住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

146 疎開先での通学

2006-08-09 13:37:12 | 随筆
 
 疎開先の小学校(当時国民学校)は遠かった。2kmはあったろう。片道小1時間くらい掛かっていたと思う。
行きは兄や村の子と一緒に行くが帰りは同学年の友達と3人で、あるいは一人のこともあったと思う。一直線の道路の果て、遥か向こうの山裾を少し廻ると村なのだが、そこまでの直線が長かった。歩いても歩いてもなかなか近くならない。太陽は真上から照り付け、自分の影は小さく足元にできた。
わたしは下を向いて、自分の影法師の頭をひたすら踏もうといつしか夢中になっていた。踏もうと足を伸ばすと頭も前に逃げる。黙々と踏みつづけ、道路の小石はいつしか後ろへ後ろへ流れていくような錯覚に陥っていた。
道は木炭バスが通る田んぼの中の道路だ。舗装などはしてないから、かんかん照りのときは車が通る真っ白い土ぼこりが立った。
家に近いところまで来ると、道端の土手に下りてセリを摘んで帰った。帰りに採って来るように言われていた。母はそれをいれてセリ粥を作って良く食べさせてくれた。少し塩気もあってこれは好きだった。

 夏になると母は、兄とわたしの白いシャツを緑に染めてくれた。そして敵の飛行機から機銃掃射を受けたときは、道端の土手の草むらに逃げて伏せなさいと言われていた。
 頭を守るため、厚さが10cm近くもある布団でできた防空頭巾を被っていた。真夏だがわたしは被っていたと思う。直射日光が頭に当たらないだけかえって涼しいのだ。ただこれを被ると視界が狭められた。
頭巾を被った子供達はみな防空頭巾のお化けが歩いているように見えた。
 危ない目に会うことなく終戦を迎えた。
 藁草履は3日ともたなかった。母は苦労して造った草履があまりにも早く履けなくなるのを情けながって、浴衣などを裂いて紐にし、布草履を編んでくれた。それのほうが確かに長持ちしたが、友達は上草履を履いているとわいわい言って冷やかした。

 左図は家内が趣味で作った布草履だが、藁で作るのは大変だった。
 先ず藁束を2時間くらいかかって砧(キヌタ、左図)で叩いてほぐす。次ぎにほぐした藁を縄にないながら、継ぎ足し継ぎ足し草履に編んでいくのである。兄弟2足分も造るのは大変だった。わたしにできたことは冷たいお絞りもっていってやることと、夜になって凝った母の肩を叩いやることだった。