262-1 海棠 ワンちゃんが、通りかかったguuchanに手を延ばして引きとめようとする。 左の端から、1、2、3回も場所を変えて首を伸ばす。 不憫になって一枚撮る事にした。 おっと、そこにあったのは海棠だった。 いやいや、緋寒桜じゃないだろう? 海棠にして早すぎるような気もするが、姿は海棠に違いないと思ったが。 | |
262-2 フロンティア・チャレンジャー号の事故 今日NHKのBSハイビジョンで20年前のフロンティア・チャレンジャー号の事故調査委員会の報告を特集していた。 事故は予測されていた。 発射すべきでないと主張したエンジニア達も居た。事故の原因とされたO-リングのメーカー、モートン・サイオコール社のエンジニアたちだ。 発射されたときの天候がその直前-8℃というフロリダでは滅多にない低温だったのだ。 この温度ではO-リングが弾力性を失いタンクから水素や酸素などのガス漏れを起こし危険だと考えていたのだ。 12℃以下では飛ばすべきでないと主張していた。 しかし、何とかして遅らせずに発射させたいNASA上層部の政治的ともいえる判断でGOサインが出て、結果大事故となった。 この事件で責任を問われたものは一人も居なかった。 発射すべきでないと強行に発言していたエンジニアは、かえってその会社に居づらくなって4ヵ月後に退社せざるを得なかった。 このことは奇異に見える。 しかし、奇しくもサイオコール社という名だが、再起こる、サイサイオコルことなのだ。 重大な決断はしばしば誤まる。 たとえば原子力発電所において、装置に疑わしい兆候が現れたとして、だれが停止を決断できるだろうか? 計器の故障かもしれない、運転しながら修理できるかもしれない。 停止すると何十億と言う損失が生まれる。 必ず事故が起こるとわかっているなら、停止できるが、事故は起こらないかもしれないのだ。 もし何もなくて、何十億もの損害を発生させたとしたら、会社の損害もさることながら、責任者の能力が問われ、冷笑され、軽蔑され、その栄光の生涯が地に落ちてしまうだろう。 会議を開けば、停止すべきだという意見も出るだろう。そういう意見は、責任者の立場を理解しない気楽で無責任なものに思えるだろう。 長時間の会議は、疲れさせ判断力を狂わせる。 人の命の安全、社会の安全のためめでなく、いつの間にか自己の保身、自分の決断の言い訳を考えるのに頭は絶えず回転しているだろう。 そこでは、停止したとしても、10中8,9それを優れた決断と評価してくれる人は居ないように思えてくる、臆病者だとか、危機回避の能力のないものと判断されるだろう。 たとえ事故が起こっても、停止の決断をしなかった方が、保身の上では同情が集まって有利に思えるだろう。 こういうことは政治のうえで、軍事上のことで、企業の中で、サイサイオコルのだ。 これを防止することはできるのろうか? そして正しいことを主張したものの方が社会から阻害されてしまうのだ。 キリストもそうだ。正しいことを主張したから十字架につけられたのだ。 この社会は、罪ある人間が支配している。自分たちが生きていくには、罪のない人間は危険なのだ。敵なのだ。 これもサイサイオコル。 しかし、それで良いのだろうか? |