もしも、徐福が日本に来ていたらの 目次は、ここをクリックしてください。 |
313-1 徐福の子孫が何故日本語を話したか? 徐福の子孫が朝貢したのは、中国の進んだ文化の取り入れや、貿易、人材交流などに良好な関係が必要だったからだけでなく、模範的植民地であろうとしたものと思う。 始皇帝の代から逃げ出してきたものの、祖国中国を愛しても居たのだ。 また、武力が必要になったときは、大国の後ろ盾があることは重大で、そのご威光で牽制するメリットも大きかったに違いない。 僅か数千人の指導者で、独立など夢にも思わなかったであろう。 当時の日本の人口はどれくらいだったのだろう。 弥生時代の初めの人口を40~50万人と推定してるものもある。 前漢(秦)の終わり中国は2,000万と推定している。 戦争をし、宮殿、大道、万里の長城、始皇帝陵、などを造った時代で中国全土で2000万は少なすぎるように思う。 第二次世界大戦の後で、中国4億6千万、日本8千万と言う記憶がある。 日本は中国の約6分の1である。 その比なら倭人は150万になる。 40~150万人の中に5,000~10,000人で移住して来た。 先住民を排除して住めば、自ら労働しなければならない。 先住民を追い出して、自分たちの国を作ろうという気はない。 むしろ、先住民を手なずけて、貴族社会と、貧乏人という構造で行こうとしたに違いない。 中国から独立する必要がないのだ。だから天子を自称して、中国から睨まれるようなことをする筈がないのである。 他のや、朝鮮半島から襲撃を受けた時、先住民が一緒になって戦ってくれないなら、彼等の国が危ういのである。 使役するのには、現地人の言葉で指図する方がきちんと行く。彼等の全数を教育して中国語を話させるなど不可能だ。それに取られる彼等のマンパワーも大変なものだ。 彼等自身が現地語である倭語を習得する方が早いだろう。 彼等は中国語を倭人に学ばせるのでなく、彼等が倭語を学んだ。 そうした中で、倭にかってなかった文化を表現できるように、倭語を発展させ改変して行った。 文字もそうである。倭語を表音文字で表せるようにしたのである。 かくて、中国語禁止令を布いて、全部倭語で話すことになる。 中国語を話していると、倭人に不信感を持たせることになる。 だから、天皇の詔や、神社の祝詞など、日常的なものでも漢字の音読みをできるだけしない。県などわざわざ「あがた」と呼ぶ。 倭語で歌を作る。7、5調も漢詩のリズムが下敷きになって、新しい形式が生まれ洗練されていったに違いない。 この歌は、倭語をどれくらいマスターしているかという証でもある。 いろいろ掛詞があって、裏の意味がある。 それは、相手に汲み取らせる楽しみもあるが、下男下女の倭人から本意を隠す意味も有ったかもしれないと思う。 そのとき、彼等が学んだ基本の倭語は西九州の倭語だった。 西九州では、今日でも日常的に、敬語として 居(お)らす(居られる)。行(い)かす(行かれる)。さす(される)。など奈良朝時代の言葉が残っている。 そのことを教えて呉れたのは、高校時代の漢文の教諭でチョコマンとあだ名された中川先生だ。 倭人は小なりと魏志倭人伝にあるが、真に先生は小であった。それ故この愛称がついたのだ。 「この先生が、君たちは奈良朝時代の敬語を使っている。」と言われたことがある。余談だが 自分は、綺麗な標準語を話すと言う先生だが、この先生がaのn剰を発音するとイーのイヌ剰になる。 東北方面の出身ではなかったか。懐かしい。 これは、奈良朝時代の言葉を話す平家の落人などが長崎県に逃れてきたのではなく、徐福集団が学んだ日本語が西日本の方言だったことを意味していることに気付いた。 これが倭語の標準語になったのだ。 |
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思い出した事が....確かに 江戸時代日本は鎖国政策を
と 教わって 長崎の一部に 出島があったと....
今になって あれは 間違っていた...日本は鎖国はしていなかったと....いゃイャ 不可思議の解明の世のなかに なり申した で ごあすのを!!!!!
いゃイャ 徐福から 偉い場違いな 事を書きまして
申し訳有りません.....
又 遊びに 来ます.
目次も出来て整理整頓がいいですね~。
天草の赤い場所確り見てきました。
以前住んでいたところに島原?天草?がふるさとの方たがいらしたのですが イントネーションが違い
かのこから見ると東北弁に似た感じがしビックリしました。
確かに今の標準語は新潟の言葉?から出来ている
??。危うい・・?。
国語元年?井上ひさしのTVドラマで方言では言葉が通じない為明治になって標準語を作った。・・とか。
それなら別の言葉があって可笑しくないですね。
どんどんguuchan説が現実化してきましたね。
いい加減のコメントですみません。(笑)
張り合いがあります。
文字ばかりになると、敬遠される方が増えるだろうと思っておりました。
ここまで解けたのならもっと謎が解けるだろう。そうすると、それがまた、今まで明かになったことを、更に確かなものにするだろうと期待しています。
矛盾も出てくるかもしれませんが、それはそれで、次の進歩の足がかりです。
目次は人のためならずですたい。
佐賀あたりの言葉が綺麗だとは思いません。
かって、友人が若かりし頃、通学列車の中で、女子高生が「わがあ(あいてのこと)」などと、言っているのを聞いて、げっそりしたと苦笑していました。
ひょっとしたら、それまで密かに思いを寄せていたのかも知れません。
しかし、やまと言葉を厳密に拾い出して集めたいと言う思いは昔から持って居ました。
そういう仕事は大切だと思っています。
花花迷惑かもしれませんが、言の葉の方が魅力を増してきました。