなどもテーブルに移動させ、万全の状態で9時を待った。

 前日に見た玄関ホールの張り紙には『検査は9:00から13:00』と書いてあった。随分と幅があるが、我が家が一番上階だから多分最初に検査だろう。と思っていた。

 9時に窓から見るとガス会社『ガスカン』のワゴン車が停まっていた。これは直ぐに来るに違いない。と待ち構えていた。階下では話声などが聞こえる。階下のマリアさん宅から始めたのだろうか?それなら最後になるだろうが、3軒だけなのでそれ程時間はかからないだろう、とガスで点てたコーヒーなどを飲みながら待っていた。

 それでもあまりにも遅いので窓の外を見てみると『ガスカン』のクルマは既になかった。我が家の検査はしないで帰ってしまったのだ。或いは何か忘れ物でもして一旦会社に帰ったのだろうか?それなら13:00までには再び来るのだろう。などと考えていた。

 果たして13:00まで待っても我が家に検査は来なかった。次の日にでも来るのなら再びメールか電話でもしてから来るのだろうと思っていたが次の日もその次の日も来る様子はなかった。

 我が家では1年ほど前にガス湯沸かし器を新しいのに買い替えた。その時に検査は行われていて、それで良いと思って今回の検査は無かったのだろうか。などとも考えた。でもそれならそうとー言いってくれれば良かったのに。などとも考えていた。

 その顛末を今月のエッセイにしようと書き始めて、メールを精査してみると、何と今回の検査は「個別検査ではなく全体の検査で9:00から13:00の間にガスの供給が止まることがありますのでご了承ください。」というメールで各戸には立ち寄らないということになっていた。

 何かがないと掃除もろくにしないのにも困ったものだが、早とちりのお陰で台所が少しは綺麗になったかな? VIT

 

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202. 二つの赤いランプ duas lâmpadas vermelhas

2022-11-01 | 独言(ひとりごと)

 夜中に目が覚めた。と言っても珍しいことではない。毎晩だ。それも何回も。

 その夜もぐっすり眠ったつもりで手探りにスマホの時計を見ると未だ0時45分。

武本比登志油彩作品F30

 風呂から上がったのが9時45分。それから2本目の映画をベッドに入って観る。終わるのがだいたい23時頃。映画を観ながら半ば眠ってしまったりもする。時々目が覚め途中見逃したことに気が付く。

 映画が終わればパソコンをシャットダウンする。そして電源を切る。テレビも電話も連動しているからそれ以後は繋がらない。朝までぐっすりだ。

 ところがそうはならない。何度も目が覚める。目が覚めると取敢えずおトイレに行く。

 おトイレから直接ベッドに戻るのではなく、アトリエを一周し、暗がりの中で描きかけの油彩を眺めてみる。そして台所なども徘徊する。

 冷蔵庫の扉が開いていないか?ガス湯沸かし器の元火がちゃんと消えているか?などを点検する。尤も1年ほど前にガス湯沸かし器は最新式に買い替えて、元火は自動着火方式になったので、それからはガス湯沸かし器の点検はいらない。

 冷蔵庫の扉がほんの少し開いていて光が漏れている場合は真っ暗な台所なのですぐに判る。光が漏れない程度に開いている時もある。だから冷蔵庫の扉を押してみて確認をする。

 台所が真っ暗と言ってもカーテンは閉めないでいるので、外の明りが台所に入り込む。月の光であったり。街灯であったり。お城のライティングであったり。台所より外の方が明るい。

 0時45分に目が覚めたその夜は冷蔵庫を通り越してその先に真っ赤な明りが目に飛び込んできた。洗濯機だ。洗濯機は台所の窓寄り。台所の窓下に洗濯ロープがあるので、洗濯機の定位置なのだろう。我々が住み始める以前からこの場所にあった。洗濯機は2台目だがよく働く。元からあった洗濯機は2度ほど故障して、それから買い替えた。買い替えたのは2005年。

 パリに住む日本人商社マンの知人が「ヨーロッパの家電(家庭用電気器具)は1年しか保ちませんよ。」と言っていた。それは少々極端だが、確かに日本製に比べて寿命は短いのかもしれない。でも我が家ではそんなことはない。

 洗濯機は買い替えてもう17年も使っていることになる。イタリア製の全自動ドラム式洗濯機だ。全自動と言うだけあって見ていると実に面白い。色んな動きをする。速度を変えて回したり、逆に回ったりは当たり前だが、叩き付けたり、ほぐしたり。そして全自動と言うだけあって、いや、全自動の割には操作が簡単ではない。タイマーもある。温度調節もある。そしてウール洗いなどの素材別洗いなどもある。それに念入り洗い、と手抜き洗い。いや違うな。簡単洗い。我が家はいつも簡単洗いだ。勿論、タイマーなどは使ったことはないし、ウール洗いも使わないし、温度も入れない。水道水のまま常温だ。だからたくさんあるダイヤルやスウィッチなどはいつも同じ。

 洗剤を所定の場所に入れスウィッチを押すだけ。と言っても僕は触ったことがない。どうすれば始動するのかが判らない。MUZの専門得意分野だ。

 絵を描いている合間に、時々は洗濯機が働いているのを眺めていたりする。絵のインスピレーションが沸いたりもするのだ。いや、それは口実でさぼりたいだけだ。

 終われば扉を開けることは僕にも出来る。でもこれも難しい。終わったからと言ってすぐには開けられない。ラーメンではないが、2分程待つのだ。2分ほど経てばコトという小さい音がして小さな赤いランプが点滅に変わる。そうすれば扉は開けられる。そして点滅ランプを押して消す。

 洗濯ロープは手前と向こう側に2本ある。手前はMUZでも干せるが、向こう側は遠くてMUZにはなかなか大変そうだ。だから僕が干す。ポルトガルの洗濯ロープは実に便利に出来ている。日本では何故こういったものが普及しないのか不思議だ。

 その夜中だ。小さいスウィッチのランプではなく。大きなランプが2つ点いていた。真っ暗な中に大きな真っ赤な2つのランプ。これは非常事態かと思った。下手に触れば取り返しがつかない事態にもなりかねない。

 僕は海外に出る前のほんの少しの間、ガソリンスタンドでアルバイトをしていたことがある。そのガソリンスタンドで洗濯機が黒焦げになっていたことがある。店長以下従業員全員が青くなった。

 その前は僕は大学に通いながら音楽プロダクションでアートディレクターをしていた。月刊誌の編集レイアウトが主な仕事だったが、コンサートポスターやチラシのデザインをしたり、レコードジャケットを作ったりもしていた。

 いよいよ海外に出る日程が決まってからプロダクションを止め、昼はガソリンスタンドでアルバイトをし、夜は喫茶店のバーテンダーをして渡航費用を稼いだ。

 海外に出てヨーロッパから中東を経由しインドまでクルマに寝泊まりしながらの冒険旅行を考えていた。

 だからクルマの故障にある程度は強くならなければと最初はJAFの助手として働きたいと申し込みをしたが、JAFでは助手は要らない。と断られた。それでガソリンスタンドと言うことになった。ガソリンスタンドでも故障車がやってくるに違いないと思ったが、僕が居た半年ほどの間に故障車は1件もなかった。ガソリンスタンドではプラグを交換したり、オイルチェンジをしたり、パンク修理は毎日いくつかがあって、僕は率先して皆が嫌がるパンク修理をしたがそれも役にはたたなかった。

 ストックホルムで買ったフォルクスワーゲンマイクロバスはおんぼろすぎて、結局、インドには行かずじまい、東欧とモロッコ、トルコを含めたヨーロッパを5万キロ走破したが故障らしい故障もなかった。

 ある朝、ガソリンスタンドに出勤すると洗濯機がまる焦げになっていた。洗濯機はお客様のクルマを拭いたりする雑巾を纏めて洗うためのもので、洗車機とコンクリート塀の隙間に置いてあったが、洗濯機だけが黒焦げになっていた。ガソリンタンクに引火していたら大惨事だ。古い洗濯機でショートでもしたのか、或いは放火か。それは判らない。謎のままだ。店長は穏便に済ませようと本社にも消防にも、警察にも知らせることはしなかった。1971年の話だ。

 MUZが寝る前に洗濯をしておこうと途中までやりかけて忘れてしまったのかもしれない。と僕は一瞬思った。何しろ真っ赤なランプが無言で2つ点灯して、洗濯機の口は少し開いたままだ。でも今までMUZが寝る前に洗濯などしたことは1度もない。

 ぐっすり寝息をたてていたがMUZを起こすしかない。

 お隣のウクライナ人のご家族はよく夜に洗濯物を干している。でもそれは乾季の夏だ。夜の内に干して水分を切り、朝日に充ててからっとさせる。色褪せはしないし合理的だ。でもいつ降りだすとも知れない今の雨季にはありえない。

 MUZは寝入りばなを起こされたのだろう。時間が掛かってようやく台所にやってきた。

 寝る前に洗濯機は触っていないそうだ。それにその場所のランプは点灯したことがない箇所だ。いつも手抜き洗いなので一番下の1個だけ点く。そして2個の赤いランプの消し方が判らない。

 夜中に取扱説明書を読む余裕はない。第一取扱説明書が何処にあるのかを探すのに朝までかかりそうだ。

 寝ぼけている割にはMUZはいいアイデアを絞り出した。コンセントを抜くのだ。

 裏側にあるコンセントを抜いたらようやく赤いランプは消えた。

 再びコンセントを差し込んだが赤いランプは点かなかった。

 次の朝、あまり洗濯物は溜まっていなかったが洗濯をしてみた。

 通常通りの正常運転だ。

 それから何度かの洗濯も正常通りでイタリア製の洗濯機は何も言わない。

 あの夜中の赤いランプは謎のままだ。

 イタリアからポルトガルの辺境の地セトゥーバル迄はるばるやって来て、訳の分からない日本人夫婦の家庭に入り込み、せっせと働き続けて17年。何か言いたいことでもありそうだ。

VIT

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201. シシトウ Pimentos Padrão Picantes

2022-10-01 | 独言(ひとりごと)

 いつの間にかショッピングカートにシシトウが入っている。僕がニンジンを選んでいる間にMUZが入れている。MUZはシシトウが目に付けば必ず買う様だ。好きなのか調理が楽だからか?それは判らない。

武本比登志の油彩作品F30

 シシトウと言えば父を思い出す。時々、父とMUZの食べ物の好みが共通しているのを感じることがある。血は繋がってはいないのにも拘わらず。

 僕はほんの小さな子供の頃、よく母に連れられ商店街に買い物に行った。北田辺商店街は今の100倍も賑わっていた。昭和30年頃の話だ。

 先ず駅の手前に『光商店街』と言うのがあった。狭い露地を挟んで20軒ほどの小さなお店が並んでいた。今では駅前マンションに変わっていて光商店街の跡形もない。

 その光商店街の駅通り側の角に豆腐屋があっていつもそこで豆腐を買っていたが、母との買い物の時には買わない。一旦家に帰って、夕方になり父が勤めから帰ってくる前頃に僕が子供自転車を走らせ1丁のキヌコシ豆腐を買うのだ。「おばちゃん、キヌコシ1丁ちょうだい」と言うと、おばちゃんは「はいはい、おおきにありがとね~」などと言いながら薄板の舟に入れてくれる。そして薄揚げを1枚新聞紙に包んでおまけしてくれるのだ。そのおばちゃんは子供好きらしく子供がお使いに来ると薄揚げ1枚のおまけがつく。母はそれを見越して僕にお使いにやらせるのだ。

 父の好みはキヌコシであった。僕は今ではどっしりの田舎豆腐が好みだが、MUZはどちらかと言うとキヌコシ派で、父に似ている。

 光商店街から駅の踏切を渡り、裏通りに入ると北田辺商店街が線路と並行して南北に長く連なっている。今では近鉄は高架になっているが、当時は地上を走っていた。だから踏切を渡る。

 踏切を渡って、南北の道に入らないでもう少し西に行くと公設市場があった。今ではパチンコ屋になっている。いや、僕が高校生の頃には既にパチンコ屋になっていた。

 南北に走る商店街の終わりにも公設市場があって、その公設市場と公設市場の間に個人商店がひしめきあって賑わっていた。200メートル程もあるだろうか。何軒もの八百屋もあれば肉屋、鶏屋、魚屋、乾物屋、味噌屋、荒物屋、惣菜屋、それに回転焼き、たこ焼き、焼き芋屋など何でもが揃っていた。

 南側の公設市場は今では『味道館』と言う名のスーパーになっているが、公設市場の面影を少し残している。南側の公設市場から細い道を渡ったところにも『新道商店街』というのがあったが、そこまで行くことはなかった。その先に中学で同級生になった八木隆雄という番長の自宅があったがその頃はまだ知らなかった。

 八木隆雄のことを少し書こうと思う。喧嘩はめっぽう強かったが、頑丈な体格に運動神経が抜群で運動会ではがぜん張り切り、なにをやらせても1番であった。明るい朗らかな性格でクラスメイトを大切に思い、弱い者いじめは決してしなかった。そして誰からも好かれていた。野球選手にでもなれば清原か江夏くらいになれたかもしれない。と残念に思う。でも八木隆雄は薬物に手を出すような奴でもなかった。

 中学3年の運動会前夜、八木隆雄から誘われた。新道商店街の裏手にあった郵便局の庭に忍び込むのだ。高い塀を乗り越えると大きな柿の木があった。柿が沢山実っていてそれを袋一杯取る。立派な泥棒だ。でも柿は渋柿だ。八木隆雄はそれを知っていて泥棒したのだ。その渋柿を運動会当日、クラスメイトなどに投げてやる。口に含んで渋い顔をするのを見て楽しむと言った子供っぽいところがあった。僕などは何が面白いのだと思ったが、夜に郵便局に忍び込むスリルも楽しかったのだろう。その後の消息は知らない。

 新道商店街に行くその道は今では広い道に付け替えられ、大阪国際女子マラソンのコースにもなっていて、ゴールの長居競技場まであと少し、選手たちにとってはへとへとの頃で、勝負を賭けて1歩飛び出すか、付いて行かれずに置いて行かれるかと言った瀬戸際のところだ。NHK国際放送を観ていた頃にはポルトガルでも何度か観られて懐かしく思っていた。

 その南北に伸びた商店街の中程に比較的大きな八百屋がある。今でもある。買い物客は当時の100分の1になってしまったが、いまでもある。

 そして子供当時の思い出である。

 シシトウが籠に盛られていた。母は「おっちゃん、そのシシトウ辛い?」などと聞く。八百屋の親父さんは「辛ないで~。甘いで~。」と返事をする。「ほな、あかんわ、うちは辛ないとあかんねん。」「え~。それ早よ言いいな~。お姉ちゃんの為に辛いのん、取ったあるで~。」と言いながら台の下から別の籠を取り出し「これ、辛いのんや~」と言う。母は「同んなじに見えるけどな。」と言うと、親父さんはすかさず「お姉ちゃん、外見では判れへんやろ、わしと神さんしか知らんこっちゃ」

 「おっちゃん、さっきからお姉ちゃん、お姉ちゃんて、私、子供連れてるやろ~。お姉ちゃんとちゃうで~。」「ほんまかいな、てっきり弟さんやと思とったわ~。」「賢そうな顔して勉強できるやろ。ぼく。クラスで1番か~。いや、学年で1番やろ。」「あほなこと言わんとって。全然勉強せえへんねん、この子。べったや。」「おかあちゃん、僕べったとちゃうで~。まだ下におるで~。」「べったとおんなじや、いっそのこときれいさっぱりべったの方がかっこええのや。」

 「お兄ちゃんと妹はそこそこ出来るねんけどな。この子はさっぱりや。」「まだ子供さん、居てはりますのんか。お使いには付いて来やはらへんな。」「お兄ちゃんは今頃、ザリガニ取りや。」「妹はバレーにダンスと習い事で忙ししてます。」「え~、将来はタカラジェンヌか?」「いや、なられへん、なられへん。そんなタイプと違うねん。」「この子の妹さんやからそこそこ行けるやろ。」

 「おっちゃん、僕と妹は血繋がってへんねん。僕は阿部野橋で拾われて来た子やねん。そやろ、お母ちゃん。えっ、えっ、えっ、えっ。」「何いうてるねん。こんなとこで泣かんでもええやろ。冗談やがな。汚いな~。鼻垂らして。早よ鼻拭き。そんな、袖で拭いたらあかんがな。おっちゃん、神妙な顔つきになっとるやんか。妹はな~。父親似や。」

 「なんや、冗談かいな。もうちょっとで、もらい泣きするとこや。キューリでも同じ株から真っ直ぐなんと、曲がったんが出来よるけど。曲がったら半額以下や。人間も同じやな。」「家は私と下の女の子以外男はみんな曲がっとるけどな。」「この子は勉強も出来へんし、宿題もせえへんし、泣き虫で、立たされてばっかりや」「学校出たらこの八百屋で丁稚で雇たってくれるか。立つのん慣れとるわ」「そらええな~。この子が店に立ったら、若い女の子わんさか寄ってくるで~。」

 「冗談もそこまで言うとエグイで~。ほな、その辛い方のシシトウとその隣の曲がったキューリひと盛り貰うわ。ぬかづけにするよって。まけとってや。」「まけときまんがな、ヌカヅケ、よろしおまんな~。苦が~いキューリでも苦み抜けまっさかい。」「いや、口が滑ってしもた。曲ってるけど苦ないで。甘いで~。いや、ちごたな。か、か、か、辛いで~。」VIT

適度の辛味と苦味もある不揃いなポルトガルのシシトウ

 

『シシトウ』(Pimentos Padrão Picantes)250g約55本厚紙パック入り=1,99€。

 

『シシトウ』(獅子唐辛子)学名:Capsicum annuum var. grossum。中南米原産。ナス科 Solanaceaeトウガラシ属 Capsicumに属するトウガラシの甘味種。また、その果実。シシトウ、また、甘とうと呼ばれることも多い。 植物学的にはピーマンと同種。ヨーロッパ人のアメリカ大陸発見後、南米からヨーロッパに入り、その後世界に広がった。ビタミンC、カロテン、カリウムなどを多く含む。また、エピネフリンの分泌を増やし脂肪の燃焼を高める働きがある。 (Wikipediaより)

 

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