運営委員長の岡野です。
以下は、現時点では、私個人の意見であって、委員会でも総会でも議論―合意したものではありませんが、国家的危機というほかない時機なので、あえて発言させていただきます。
会員の方も、それ以外の方も、どうぞ感想、意見、反論をお寄せください。
今回の大震災―津波の被害は、住民も行政も(?)想定できないほどの規模だったといわれています。
しかし、「専門家」にとっても「想定外」だったのかどうかについては、疑問があるようです。
素人が検索しても、例えばウィキペディアには
1896年 明治三陸地震 - 岩手県綾里 津波高さ38.2メートル、死者不明者22,000人。
1993年 北海道南西沖地震 - 奥尻島津波高さ 30 メートル - 死者・不明198人。奥尻町青苗地区は壊滅。
といった記事があります。
さらに、地震そのものは天災でやむをえないとしても、明治三陸地震の38.2メートルもさることながら、わずか18年前の北海道南西沖地震の30メートルの津波という経験さえ「想定外」として、津波の恐れのある海岸に原発を存続させることを肯定し、「安全だ」と言い募ってきた「専門家」とはいったい何なのでしょうか。
しかも、原発が津波に弱いことはすでに2006年の国会でも共産党の質問に対する広瀬研吉経済産業省原子力安全・保安院長の答弁によって明らかになっていたといいます。(http://d.hatena.ne.jp/takase22/20110316 参照)
その時の、二階俊博産相は「安全確保のため、省をあげて真剣に取り組むことをお約束したい」と答えたそうです。
すでに放射性物質が漏れ東京都の水道水にも入ってしまったという結果からいえば「安全確保」はなされず、これはまさにその場しのぎの「国会答弁」にすぎなかったことが明らかになったわけです。そして、経済産業省はまさに「行政」です。
しかし、悲しいかなそうした政府を支持してきた(まだしている?)のが多数の国民だったのですから、国民もまったく責任なしということはできません。
では、反対運動をしてきた「市民」には責任はないのでしょうか。
私は、これから安心・安全な「国」を望むだけでなく実際に創るためにはどうしても不可欠な認識だと思うのであえて言わせていただきますが、市民にもresponsibilityの語源的意味の対応能力(response ability)という意味で責任を果たしえなかったという責任があると思います。
それは、原発は政財界挙げてのエネルギー政策すなわち「国策」であり、その国策を変更するには「市民の反対」ではなく、「国民の総意」が必要だという、民主主義国家の基本をどこかで忘れて、政治運動ではなく市民運動で対応していたのではないかと思うからです。
政治の汚さ・駄目さにアレルギー反応を起こしていた気持ちはよくわかるのですが、今こそ、私たち日本国民は政治アレルギーを克服しなければならない時機に差し掛かっているのではないでしょうか。
反対する――しかし結果として止まらない――だけでなく実際に原発を止めるには、原発依存の日本社会を方向転換させるという「政治的意思」が必要です。
エコロジカルに持続可能な「国」を創りたいのなら、「エコ」の市民活動や環境保護の市民運動に加えて、「エコロジカルに持続可能な国家を構築する」という明快な「政治的意思」が必要であり、その「政治的意思」を貫徹できるだけの「政治的主体」つまり「政党」が不可欠なのではないでしょうか。
私たちの会は現状ではごく少人数で微力であり、口惜しいかなただちに「政治的主体・政党」を形成する力はありませんが、しかし「政治的意思」――その内容が「持続可能な国づくりの会・理念とビジョン」です――は明快に持っています。
そして、脱原発を含む「エコロジカルな持続可能な国づくり」への意思を共有できるみなさんとの連帯を願っています。
まずコメントというかたちでメッセージをください。そして、「理念とビジョン」が共有できるようなら、私たちの会に参加してください。
だから、意思の内容を表明できない。
意思の内容によって個人を選ぶことができない。
だから、個人を選出しても、それが意思決定につながることはない。
個人を選ぶことが、個人の意思を選ぶことだとは夢にも考えていない。
首長選びの段階で、集団の意思決定はすでに終わっているとの考えがない。
首長を選んだ後で、また個人・個人があれこれと首長とは違った内容の言い合いをする。
意思決定を行うことを周囲から容認されない首長は、問題の先送りと積み残しをして時間を稼ぐ。
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本・権力構造> (The Enigma of Japanese Power) の<世界にあって世界に属さず>の中で日本の交渉能力について下記の段落のように述べています。
アメリカ政府はとくに、中曽根を含む日本の歴代首相との交渉を通し、日本の場合には、政府の公式首長であれ他の誰であれ、実効性のある交渉は不可能だと気づかされた。他の多くの国も今世紀を通して分かったのは、日本の交渉者とは実質的な交渉はできないということだった。日本の交渉者が交渉不能なのは、交渉者のどんな言葉に対しても本国で反対される可能性がつねに存在するためだ。この難しさが、日本に対する戦前の欧米諸国の態度を大方決めたのだった。ある日本外交史の専門家が要約するように・・・・・
戦前の日本ほど、国際的信頼を得たいという強迫観念にかられながら、世界中から信頼されなかった国はない。交渉の失敗を考えることすらこわがっていたにもかかわらず、日本の指導者も交渉者も交渉は最小限にとどめたし、考えもこり固まっていたので、非難されることは必然的だった。・・・・・交渉という交渉で、指導者も外交官もあやまちをくり返すまいと意識して努力したにもかかわらず、結果は何度も何度も同じ落とし穴に落ち込んでしまうのだった。(引用終り)
人・人により主張は違う。個人が定まっていなければ、決定された話の筋も通らないのだが、その点の整合性のなさは誰もが心配していない。
これは、大きな鍋に大勢の調理人がそれぞれに調味料を投げ込んでいる状態で、出来上がった料理の味に責任を持てる者はいない。
だが、この成り行きは当然のことで、日本人にはどうしようもないことだと受け取られている。
これは、律儀な日本人のだらしなさである。
意思 (will) は未来時制の内容である。
日本語には時制 (tense) がないので、未来時制もない。
それで、日本人には意思がない。
だが、日本人には恣意 (self-will) がある。
これは、言語の不自由な子供やアニマルと同じ状態である。
恣意は、私意・わがまま・身がってとも言われている。
昨今問題を起こした鳩山首相の'トラスト・ミー' (Trust me.) は英語で考えれば約束の履行を宣言したことになるが、日本語で考えれば「俺に任せろ」で、恣意の自由を宣言したことに他ならない。
こうした深刻な行き違いが起こるから、外交官は英語のできる人でなければならない。
日本語ではこうなるのだからと通訳のような考え方をしていたのでは国際社会で路頭に迷うばかりである。
日本人は元来多神教で、その神様たちは出雲に出向いて談合している。
だが、彼らも自己の意思を示すことはない。
唯一の神を選び、その意思の内容を尊重する一神教徒のまねごとも、昔ながらの日本人には難しいのかもしれない。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
これまでの日本人の一般的傾向についての評論としては、ほぼおっしゃるとおりだと私も思っています。
しかし、問題は一人の個性を有した日本人としてのこれからの自らの意思ではないでしょうか。
日本がこのままでいいと思っておられますか。日本をどうすればいいとお考えですか。日本をどうしようと意思しておられますか。
をお考え中のことと拝察します。
岡野運営委員長が個人のお考えを書かれましたので、私も個人の意見を述べてみます。
3月22日の日経新聞経済教室欄で、阪神・淡路復興委員会委員であった堺屋太一氏が「非常時に強力な時限組織を」という記事を書かれ、「災害非常時対策には、救助―救済―復旧ー復興ー振興の5段階がある」と述べ、「復旧段階以後においては既存の枠組みを超えた復興院的機関を設置すべきであり、その復興院的機関の役割として次の3つの条件を提言しています。
1)復興に向けた予算や政策の司令塔になる。2)目先のことと遠い先のことを等しい尺度で考える。(出口のない入り口に入ってはならない)
3)縦割りの官僚指導を破り、官庁ごのと規制に守られた利権を超え、新しい国のかたちを求めなければならない。
新しい国のかたちを画かなければ、こうした復興院の仕事は機能できないわけです。
今日本には、明快な国家ビジョンが存在していません。民主党政権の国家戦略担当相は情けないことにこれから作成すると言っています。
持続可能な国づくりの会は、すでに昨年「経済・福祉・環境が相互促進できる社会システム」についてビジョンを提示しています。
このビジョンをたたき台にして、会員皆様の意見によって充実させて、堺屋氏の提言する復興段階以後の国家的活動の指針作成に向けて、貢献ができればいいなと願っております。
会員皆様のご意見はいかがでしょうか。
原発は危険だと伺ってはきましたが、それを見せつけられる事態です。前途多難な我々の行く手、方向の定まらない日本の状況を見るにつけ、理念・ビジョンの必要性、本当にそうだと思います。改めて読んでみたいと思います。
日本人に意思はない、とは、「空気」という点で半分は当たっているようにも思いますが、ではその一日本人としてどうしたいのか…日本人でないかのような振りをして(でも日本語で)語ることはできますが、それではたしかに意味がないですね。
昨日あたりのニュースを見ていると、放射能汚染は関東地方全体に(そして計測できないのか、パニックにならないよう隠しているのか、おそらく東北地方全体にも)拡がっているようですね。
そして、こうした地震―津波―原発事故は、日本中54基の原発すべてで危惧されることのようです。
我々としては、ともかく声を上げていくことで、いい空気が醸し出される一助になれるといいですね。