運営委員長の岡野です。
福島の原発事故が起こってから、いかに原発や放射能について知らなかったか、憤りや悔しさと共に「不明を恥じる」という気持ちになった方が多いようですが、正直に言えば私もその一人です。
持続可能な国づくりの会の運営委員会では、これまでも、「持続可能な国にすることと脱原発は当然セットだ」という大まかな合意があったと思います。
しかし、事故以前には、原発問題は激しい賛否両論の状態で、本格的に論争に加わるには専門的知識が必要なので、まず持続可能な社会の「理念とビジョン」をまとめることを先行させ、原発問題に取り組むのはもう少し先の段階でいいのではないか、と私は考えていたのです。
それが、不明も不明、大変な不明であったことを、原発以後、ネットで調べて、NHK他の大きなメディアに登場しない脱原発に取り組んでこられた方々の発言を聞いてから、痛切に感じさせられています。
特に震災の後、ネット注文しても品切れだった広瀬隆氏の『原子炉時限爆弾――大地震におびえる日本列島』(ダイヤモンド社)がようやく届き、大急ぎで読了して、「原発問題の緊急性に気づいていなかったなあ」と痛恨の思いです。
私は、社会的発言にはきわめて慎重な性質で、いろいろ調べてほぼ確実だと思うまでは結論を出さず対外的には「判断留保」ということにしておくのを鉄則にしていましたが、今回はそれを破って原発本を数十冊読むまで発言しないというやり方をしないことにしました。
それは、言われてみればいろいろ文献を漁るまでもなく、日本は大変な「地震列島」なのですから、それだけも原発を建設することは危険であり、さらに地震には「津波」が付き物であり、例外なく海際に建てられている日本の原発が津波にきわめて弱いことにも例外がないことは、常識でもわかるはずのことだった、と思うからです。
私の世代(団塊の世代)は、戦後、「原子力の平和利用」という言葉を教師やマスコミからずっと聞かされ、いつの間にか「原発安全神話」をどこか信じさせられていたのでしょう。
田中三彦氏のような信頼できる知人から原発の危険さを知らされても、どこか安全神話の影響でそのきわめて緊迫した緊急性にまで思いが到りませんでした。
常識も警告も心の中で機能しなかったのです。本当に痛恨の思いです。
日本には弱い地盤の上にしかも海際に54基の原発が存在している。しかも、その立地の地図を元に50キロ圏、100キロ圏の円を描いてみると、日本には本格的な原発事故による放射能汚染から逃れる場所などどこにもなさそうだ、ということに気づきました。
それだけでもぞっとする事実です。
さらに、東海地震が予想されているその場所に静岡・浜岡原発があり、我が家はその50キロ圏にあり、ところが、調べてみると、福島の事故以後も中部電力は30メートル級(今回の地震では最高38メートル強)の津波への対策はしていません(25メートルのところに非常用電源を2基準備するあるいはしたとのこと。25メートルは30メートルより低いのですが)。
自然をなめている、安全コストをけちっている、としか思えません。
後の世代のためにももちろんですが、自分の生きている間に来る可能性の高い危機を未然に防止するためにも、浜岡原発はなんとかしなければならない(早急にコストにしばられない本格的安全対策、続いてできるだけ早い廃炉)と考えます。
これまでの電力会社の態度を見ていると、できるかどうか、どうすればできるかという大きな問題があるのですが、まずこれは「坐して死を待つ」のでないのならば、「ねばならない」ことだという認識を持つ必要があるように思います。
ふたたび、「原発依存を転換する政治的意思と力を!」と書いておきたいと思います。
みなさんのお気持ち、ご意見をお寄せください。
ほんとうに、知らないということは恐いことですし、国の指導者たちを信じすぎたのですね。知れば知るほど不安感でいっぱいになります。
この小さく地震列島の日本に原発が54基もあり、どこかで事故が起きれば、ひとごとではありません。国民全部が運命共同体だと思います。
私たちは、自分が生きている間だけではなく、子供たちや孫たちの将来に責任があります。一刻も早く福島原発が収束して、全部の原発が廃炉にされることを望みます。自然エネルギーに転換して、経済のあり方や暮らしのあり方を変えて、国民が安心・安全な暮らしができるようにすべきだと思います。
それには政治が変わらないと駄目ですから、ばらばらにやっていても効果は少ないのですから、みんなで力を合わせる時だと思います。
このような状況になって初めて、現在進行形であまりにあからさまに暴露されているのが、政府も大マスコミもこぞって平成の世に事実を糊塗する「大本営発表」をやっている、それはこれまでずっとそうだった、ということだと思います。
企業・資本の論理で目先・短期(今期?)の利益だけを追いかけている企業、その利権に乗っかっている官界・学会、これらにまかせて原子力を営んでいれば、書いておられる通り「自然をなめて」「安全コストをけちる」のも考えてみれば当然です。
おっしゃるとおり、日本の権力をもった主流がこぞって原発を推進している以上、これまでいろいろな社会問題で常にずっとそうだったように、何万人が団結してデモをしようが状況が変わるとは思われません(まして昨今流行りのバラバラの個人が「できるところから」「ハチドリのひとしずく」をしていても状況が何一つ変わらないのは火を見るより明らかです)。
岡野先生もちこさんも書かれている通り、この状況を変えるのにそのような政治的意思を持った集合的な力が必要だと私も思います。というか、それ以外に代案があるとは思われません。「坐して死を待つ」というかいやなことは「見ざる言わざる聞かざる」というのが現状の私たち日本人の大半の態度だと思いますが、いずれにせよこの場合の結論は「ねばならない」以外にはないと思いました。
今回も、先生にとっては耳の痛い話になるかもしれませんが、放っておけないので、コメントさせて戴きます。
広瀬隆氏の『原子炉時限爆弾』のような明らかに扇動目的で書かれた非科学的な本を、先生のような 他人を指導する立場の人が真に受けてしまうのは、問題だと思います。こんな扇動本を読んでわかった気になるのではなく、もっとまじめに原子力のことを勉強された方が良いと思います。そうしないと、自分の頭で判断できないので、結局"神話"に頼ったり、"讒言"に踊らされたりの間で右往左往することになります。
恩に報いてくださろうというお気持ち、有難うございます。耳は少し痛いですね。
お気持ちに応えて、率直に申し上げます。
これまでの東の回廊さんのコメントは、心に響かなかったという以前に、東の回廊さんが後の世代のために本気で「持続可能な国」をつくりたいと思っているかどうかがわからない「批判のための批判」のように感じられたので、直接存じ上げているだけに、どうお答えすべきか迷って困っていました。
一度、そこをはっきりさせてください。「持続可能な国づくりの会」の「理念とビジョン」の方向性に大筋は賛成だが、細かいところで不十分だと思うので(私たちの知識も力もまだあまりにも不十分だと自覚しています)、生産的批判・提言をしたい、ということなら、もちろん聞かせていただきます。そして、「足りない」と批判するのではなく、「こう足したらいいと思う」という提言をしてください。
私は、会のブログで方向性そのものの妥当性についてまで、個々人の方と議論する必要は感じていません。方向性そのものに賛成できないのなら――たとえば、日本も世界もほぼこのままの方向で持続可能であると考えている、など――賛成できるより有望な他の流れに関わっていただいたほうが、双方にとって生産的ではないでしょうか。
東の回廊さんが、はっきりした他の方向性をもった団体の代表で、公開討論を申し込んでこられたのなら、お受けしなければならないかもしれませんが。
私は学生時代から、「すべてを知ってから生きることはできない」という言葉をモットーにしてきました。神ならぬ身が、完全な知識を得てから完全な発言や行動をするということは不可能です。完全な知識を得てからと思っていては、どんな行動もできないでしょう。
とりわけ緊急事態では、不完全な知識で間違うかもしれないけれども、「坐して死を待つ」より、緊急対応をするほうがいい、ということがあると思います。
福島原発の事故という事実――あえて懐疑的に言えばすべては事実らしい「伝聞」にすぎませんし、直接見たことでさえ人間は自分の認識の枠組み(主観)で捉えるのであって純粋な「客観的事実」などありえないことは認識論的にははっきりしていると思われます――によって、「原発は絶対に安全」という神話は崩壊したと判断して間違いないと思われます。
そういう「私の事実認識」を元に、原発については、専門家的知識を得てから発言―行動するのでは、間に合わないと判断しました。
広瀬隆氏の本の件、危機感という感情を煽りたくて書いているのですから当然表現は扇情的・センセーショナルです。しかし、内容についは細かい点まで判断する知識は私には不足していますが、「大筋はまともで、危機が迫っているのだから危機感は煽るべき」だと感じました。
その大筋は、記事に書いたことに加えていえば、地震列島の海際、しかもしばしば活断層の上に、原発といういったん事故を起こすと放射能という回収不可能な環境汚染をもたらすようなあまりにも危険なものを造るべきではなかった、ということです。
この大筋も「非科学的」だと、東の回廊さんはお考えですか。だとしたら、その根拠は何ですか。
日本は地震列島ではない、原発は活断層の上に立っていない、放射能は漏れても回収可能である、セシウムやストロンチウムの内部被爆は危険ではない……といったことが、科学的に立証できるのでしょうか。
もし、広瀬氏の指摘しているいくつかのポイントが明らかに誤っているという信頼できる「科学的な」データ・情報をお持ちであれば、よろしければ、どうぞコメントでも、私宛のメールでも、お知らせください。参考にさせていただいて考えてみます。
私は、広瀬氏の発言は大筋がまともだと、自分の頭で考えて判断したので、原発について知識が不十分であっても、即断即決できる、しなければならないと思ったことを、まずは自分の仲間たちに発信したまでです。
幸か不幸か現状では、このブログは会員を超えて大きく広がってはいないようですし、会員のみなさんは東の回廊さん同様、理性的で慎重な方ばかりで、私の言うことを鵜呑みにされることはありませんから、ご懸念ご無用です。
もちろん私は、これからさらにできるだけ原子力のことも勉強していくつもりです。いくら勉強しても、神ならぬ身ですから、全知全能になる日はけっして来ないし、決して間違いを犯さない絶対のリーダーになれる日も来ないでしょうが。
もし、持続可能な国づくりという方向性を共有していただけるのなら、これからさらにご一緒に学び、ご一緒に考え、できればご一緒に行動していきましょう。
まず始めにお断りしておきますが、「批判のための批判」をしているつもりはありません。
「批判のための批判」をすることによって私に何らかの益があるのであれば話は別ですが(例えば、先生と私が仕事上の競走相手で、「批判のための批判」による印象操作によってこちらの益となることが見込まれる場合 等)、私と先生とでは立場が違いますので、先生に対して「批判のための批判」をしても私に益する処はありません。
私は、これからまだ半世紀近く生きると思います。このままの調子で社会が進むと、私が死ぬ頃にはとてつもなく生きにくい世の中になっているだろうということは容易に想像できます。だからといって、いくら未来に希望が持てないからといって、座してその試練を甘受するわけにはいきません。私には、守るべき家族がいます。彼らのために少しでもよい環境を残したい、私が生きている限り出来るだけのことはしたいと考えています。ですので、「持続可能な社会づくり」に関しては、本気で考えています。
はっきりさせておかなければいけない点について申し上げます。
私は、持続可能な社会を作っていく必要性については、強く認識していますが、正直申し上げて『持続可能な国づくりの会』の『理念とビジョン』の方向性に対して大筋賛成という処には至りませんでした。『理念とビジョン』に書かれた方向性では、持続可能な社会を作っていくことは困難だと思いました。活動の基本的な方向修正が必要だと思いました。なので、そのように書きました。詳細については自分のブログに掲載しました。
なぜ"社会づくり"ではなくて、"国づくり"なのかという処が最もわかりにくい点です。"国づくり"という形に限定してしまうとこの活動の敷居が上がり、多くの人のコミットメントを受けることができなくなるのではないかと思います。
広瀬隆氏の本について:
例えばですが、彼の本では確率的にしか表現できない事象に対して断定的な表現を使っています。これは、確率に対する基本的な考え方を知らない人でなければできない書き方です。従って、彼が真っ正直にこの本を書いたのだとしたら、彼は基本的な科学的考え方の素養が身に着いていない人物であると見做せます。もし、彼が基本的な科学的考え方の素養を身に着けた上で、敢えてこのような書き方をしているのだとすると、それは明らかな背徳です。基本的な科学的素養の無い人達に対して、間違ったことを伝えていることになるからです。以上のことより、この本は教育に携わる人が他人を指導する際に参考としてはいけない文献であるということを断言できます。このような文献を、御自分の判断で門前払いにすることができないとなると、教育者としての資質を問われかねないと思います。
> 私は、会のブログで方向性そのものの妥当性についてまで、個々人の方と議論する必要は感じていません。方向性そのものに賛成できないのなら――たとえば、日本も世界もほぼこのままの方向で持続可能であると考えている、など――賛成できるより有望な他の流れに関わっていただいたほうが、双方にとって生産的ではないでしょうか。
私は、先生たちの活動をよりよい方向に向けていくための発言をしているので、先生たちが 私の発言を前向きに受け止めてくれさえすれば、双方にとって生産的になると考えます。私の掛けた時間も無駄にならずに済みます。
でも、会の方向性そのものの妥当性については議論の必要なし、つまり疑う余地がないと考えていらっしゃるのであれば、いくら私が会の為を思って発言したところで、先生たちには響かないでしょうからこれ以上発言を重ねても時間の無駄です。そういうことでしたら、私は去るしかありませんので、今回を限りに失礼させて戴こうと思います。
元はと言えば、先生が「私たちの理念とビジョンが結集の核になりうるものかどうか、しっかりと読み込んで、またコメントをください」ということを仰ったので、それに答えたまでです。私が良いと考える方法とこの会の活動の方向性があまりにずれていたので、どのようにお返事をしたらよいものか、正直とても悩みました。
うまく伝えられなくて残念です。私はもうこれ以上 力にはなれませんが、知己として蔭ながら応援しています。
会の趣旨を理解できなかったのは、己の不明に原因があります。
趣旨が理解できていない以上、コメントすべきではありませんでした。
にもかかわらず、コメントしてしまったのは、己の不徳の致すところです。
深く反省し、己の過ちを認め、今までの会の趣旨を踏まえない一連の発言について、全て撤回致します。
本当に申し訳ありませんでした。
すぐにお返事できなくて失礼しました。
ご発言撤回のご挨拶、わざわざ有難うございましたが、ご質問・疑問のうち、なぜ、「持続可能な社会」ではなく「持続可能な国」なのかという点は、きわめて本質的なポイントだと思いますので、議論するというより、ちゃんと説明責任を果たしたいと思っておりましたが、他のことに手を取られていて遅くなっています。
これは重要な問題ですので、一存ではなく会の運営委員の意見も聞いてから、まとめてお答えするつもりでおります。
ただ予め要点だけお伝えしておくと、「理念とビジョン」にあります「経済と福祉と環境を相互促進関係にするすぐれた社会システムは、ぜひ必要なものであり、かつ可能であるとしても、では「どういう政府であればそれを実現できるのか」という問題が出てきます。個々人の善意と努力の積み重ねだけでそうした社会システムが自然にできることは、残念ながら想定できない、と私たちは考えています。私たち市民の代表である政府が、はっきりとした理念とビジョンを掲げ、市民と一体になってそうした個々人の努力を結集し、それを目指して目的意識的・計画的に創り上げていくほかにないのではないでしょうか。」(30頁)ということに尽きると思います。
上記の点、ぜひご再考いただけると幸いです。
私が抱いている疑問点に対して説明して戴けるとのこと、たいへん有り難く思います。
今はまだ この会の趣旨に対する理解が不十分なままではありますが、とりあえず現時点までに私なりに調べて理解した範囲のことについてお伝えさせて戴きます。
私は今「持続可能な福祉社会(広井良典/ちくま新書)」を読んでいます。この本によると「持続可能な」という言葉が示す範囲にも幅があることがわかりました。
(1)私が元々考えていたことは、「人類の文明」を持続可能にすることについてです。そのためにすべきことは、1.地球環境の保全(例えば、CO2濃度の安定化による温暖化抑制等)2.食料需給の安定化(人口増加の抑制等を含む)3.エネルギー需給の安定化(究極的には化石資源を一切使わず、全て再生可能エネルギーで賄う)等です。
それを実現するための方法としてイメージしていたのは、「倉阪秀史氏の提案する『永続地帯』のアイデア(食料・エネルギーの自給を実現できている地域を地図上でプロットし、その範囲を順次拡大させていくという構想)(同書P.166)」に近いものです。
(2)一方、「持続可能な~」の意味合いとして、永続的な経済成長を前提としない社会、いわゆる「ゼロサム成長社会」を意味する使われ方もあるということを、この本で知りました。この場合、必要な施策は、富(フローとストック)の偏在防止/再分配に主眼が置かれますので、活動の主体も それを実行する権限のある主体 つまり「国」レベルの話が中心となります。
一見、上記(1)と(2)は、別々の事柄を扱っているようにも見えますが、実は(2)の「富の偏在防止/再分配」というプラットフォームが、(1)の取り組みを支える構図になりうるということ、また、(1)の方向性が(2)の大義名分になりうるということ、つまり、(1)と(2)は関連付けて考えうるということを理解しました。
現時点の私の理解はここまでです。
なぜ「社会」ではなく「国」づくりなのかというご質問は、たくさんの方からいただいていますので、お答えは記事として掲載しました。ご覧ください。
上記コメントでの、(1)と(2)は関連付けて考えうるという点、そのとおりだと思います。
そして、私は順序と比重として「実行する権限のある主体つまり『国』」からだ、と考えています。
どうぞ、続けてご検討ください。