結城見学記
場所(地域) 茨城
場所(詳細) 結城
時期 2006年11月5日
ワンポイント 養蚕業の街結城紬
感想 今日はNHKの「ひらがな」についての話を拝見していて、横目に見ながら違うことを調べていました。
もう二週間ほども前だったか、結城に見学に行きました。
頭によぎったことや見聞したことで調査も必要で、どこから話していいか迷いますが、堅苦しいことは抜きにしましょう。
結城と言えば、「結城紬」で有名ですが、
幕末は戊辰戦争の舞台にもなりました。
吉田松陰が遊説に参りましたが、家老が尊皇攘夷を唱え、佐幕派と勤皇派に藩は分かれて論争になり、結局官軍が来て戦闘し、結城城は落城したと、看板に記載がありました。そのとき、会津兵士が幾人か亡くなり、この地の寺にその亡骸が納められています。
明治時代には、明治天皇が陸軍大本営地として総理大臣以下滞在し、その跡地が今の結城の小学校になっています。大きな碑が立ち、花が添えられていました。多分、日露戦争時のことと思われます。
結城紬の体験館などがあり、真新しく、その奥には昔、NHKの「鳩子の海」の舞台になった問屋さんの屋敷が重要文化財に指定されています。街には大正時代に建てられた家もありましたが、ここが一番昔の風情を残していました。
町内の人が集まって、みなさん結城紬をお召しになっていて会合中で、センターの中はほとんど見学できませんでした。しかし、着物が渋い光沢を放ち、着ていた男性も非常に魅力的に見えました。
小倉商店は郷土館になっていましたので、
拝見させていただきました。
そこでひとりの紳士がスケッチブックを手に同じく見学にいらしていましたが、受付の女性と彼との会話から、その紳士がかなりこの土地にゆかりのある人だということがわかりました。
目はウィンドーの中を見て、耳は会話がなにげなく入って来ましたので、あとで非常に参考になりました。
昔は広島にいましたとのこと、この結城藩
の殿様とつながりがあります。以下、ネットで調べたことを折り込んで記載します。
結城は戦国期には結城家の割拠するところでした、豊臣政権下では、家康の二男で、秀吉の養子となっていた秀康が結城晴朝の名跡を継いで、結城秀康となり、10万石あまりを領しています。
江戸幕府が最初は養蚕業で有名だったので、占有しようとしたらしいのですが、時代を経ると、他国でも養蚕が盛んになり、あまりその意味を持たなくなったと言われています。
秀康は家康から疎まれ、薄幸な方だったようですが、安土・桃山時代に結城家18代目当主として、娘・松姫の菩提を弔うために弘経寺(くぎょうじ)を建立したと伝えられます。浄土宗関東十八檀林(宗派の学問所)の一つとしても知られ、寛保2年(1742)、江戸時代の結城の文化に多大な影響を与えた俳人・砂岡雁宕を頼って結城を訪れた与謝蕪村は、その後、弘経寺に身を寄せ、墨梅図や楼閣図などのすぐれた襖絵を残したと看板に書いてありました。緑豊かな境内には雁宕の墓や蕪村の句碑があり、ここが一番風情を感じました。昔の良き情緒があふれています。
千姫ゆかりの名刹として他所にある有名な
弘経寺から僧侶を招いたそうですから、それはそれは見事な由緒ある寺でした。
蕪村も訪問するわけです。
しかし、関ヶ原戦後、秀康は越前北ノ庄67万石へ転封となります。
その後大名はいないまま幕府領時代が続きますが、能登西谷から水野勝長が入って結城藩が成立します。
水野家は家康の生母、於大の方の実家であり、大名となった水野家は5家あるそうです。この結城水野家は備後福山にあった水野家が、無嗣除封となった後、祖先の功を重んじ、水野勝長に名跡を認められたました。つまり広島県福山市と姉妹都市のような関係があります。あの紳士はそういうことをご存知でいらしたのでしょう。
聡敏神社(そうびんじんじゃ) には行かなかったのですが、結城藩水野家の祖・勝成公が祭られているそうです。勝成は徳川幕府成立時期の武功によって備前福山10万石に封ぜられました。その後も領国経営に尽力し、88歳で他界すると、生前の業績を偲び聡敏大明神と称せられました。福山藩水野家はその後廃絶しますが、結城に1万8千石をもって再封され、福山より分霊されて、この結城にも結城聡敏神社が建立されました。
途中、お地蔵様が祀られていたのに、のぞき穴があるだけで鍵がかかっていました。
不埒な人間が荒らすからだそうです。そう張り紙にあり、なんだか情けないなあと鎌倉の地蔵と同じく感じました。
さて、結城紬に戻りますが、郷土館の二階では実演で機織風景を拝見しました。
受付で紳士が「紬を中国で生産することが今はあるのですか?」と尋ねていて、受付の方が「いいえ。福島ではありますが」とお答えでした。
中国では紡績産業・繊維産業は何億と言う儲けが出ていますが、まだ質の点では日本には及ばないのが現状です。
日本では、日清戦争あたりに紡績産業が栄えて、産業革命と言われました。富岡製糸工場など有名な場所がありましたし、今の自動車生産台数世界一で有名な会社豊田も、豊田自動織機は、もとは紡績業の発展に寄与したとして有名で、昭和半ばの教科書に記載されていました。昭和後半、東京国立科学博物館に自動織機の機械が陳列されていたので、よく覚えています。
中国人留学生と日本の技術力について口論したことがあり、懐かしいです。
最近は上海でファッションショーも開かれますが、養蚕業が衰退していても結城紬のような高級品(昔は普段着だったけれど)
などは日本の技術として輸出はしていないらしいです。
「若い人はジーパンを最近ははいてしまうから、もっと若い人に普及しないとねえ」
と述べられていたので、ジーパン姿のわたしは「いや~日本の絹織物は高額で買いたくても買えないです。」と心の中で呟きました。
雑誌「和楽」などに盛んに紹介されても、
日本で結城紬を着る人はお金持ちです。
結城紬は昔は「常陸紬」と言われていました。
受付の女性が述べていた福島と言うのはどういうことかというと、≪真綿かけ≫の
ことを述べていたようです。
重曹を入れた湯で煮た繭を両手を使って1粒ずつ指で広げ、5、6枚を重ね袋状の真綿を作ります。品質によっては糸質が変わってくるので、熟練した技が必要で、細かく強い糸が取れる真綿を作れるようになるには「綿かけ8年、糸つむぎ3年」と言われています。
現在は、結城産地の90%が福島県伊達郡保原町産の真綿を使用しています。
それで福島という言葉があったのです。
紳士は日本の技術や産業を全部中国へもっていかれそうで、まあ、日本の将来をちょっと心配したのでしょう。
さてさて、ほかに称明寺へも伺いましたが、親鸞上人のこと、「往生要集」のことを看板に記載してあっただけで、誰もいません。なぜか傍にあった教会に人が集まって賛美歌が流れていたのが印象的です。
街を散策していたら、自転車に乗ったおじさまが、「どこからいらしたんですか」と
不思議そうな、ほんとうに珍しそうな顔を
して驚愕(大げさではなく)していたので、よほど観光客が珍しかったのでしょう。駅は近代的で凄く立派な図書館つき
市民センターが建築されていて、豊かなのか貧しいのかよくわからない、のんびりした街でした。
たぶん、着物をお召しになる方は、わざわざ東京から散策しには来ないのでしょう。
シャターの降りた商店街を歩き、なんだか
淋しい感じでしたから、富があるのかないのかよく理解できない町でした。