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486-1 日本人の特性 (2) 日本人特性には短所と思えるものも多々ある。 1.自意識過剰 優秀な民族という自負が強い。戦前は、日清戦争、日露戦争に勝って、有色人種では唯一名誉白人の地位を得ていた。 戦前、アメリカ、イギリス、フランス、オランダから、経済封鎖されたとき、大東亜の盟主になると、意気込んでいた。 身の程を知らぬ浅薄なところが有る。 自分の良さは、小さいものでも大きく見え、自分の欠点は大きいものでも小さく、あるいは欠点に見えないというといううぬぼれの強さがある。 2.真似る 戦前は猿真似をすると軽蔑された。なんでも欧米化が良いと、本当の意味も分からず、上辺だけ、形だけを真似する。 ブランドを盗み、コピー商品を作るのがうまい。香港、韓国、中国の偽ブランドの先駆者は日本だった。 3.テンプラ工事がうまい 名人かたぎがある一方で、テンプラ工事が多い。 テンプラというのはTEMPORARY(間に合わせの)から来ている。 手抜き工事などである。 日本家屋の木造建築は、耐震性が優れているというが、何百年も、何千年ももつ石の建築に比べると、消耗度が激しい。 ヨーロッパの建築は石造りが多く、財産が目減りしない。 木造建築の場合。50年もすれば、ほとんど壊さなければならなくなる。 4.迷信深い お札。星占い。風水。縁起担ぎ。 短所はまだまだあると思われるが追々追加していくこととする。 真似 学(まなぶ)はまねぶから来ていると言われる。学ぶのは真似をするところから始まるのが日本の勉強だ。 習字などは、先生が書いたお手本を一所懸命に真似て学んだ。 最初は、そして基本は真似て覚えるのは、当然だ。 赤ちゃんが立つにしろ、歩くにしろ、見て真似てやがて立って歩くのだろう。 言葉もそうだ、真似て覚える。 「隣の百姓」 「隣の百姓」という言葉がある。隣が、田を耕せば、こちらも耕す、隣が田に水を張れば、こちらも水を張る、種を播けば、種を播き、刈り取れば刈り取る。 隣のするとおりにするのが隣の百姓だ。 その意味合いは、いくつかあるようだ。 (1)隣のするとおりにしておけば、間違いない。 (2)隣と違うことをしていると、村の秩序を乱すと仲間はずれにされる。 日本の本格的農業は、農奴制で始まったのではないかと思う。 徐福集団が、日本に来た時、原住民を使って小作農業を始めた。 好奇心をもって集まって来たであろう、2、3男坊たちに鉄の道具を貸して畑を開墾させ、収穫の1/2を与えるということで、本格的な水田をつくり、水路を切り、潅水設備を整えた。 それは、まだ意味は分からないが、指示された通りの作業をするということであった。 開墾の道具、収穫の道具、脱穀のし方など、それまでの技術より進んだもので、1/2の取り分といえども、自分だけで働いていては得られない収穫であったろう。 第一、原野を開拓し、大規模な水田の開発など思い及ばぬことであった。 彼らの種子、彼らの道具、彼らの育成、収穫に関する情報。 彼らの道具で開墾したところは、収穫の半分は彼等のもの。 彼らの道具を使わなければ、2倍の労力をつぎ込んでも同じ広さの開墾をすることなど到底出来なかった。 常に徐福集団の、指示を受けての集団での共同作業が最も能率か上がった。 分け前に与るためには、この共同作業に参加する以外になかった。 村は、農奴集団として労働集約型の農業を発達させて行ったと思われる。 |
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光市で「神籠石」サミットがあると有りました。
福岡県と佐賀県に8箇所ある山城と思われるものです。
白村江の戦いで唐新羅に負けた倭百済が7世紀ころ防御の為に築いたといわれています。
遣隋使の答礼の隋高官使が熊毛郡に来たとき「秦王国」のような高い文化を持つところだと答えたとのことです。
いよいよ,このシリーズの確かさを証明する事象が出てきましたね。
>神籠石、白村江の戦いで唐新羅に負けた倭百済が7世紀ころ防御の為に築いたといわれています。
それは一説ですが、guuchanは懐疑的です。
白村江の戦なら、古事記や日本書紀の編纂中の出来事ですから、これだけの大事業が記紀に出てこないはずは無いと思ます。
神籠石は、もっと古く、徐福集団渡来の時代から卑弥呼の時代、神武東征前後位ではなかろうかと考えています。
その存在場所が、有明海から中北部九州を経て、豊後水道に抜ける位地に多く、また瀬戸内に多く存在するようです。
これらは、卑弥呼の女王国の領土の統括に重要な位置であり、古事記のイザナギなイザナミの国生みの地名に重なるところが多いとおもいます。
白村江前後の防衛線としては、合理的でない様に思います。
徐福が主従関係を作ったことになりませんか・・?。
言われるまま大人しくしていれば 食べ物に預かることを学んだのでは・・・・。
昔から寄らば大樹の影とか
長いもの物には巻かれろと言われて来ました。
それは争いを避けるための知恵だった気もします。
田舎暮らしは出る杭は打たれます。
それは今でも健在です。
目立たず・反発せず・ニコニコと曖昧な言葉で
同化して行っているかのこです。
ウイッキーさんは日本人の曖昧さが
最初はとっても気になったそうですが
今ではその良さも解るということです。
曖昧さにもその同じ知恵があるのかもしれませんね。
半島から進入するとすると、博多、または北浦からでしょう。山越えの山陰上陸は大部隊の移動に不利で瀬戸内海に早くいかに侵入するかが手順でしょう。
元寇でそれが証明されています。
海岸沿いは土塁を、平野では水攻めの堤を(大宰府近く)最後の抵抗線は見晴らしのよい山です。
下関市の鬼が城にも石積みの跡があり、「鬼がいるから」と、地元の人にも登山させなかったと聞きます。
元寇では北浦にも侵入されました。平野では柵や仕掛けを、最後は山城「長門の城(き)」で守る体制だったようです。
吉母の岬には代々西の見張りであった三井(みい)家が今も住んでいます。
三井さんはその前は冨任の冨任神社の前に役人として勤務しており「三だ屋敷」というのがあって海に面していたが、海が遠くなって現在の吉母の岬に移ったといわれています。
元寇にせいで移ったのかもしれませんが。
彦島の伝説には新羅のたびたびの進入があったとの話もあります。
白村江の戦が石に刻まれているのが正しいのかどうか
解釈はいくつもあるのでしょうが、半島から進入しやすい山陰側から瀬戸内に中心が移るのは防御の面から見てもただしいと思います。
多くの渡来人からの忠告も当然あったことでしょう。
魏、蜀、呉のような国を作って秦の始皇帝に捧げ、その治下に入ろうと思っていたと思います。
しかし、始皇帝は亡くなり、臣は滅びました。
その成り行きを見て、魏に朝貢し、その属国のような、友好国のような地位に居たと思います。
縄文現住民に比べると、徐福集団の船舶の保有数は大きさにおいても数においても圧倒的でした。
抵抗して、それらを集中させて攻撃されては、ただ追われるままに、逃げるしかなかったでしょう。 だから、抵抗せず様子を見たと思います。
徐福集団も民が居なければ国が成り立ちません。
悪く言えば住民の懐柔です。よく言えば、鎮撫です。
官民一体となって豊かな国を作って明るい未来の幻を見させたことでしょう。
日本人の曖昧さ、良さ、悪さ、指示待族は次回で取り上げるのでしたね。
書かれれば 気持ち良かったでしょう.
ご無理...ごもっともで--す...
参った...参った..で--す...
ソゥソゥ..上の方の ゆつきんさん....お見事です
お気楽より 下関のこと 詳しいです...
コレマタ 参った...参った..で--す.
吉母の岬 本州最西端の 先に 家が数軒有ります
全く 其の通りです....
又 遊びに 来ます.
大陸に向いている裏日本(今は日本海側と言わないといけないのですね)側が、日本の表舞台であったわけですね。
guuchanさんのブログ、いろいろな面で新鮮に感じます。
従わなけらば生きていけなかった時代、
人と違うことをするのは、たいへんな気骨が必要であっただろうし、
自分の感じることをまっすぐ口に出すこともできなかったのでしょうね。
自分の中にどれくらい日本人の短所があるのか、
ふと気になりました。
大宰府を守る大野城、基肄城、水城。それに長門に築いたといわれる長門城は、白村江の戦いに敗れて、中国、新羅の連合軍が侵入してくるのを防ぐために築かれたことは文献からもはっきりしています。
しかし、神籠石が同じ時代かどうかははっきりしていないではないでしょうか?
鬼ガ城という名の山はあちこちにあり、神籠石があるとも伝えられているので、一度下関の鬼ガ城にも登ってみたいと思っていました。
鬼ガ城にも石積みの跡があるのですね。
三井家が室津に移ったのは、元寇のとき、長門探題が富任に出来て三太屋敷を北条市に明渡したと言う説が有力のようですね。
時代が白村江とは違うようです。
唐、新羅の連合軍が責めてきたとしても、鬼ガ城は防備上どのような役割を果たさせるつもりだったのでしょう?
彦島に伝わる伝説というものを知りたいです。
どこかに記録があるのでしょうか?
短所と書きましたが必ずしも短所とは言えませんし、日本人のと書きましたが、必ずしも日本人だけのものでは無いと思います。
ゆっきんさん、良くご存知ですね。
家では家長、お城では上役、家老、殿様、殿様も江戸に出れば、老中や、将軍。
物申す時は、お恐れながら、、、。
二度、三度と食い下がろうなら、「くどい、それへ直れ!」と、何時お手うちになるか分かりません。窮屈この上なかったでしょう。
言論の自由、いいですね。大事にしたいですね。
るなさんの中に、日本人の短所がどれくらいあるか楽しみですね。
自分のことは棚に上げて論じると、気楽です。
これも短所ですけど。