水害から間もなく、父が復員してきた。聞きなれない言葉だったが、わたしは得意になって担任の先生に、「お父さんがフクインしてくる。」などと語った。だが担任の女の先生は、頷いただけで、期待したほど喜んではくれなかった。恐らく親兄弟が帰って来ない子どもらのことを思いやってのことだったろう。 数日前に手紙か電報でもあったのか、母から、お父さんが何日かしたら帰ってくると聞かされていた。わたしは2日も前から大きなイタドリを2本採って来て大事に取っておいた。余り古くならないうちに帰ってきて欲しかった。もう知っている場所には見つけられないのだ。 わたしたちは父が坂を上がってくるのではないかと、気をつけていた。しかし、父がどういう風に現われたかハッキリした記憶はない。 坂を上がってくる姿を見つけて、走り出迎えたという記憶もない。不意に入口に現われて驚かされたような気もする。あるいはわたしは外に出かけていて(学校?イタドリ探し?)帰ってきたら父が帰っていて、畳の上に座っていたような気もする。 わたしは目の下の鼻に近いところに生傷をこしらえていた。父からどうしたのかと聞かれた。 母が、「『危ないから、絶対にしてはいけない』と厳しく何度も言っていたのに、縁側の物干し竿に、両腕を乗せるようなことをして、とうとう紐が切れて、崖下に落ちた。」と言った。 父も母も「目が潰れなくて良かった」といった。 わたしはイタドリをすすめた。父は「後で良い」と言ったが、母がおかしそうに「○○が、二日も前からお父さんに食べさせると言って、取っておきのものです。」と補足してくれた。父は迷惑そうに一口食べた。しかしそれ以上は食べようとしなかった。お義理にも美味しいとは言えなかったに違いない。わたしも大しておいしいものでないことも知っていた。 父の土産は牛缶2~3ケと毛布だった。缶詰の牛肉は美味しいが独特の味がする。その味は、今でも共通のような気がする。最も最近牛缶など食べたことはないが。毛布は、戦後長い間、兄とわたしで着ていたように思う。 父が復員してきたその晩であろう、母屋が復員のお祝いということで、一家を招待してくれてご馳走になった。母が平釜の御飯は美味しいと、繰り返し言ったが、銀飯は美味しかった。そして、このとき食べた煮付けられた芋が、初めてで美味しかった。後々まで、何だったかということが話題になった。里芋と山芋の中間ぐらい。「長芋と言っていた。」「タロイモと言っていた。」。筍芋、京芋ではなかったかと思う。 それから間もなく、寒くならないうちに、一家は九州の父の郷里に引き上げることになった。もう一度、お別れに一家は母屋に招待されたような気がする。平釜で炊いた銀飯で何日分ものお握りを作ってもらった。 実際九州まで2日位、あるいはもっとかかったような気がする。だが途中のことはほとんど記憶にない。考えてみれば、京都で山陽線に乗り換えた後は貨物列車の無蓋車だったのだ。煤煙を避ける為には頭から幌を被っており、視野は薄暗い幌の下に限られ、あちらに一塊、こちらに一塊、貨車の床に調節座ったり、寝転がっている人々の姿だった。景色を見ることはほとんどできなかったのだ。時々停車した。トイレ休憩だった。大人は降りて用を足したし、子どもは貨車の縁に立ったまま、支えられて用を足した。 途中、線路のつながっていないところを、夜間だったが歩かされたことも有った。 ただ、ヒロシマに停車したことだけは覚えている。そこが駅だったのかどうかは分からないが。大人達がヒロシマだ、広島だと言って、みな幌の外に出て、何かを見ようとした。原子爆弾の跡を見ようとしていたのだ。 | |
151-1 廣島 真っ暗で透かしてみてもほとんど何も見えなかった。今思えば、街に明かり一つ見えなかったことが、焼け野原の証拠だったかもしれない。わたしに見えたような気がしたのは、焼けて小枝も葉っぱもない一本の木だけだった。 わたしにはその木が、白い煙を出して未だにくすぶっているように思えた。そのときは原爆投下から3ヶ月以上経っているなどという計算は頭になかった。大人達の異様な興奮が伝わって、原爆は、普通の常識など通じない、恐ろしい爆弾なのだと信じていた。ずっと後まで、あの木はくすぶっていたと信じていた。 大人達は、今後何十年も草一本生えないだろうなどと話していた。 (第1部 終わり) | |
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