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408 仲哀天皇と神功皇后(3) ★08仲哀天皇八年(己卯199)正月壬午《四》の項の昨日の続きである。 又筑紫伊覩縣主祖五十迹手。聞天皇之行。 また、筑紫の伊覩縣主(いとあがたぬし)の祖(おや)五十迹手(いそあとで?)天皇の行くを聞き、 拔取五百枝賢木。立于船之舳艫。上枝掛八尺瓊。中枝掛白銅鏡。下枝掛十握釼。參迎于穴門引嶋而獻之。 五百枝(いおえ)の賢木(さかき)を舳と艫に立て、上枝に八尺瓊(やさかに)を掛け、中枝に白銅鏡を掛け、下枝に十握釼を掛け、穴戸の引嶋に参り迎え献ぐ。 ちょっとびっくりだ。ほんの数行前と同じことが書いてあると思った。比較すると多少違いが有る。 下は、数行前の崗県主の熊鰐が出迎えたところだ。 拔取五百枝賢木。以立九尋船之舳。而上枝掛白銅鏡。中枝掛十握釼。下枝掛八尺瓊。參迎于周芳沙麼之浦而獻魚鹽地。 熊鰐は九尋の船と、大きさが書いてある。賢木(さかき)を立てているのはこちらは舳(へさき)だけだ。 三種の神器が掛かっているのは同じだが、上中下の位置が違う。 迎えに行った場所が違う。五十迹手(いそあとで?)は穴戸の引嶋(これは下関市彦島)、熊鰐は周芳佐波(防府市佐波)に出迎えたとある。 遠賀川河口から、防府市佐波というと、60~70km有りそうだ。 もっとも、伊都国(前原)から彦島も同じ位の距離はありそうだ。出迎えもご苦労なことである。 天皇から国を預かっているのだから、各県主は、おっとり刀で駆けつけるのは当然かもしれない。 それにしても、通信連絡網も十分発達していたと考えられる。 |
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今日の早いUPで・・
がんばっていっらっしゃいますね。
60~70kmをどのような伝達方法を 使ったのでしょう・・・。
文明の利器に囲まれている今では
想像もつきません。
何だか昔の人の方が賢かった気もします。
無くしている物もあるかもしれませんね。
早馬、駅馬、飛脚、矢文、鏡、銅鐸、、。
どんな手段を発達させていたのでしょう。
実は昨夜のうち、今朝の日付でアップしました。
昨夜アップすると、同じ日付のブログになるので避けました。
未来の日付をつけることも可能なのですね。
便利なような、ごまかしも起こるような、、、。
一直線です....
またまた 彦島....防府の佐波川 イャイャ 身近な
お話で ひたしみが 沸いていましたよ....
楽しませて 戴きました.
又 遊びに 来ます.
実は段々畑なども、江戸時代に作られたのもあるかもしれませんが、案外もっと古く、古代から作り始められたのではないかと思っています。
段々畑がどれくらい古いものがあるか検証する方法があるといいですが。
3時間で60km、そうですね、マラソンでも40kmを2時間で行くのですから、駅馬で馬を交換すれば、80kmでも半日で行きますね。
古代が身近に感じます。
この下関には古代の亡霊がうようよしていますね。
壇ノ浦の海底を浚えたら、三種の神器の天の叢雲の剣の刀身は錆びて無くなっていても、金で飾った鞘なりとも出てきませんかねえ。
また、長府の豊浦では、神功皇后が思いのままに珠を取ることが出来たといいますから、真珠じゃないでしょうか?
今でも少しくらいは取れないのですかね?
下関、いいとこですね。
「それにしても、通信連絡網も十分発達していたと考えられる」については確かにそのとおりだと思います。(しかし現在に比して時間は比べられませんが)
例えば我が家の前の道は古代山陽道ですが兵庫県から広島県東部までほぼ直線的な街道を作っており、この道は都と九州を繋ぐ軍用道路担っていたみたいです。
石棺のふたの一部だけが実家に残っています。
その2基の古墳の下にその道のがあります。
子供の時代は山遊びする基点になっていました。
今は旧墓もその道の少し山側に存在します。
一番新しい墓で文久時代です。自然石だけの墓もあります。
450年位い前我が家の先祖が大分から坊さんを招き現在のお寺を作ったと言い伝えられています。大内氏の時代です。
その後毛利が来て、地侍にされ足軽並み扱いで、奇兵隊には百姓扱いで小倉の戦いに参加させられました。
先祖を「ど百姓」とさげすんだ高杉晋作は我が家では単なる思い上がりのアンちゃんです。
軍用道路というと、道路幅はどれ位あったのでしょう。
古代の道路を辿ると古代の国々が見えてくるかもしれません。
それに、万葉集などに見える地名は、天の天領が多いように思います。
円墳は、前方後円墳より古いと思われます。
棺の蓋には、彫が浅くてほとんど読めないけれども、何か書いてあるということはありませんでしょうか?
池田仁三氏は、農家の靴脱ぎ石になっていたり、庭石になっているものを電脳分析で何とかして文字を浮かび上がらせ碑石文を読み取っているようです。
埋葬者と埋葬年、年齢などが書かれている可能性があります。
BCの可能性もあると思います。