住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

150 由良川の氾濫

2006-08-14 17:16:25 | 随筆
 終戦から1月ぐらいで、母屋の当主が出征から帰ってきた。
 当主が前庭に入ってくると「○○さんが帰ってきたよ。!」と誰かが大声で叫んだ。
 すると、家の内外からお嫁さんや姉妹達、娘、お婆さん、が走ってきて口々に何か叫びながら、みんなで取り囲むようにして母屋の中に入っていった。
 男手のない留守を必死に守っていたみんながどんなに安心し、希望に満ちたことか。その弾む声を聞いていても気持ちがよかった。
 我が家のものはそれを遠く見守りながら、お父さんはいつ帰ってくるのだろうかと、不安でもあり待ち遠しくもあった。
 間もなく稲刈りが始まり稲が高い稲木(いなき)に何段にもかけられた。この地方の稲木は両側に柱を立て、その柱の間に長い横木を3段か4段にわたし、稻束がその横木に掛けられるという大きなものだった。
 そして10月10日頃台風が来て大雨が降り由良川が氾濫した。大人達はニ百十日だといっていた。
150-1 由良川の氾濫
 「水が出たぞう」という叫び声がした。
 最初川の方を見たときは、川の縁の竹林の間から茶色い水が道路を越してこちらの田んぼに滝のように流れ落ちるのが見えた。
 その後も増水は続き、水は田を埋め尽くしどこが道でどこが田かも分からなくなった。橋の袂の家は二階家だったが、もう水は床上まで来ていて、二階に避難してる人影が見えた。更に増水し二階屋の人たちは2~3人、いつの間にかどこから上がったのか、突然屋根の上に姿を表し、何か叫んでいた。
 みんなで聞き分けて「助けてくれエ~」、「家が流される言うとるぞ」と口々に言った。

 
 
 「助けてくれエ言うても、、」と母屋の若い当主も、当惑気味だったが、暫くして、どこかに消えた。やがて2~3人の男たちが乗った一艘の平底舟が、二人で竿を操作しながら、その二階屋に近づいて行った。どんな風にして舟に乗り移ったのかわからなかったが、「助けた」とだれかが近くで言った。みなそれまで固唾を飲んで見守っていた。
 それから間もなく、二階の屋根まで水没しかかっていたその家は回るように動いたと思うとすぐ傾きながら、流されて行った。
 水が引いた翌日、下流で稲木の奪い合いがあっていると聞いた。母屋の若い当主は流された稲木を探しに行って取り戻してきたと言う話を聞いた。
 
 水害の後、採れ始めたサツマイモは、煮ても焼いてもがじがじして固く、何かガス臭いような匂いがして美味しくなかった。イシイモ、ガジガジイモ、ガジイモなどといった。しかし、他に食べるものがないので、そのガジイモを大分食べたように思う。
 通学路の橋が流されたので、その年中渡し舟で通った。

 今調べたら、その年「福知山市では10月8日から11日まで雨が降り続き、由良川・土師川は増水し最高水位は6.0mに及んだ。被害は、堤防決壊箇所4カ所(249m)、橋梁流失12カ所、住宅全壊14戸、半壊63戸、流失34戸、床上浸水4,748戸、床下浸水335戸、死者3人、負傷者2人に及び、戦争で疲弊していた福知山市民にとっては過酷な災害であった。
大江町では、8日夜から11日に至る215mmの大雨で大水害となり、多数の被災者を生じた。敗戦直後の人手不足と食料難の中で被災者は困窮を極めた。(福知山河川国道事務所)」とあった。
わたし達のところは福知山市ではないので、数に入っていないかもしれないが、同じ由良川の流域で、福知山市の下流に当たる。
2004年37人の乗客が、乗ってた観光バスの屋根に逃れ腰まで水に浸かりながら奇蹟的に助かった場所の付近だ。