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381 倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレヒコノミコト) 倭伊波禮毘古命【自伊下五字以音】與其伊呂兄五瀬命【上伊呂二字以音】 二柱 坐高千穗宮而 議云 坐何地者 平聞看天下之政 猶思東行 即自日向發幸御筑紫 故到豐國宇沙之時 其土人名宇沙都比古 宇沙都比賣【此十字以音】二人 作足一騰宮而獻大御饗 自其地遷移而 於竺紫之岡田宮一年坐 亦從其國上幸而 於阿岐國之多祁理宮 七年坐【自多下三字以音】亦從其國遷上幸而 於吉備之高嶋宮八年坐 故從其國上幸之時 乘龜甲爲釣乍打羽擧來人 遇于速汲門 爾喚歸 問之汝者誰也 答曰僕者國 又問汝者知海道乎 答曰能知 又問從而仕奉乎 答曰仕奉 故爾指度槁機引入其御船 即賜名號槁根津日子【此者倭國造之祖】 カムヤマトイワレヒコノミコト)と兄のイツセノミコトの二人は高千穗の宮にあって、何地に居れば天下の政治について容易に聞いたり見たりすることが出来るか相談された。 そしてなお東に行こうと思われた。 日向を発って筑紫に行かれた。豊の国の宇佐に来た時、その地のウサツヒコとウサツヒメの二人は足一段上がる宮を作って大ご馳走をした。 その地より進んで、筑紫の岡田宮に一年居られた。 またその国より、安芸の国の多祁理宮(タギリノミヤ)に行き7年居られた。 またその国より、吉備之高嶋宮に行かれ八年居られた。 その国より行かれるとき、亀の甲羅に乗って釣りをしながらオールを漕いでくる人に速吸の門で遭った。 呼び寄せてあなたは誰かと問うた。 やつがれは国の神と答えた。また海の道を知るかと問えば良く知ると答えた。 仕えるかと問えば仕えるというので、棒を指し渡して、船に引き入れた。 名を槁根津日子という名を与えた。これは倭(やまと)の国造(くにのみやっこ)の祖先である。 伊呂兄五瀬命(イロセイツセノミコト)の伊呂とは何だろう。 スサノオノミコトは出雲に行った時「吾は天照大御神之伊呂勢者也」と言っています。 アマテラスオオミカミとスサノオの関係は肉親の兄弟姉妹関係にあるように思われます。 イツセノミコトとイワレヒコまた肉親の兄弟姉妹です。 他にも伊呂姉、伊呂妹などの語が見られます。 イツセノミコトが長子で、イワレヒコは四男です。その間の二人は先に亡くなられたようです。 イツセノミコトも後に東征でナガスネヒコという部族と戦った時に毒矢に当たって亡くなられたので、天皇に即位したのはイワレヒコです。 そこで、カムヤマトイワレヒコはその後につけられた名前だろうと思います。 若御毛沼(わかみけぬ)の命、またの名は豐御毛沼(とよみけぬ)の命が即位以前に呼ばれていた名ではないかと思う。 筑紫の岡田の宮は福岡県に二箇所あります。二つは互いに近いところにあります。 北九州市と遠賀郡芦屋町である。 岡田の宮 いずれも可能性としてあるようです。 遠賀川は食料、兵器調達などの水運の要所である。 北九州市の洞海湾は水軍の訓練をするのに適していたのではないかと思われる。 遠賀川と洞海湾は、水路でつながっている。 亀の甲に乗った人が現れているが、これは亀甲船ではないだろうか。 甲板のある舟である。甲板があると舟は非常に丈夫になる。 羽打ち挙げるとは、櫓(ろ)ではなく、櫂(かい)を使って漕いでいたのではないかと思う。 国の神と言うからには船も立派であったのであろう。 イワレヒコの船は、軍船であろうから大型の船であったと思われる。 日向を出てから16年経った。のんびりした話だが、初めは吉備にでも京都(みやこ)を置こうと思われたのかもしれない? |
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6服目はありませんでした。
それにしても舌を噛みそうな長い名前ですね~。
外来種のお花の名前も難しいのですが・・
神様の名前も・・・ですね。
宇佐八幡様は戦いの神様と聞きましたが・・
この時代もそうだったのでしょうか・・・?、
今後も色々教えてください。
宇佐八幡の由来を見てみると、宇佐八幡ができるのも、その縁起による由来も、あと数百年後のことだろうと思います。
この時代は、天族の一部が住んでいたと思われます。
ローケーションが良いとはどう意味ですか?
岡湊の女々しい感じとは何ですか?
それがイツセノミコトが留まることにしたであろう理由とどういう関係があるのですか?
岡湊は戦後の造成地、家庭の植木が多い。
②岡田宮は景色が良く遠くまで見渡せる。
岡湊は位置が低く景色悪い。海も見えない。
③岡田宮は男らしく砦の雰囲気がある。
岡湊は、守りに弱い感じです。
幼稚園の敷地の雰囲気です。
以上です。
岡湊は戦後の造成地、家庭の植木が多い。
芦屋の岡湊神社は(一五八六年)に薩摩と大友が争った時に社殿も神宝も焼失している。
その後復興されたが、昭和20年に空襲で燃えている。
木の太さなど何の証拠にもならない。
②岡田宮は景色が良く遠くまで見渡せる。
岡湊は位置が低く景色悪い。海も見えない。
景色の良し悪しも関係ない。
京都御所は見晴らしがいいか?
別荘を建てて住むのなら景色も重要だが、今は何の意味もない。
③岡田宮は男らしく砦の雰囲気がある。
岡湊は、守りに弱い感じです。
幼稚園の敷地の雰囲気です。
九州に居る限り守りのことを考える必要はない。 自国領土内である。
現在の社殿や敷地はその後の財力でどうにでも変わる。1586年に岡湊が焼けた後、その後秀吉によって神領も没収されたとある。現在のところは1678年黒田藩から提供された社領だ。以前のところかどうかは分からない。
シゲちゃんが上げた③つは何の証明にもならない。
それよりも何故若松でなければならなかったか?
なぜ芦屋でなくてはならなかったかだ?
その何故が上の三つではあまりにも薄弱ではないか?
立派な京都を岡田に作るつもりは東征軍に有りません。
船を揃え、兵と物資を調達して東征するつもりです。
日向がこのとき、宮崎であったとしても、大分であったとしても、その方面で調達できる船と兵力を集めて岡湊に来たのです。
そこでは、勢力圏である遠賀川上流から食料、武器をなどを調達しながら、訓練し、有明海、福岡方面から集まってくる兵力を待ったのです。
岡田宮は神功皇后の故事の後に作られたものだろうと思います。
偽者ほど、本物らしく見せるため立派なものを作るものです。
何度も云いますが芦屋は、遠賀川と西川の合流地点です、当時は大変な湿地で、広い潟が広がっていたと思います。湿地は古月の横穴まで広がっていたと思います。芦屋が機能していたならば、もっと奥で競艇場に近いところでしょう。現在の芦屋は、中世~近世にかけての集落でしょう。
故事に縁を持つ神社を、戦後の安普請ですませるのは、それなりの理由でしょう。佇まいを無視した感覚は、理解できません。