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生物季節観測の削減、ウグイスの初鳴き観測廃止

2020-11-16 | 日記

気象庁は生物季節観測を大幅に削減するという。ウグイスの初鳴きやカエルの初見、蝉の初鳴きなど動物の観測を全廃し、タンポポの開花など植物の大部分も廃止するらしい。気象予報士の森田正光氏が言うように、「目視する必要のないセミや野鳥の初鳴きなども観測困難なのか。」と思ってしまう。また同氏の「観測できないなら、観測できなかったことを確認する。それもまた立派な観測だ」にも全面的に賛同する。

 気象庁の挙げた理由、「標本木の確保や、動物を見つけること自体が難しくなった」という実態の変化はその通りだろう。だが、都市化によってこれまでの範囲の環境が変わったとはいえ、東京でも少し離れればまだまだウグイス・カエルやセミは居るだろうし、二ホンタンポポが残っている所はあるだろう。「過去の記録の続き」ということで比較するには、同じ場所・同じ標本木で、ということになるだろうが、逆に言えば「それこそ季節の指標ではなく、都市化の指標」であったわけで、標本木を決めれば「その標本木の健康や老化の指標」とだって言えないことは無い。

 23区に限らずとも、都内や東京周辺で自然の残るどこかの場所を新たに定め、生物季節観測を続けることは十分に可能だと考える。過去のデータとの継続性を問題にするなら、今後数年間はこれまでの場所と新たな場所の両方を観測して平均的なズレを求めておけば良い事。いずれにしても、「桜の開花宣言」でよく言われるように、「都内の別の公園や標本木の隣で桜が咲いていても、標本木で開花が確認されなければいけない」のだから、その1日のズレや、日当たり・風向きによって容易に変化することは大きな問題ではないはず。

 各都市の気象データですら、気象台の場所によって左右されるし、気象台が移転したり新たな観測点が設置されれば条件は変わって来たわけである。ここで、手近に動・植物を確認できなくなったからという理由だけで「生物季節観測」の意義を無視して廃止するのはいかがなものか。「生物季節観測」は決して「季節の変り目を意識して風情を感じる」ためではなく、気温や湿度などの物理的データだけでは表面化しない気候の変化を生物を通して知ろうとする重要な観測だったと考える。

 温暖化により生物相が変化するなら、むしろその変化を取り込む観測が必要となるくらいだとすら思われる。日本では自然の生物相を長く観測したデータが少ない。かつて川や海での公害が社会問題化した際に、過去の長期にわたる生物相の観測データが無いことで、目先で分かる目立つ生き物の大量死や絶滅という現象でしか変化を捉えられなかったという反省もある。気候変動や自然観測の先頭に立つべき気象庁が、物理的観測だけに意義を求めるのは、この国の自然や気候というものを「暑い、寒い」だけで表現してしまうようなものだ。