みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

結城見学記

2007年08月24日 10時36分43秒 | 旅行記

結城見学記

場所(地域) 茨城
場所(詳細) 結城
時期 2006年11月5日
ワンポイント 養蚕業の街結城紬

感想 今日はNHKの「ひらがな」についての話を拝見していて、横目に見ながら違うことを調べていました。

もう二週間ほども前だったか、結城に見学に行きました。
頭によぎったことや見聞したことで調査も必要で、どこから話していいか迷いますが、堅苦しいことは抜きにしましょう。

結城と言えば、「結城紬」で有名ですが、
幕末は戊辰戦争の舞台にもなりました。
吉田松陰が遊説に参りましたが、家老が尊皇攘夷を唱え、佐幕派と勤皇派に藩は分かれて論争になり、結局官軍が来て戦闘し、結城城は落城したと、看板に記載がありました。そのとき、会津兵士が幾人か亡くなり、この地の寺にその亡骸が納められています。

明治時代には、明治天皇が陸軍大本営地として総理大臣以下滞在し、その跡地が今の結城の小学校になっています。大きな碑が立ち、花が添えられていました。多分、日露戦争時のことと思われます。

結城紬の体験館などがあり、真新しく、その奥には昔、NHKの「鳩子の海」の舞台になった問屋さんの屋敷が重要文化財に指定されています。街には大正時代に建てられた家もありましたが、ここが一番昔の風情を残していました。

町内の人が集まって、みなさん結城紬をお召しになっていて会合中で、センターの中はほとんど見学できませんでした。しかし、着物が渋い光沢を放ち、着ていた男性も非常に魅力的に見えました。

小倉商店は郷土館になっていましたので、
拝見させていただきました。
そこでひとりの紳士がスケッチブックを手に同じく見学にいらしていましたが、受付の女性と彼との会話から、その紳士がかなりこの土地にゆかりのある人だということがわかりました。
目はウィンドーの中を見て、耳は会話がなにげなく入って来ましたので、あとで非常に参考になりました。

昔は広島にいましたとのこと、この結城藩
の殿様とつながりがあります。以下、ネットで調べたことを折り込んで記載します。

結城は戦国期には結城家の割拠するところでした、豊臣政権下では、家康の二男で、秀吉の養子となっていた秀康が結城晴朝の名跡を継いで、結城秀康となり、10万石あまりを領しています。
江戸幕府が最初は養蚕業で有名だったので、占有しようとしたらしいのですが、時代を経ると、他国でも養蚕が盛んになり、あまりその意味を持たなくなったと言われています。

秀康は家康から疎まれ、薄幸な方だったようですが、安土・桃山時代に結城家18代目当主として、娘・松姫の菩提を弔うために弘経寺(くぎょうじ)を建立したと伝えられます。浄土宗関東十八檀林(宗派の学問所)の一つとしても知られ、寛保2年(1742)、江戸時代の結城の文化に多大な影響を与えた俳人・砂岡雁宕を頼って結城を訪れた与謝蕪村は、その後、弘経寺に身を寄せ、墨梅図や楼閣図などのすぐれた襖絵を残したと看板に書いてありました。緑豊かな境内には雁宕の墓や蕪村の句碑があり、ここが一番風情を感じました。昔の良き情緒があふれています。
千姫ゆかりの名刹として他所にある有名な
弘経寺から僧侶を招いたそうですから、それはそれは見事な由緒ある寺でした。
蕪村も訪問するわけです。

しかし、関ヶ原戦後、秀康は越前北ノ庄67万石へ転封となります。
その後大名はいないまま幕府領時代が続きますが、能登西谷から水野勝長が入って結城藩が成立します。

水野家は家康の生母、於大の方の実家であり、大名となった水野家は5家あるそうです。この結城水野家は備後福山にあった水野家が、無嗣除封となった後、祖先の功を重んじ、水野勝長に名跡を認められたました。つまり広島県福山市と姉妹都市のような関係があります。あの紳士はそういうことをご存知でいらしたのでしょう。

聡敏神社(そうびんじんじゃ) には行かなかったのですが、結城藩水野家の祖・勝成公が祭られているそうです。勝成は徳川幕府成立時期の武功によって備前福山10万石に封ぜられました。その後も領国経営に尽力し、88歳で他界すると、生前の業績を偲び聡敏大明神と称せられました。福山藩水野家はその後廃絶しますが、結城に1万8千石をもって再封され、福山より分霊されて、この結城にも結城聡敏神社が建立されました。

途中、お地蔵様が祀られていたのに、のぞき穴があるだけで鍵がかかっていました。
不埒な人間が荒らすからだそうです。そう張り紙にあり、なんだか情けないなあと鎌倉の地蔵と同じく感じました。

さて、結城紬に戻りますが、郷土館の二階では実演で機織風景を拝見しました。
受付で紳士が「紬を中国で生産することが今はあるのですか?」と尋ねていて、受付の方が「いいえ。福島ではありますが」とお答えでした。

中国では紡績産業・繊維産業は何億と言う儲けが出ていますが、まだ質の点では日本には及ばないのが現状です。
日本では、日清戦争あたりに紡績産業が栄えて、産業革命と言われました。富岡製糸工場など有名な場所がありましたし、今の自動車生産台数世界一で有名な会社豊田も、豊田自動織機は、もとは紡績業の発展に寄与したとして有名で、昭和半ばの教科書に記載されていました。昭和後半、東京国立科学博物館に自動織機の機械が陳列されていたので、よく覚えています。
中国人留学生と日本の技術力について口論したことがあり、懐かしいです。

最近は上海でファッションショーも開かれますが、養蚕業が衰退していても結城紬のような高級品(昔は普段着だったけれど)
などは日本の技術として輸出はしていないらしいです。
「若い人はジーパンを最近ははいてしまうから、もっと若い人に普及しないとねえ」
と述べられていたので、ジーパン姿のわたしは「いや~日本の絹織物は高額で買いたくても買えないです。」と心の中で呟きました。
雑誌「和楽」などに盛んに紹介されても、
日本で結城紬を着る人はお金持ちです。

結城紬は昔は「常陸紬」と言われていました。
受付の女性が述べていた福島と言うのはどういうことかというと、≪真綿かけ≫の
ことを述べていたようです。

重曹を入れた湯で煮た繭を両手を使って1粒ずつ指で広げ、5、6枚を重ね袋状の真綿を作ります。品質によっては糸質が変わってくるので、熟練した技が必要で、細かく強い糸が取れる真綿を作れるようになるには「綿かけ8年、糸つむぎ3年」と言われています。
現在は、結城産地の90%が福島県伊達郡保原町産の真綿を使用しています。
それで福島という言葉があったのです。
紳士は日本の技術や産業を全部中国へもっていかれそうで、まあ、日本の将来をちょっと心配したのでしょう。

さてさて、ほかに称明寺へも伺いましたが、親鸞上人のこと、「往生要集」のことを看板に記載してあっただけで、誰もいません。なぜか傍にあった教会に人が集まって賛美歌が流れていたのが印象的です。

街を散策していたら、自転車に乗ったおじさまが、「どこからいらしたんですか」と
不思議そうな、ほんとうに珍しそうな顔を
して驚愕(大げさではなく)していたので、よほど観光客が珍しかったのでしょう。駅は近代的で凄く立派な図書館つき
市民センターが建築されていて、豊かなのか貧しいのかよくわからない、のんびりした街でした。
たぶん、着物をお召しになる方は、わざわざ東京から散策しには来ないのでしょう。

シャターの降りた商店街を歩き、なんだか
淋しい感じでしたから、富があるのかないのかよく理解できない町でした。


水天宮近辺散策

2007年08月24日 10時30分25秒 | 日記・エッセイ・コラム

「2005年11月12日 東京メトロウォーキング  水天宮駅より」

 東京メトロのウォーキングに参加。水天宮より出発。人形町、職場のお土産に壽屋へ寄る。あとで購入できないと思ったから。干菓子が可愛いし、黄金芋の漢字のたくさん入った袋がおもしろい。
 日本橋のギャラリーで書道展が開催されていた。滅茶苦茶うまい。ある書道の先生方の集まりか。気に入ったので、冊子をいただく。こういう方々と交流したら、人生が変るだろう。

 芭蕉記念館拝見。細川幽斉の書や他の大名の書を拝見。やはり俳句も芸術として嗜むべきか。
 清澄庭園、秋晴れに緑が美しい。近くに寺があり、ここに村田春海の墓がある。本居宣長の高弟(四天王のひとり)。平田篤胤と談義(書簡往復?)も交わしたらしい。
霊厳寺に寄る。松平定信の墓がある。お地蔵様にお参り。病が治るらしい。結構、ご利益ありそう。

 滝沢馬琴の生誕の地を通過。「なんと、聡い発見伝(南総里見八犬伝)」 。
盲目になった馬琴の筆記を行なったのが嫁だった。
 小津安二郎の生誕の地もこの近くにある。映画監督。映画には原節子がよく主演していた。「東京物語」「麦秋」など。
 えんま堂は有名だが、心行寺(しんぎょうじ)の建築物に心惹かれる。岩国城主に縁がある。錦帯橋で有名な藩。平安朝風の建築物だが、戦後再建された。浄土宗。川口直の墓などや、福禄寿がいい。味噌漬けの店を川口直が開業したらしい。この辺りの紅葉の植樹にあたったと言う。元芸妓。要するになんでもこなせた人。夫は笛の名手。風流。

 富岡八幡宮のお手水が磐から流れ出て優雅だが、七五三で賑わったわりには誰も気づかない。子どもに凄くお金をかけて着飾らせていたので、驚いた。
 明治丸。公開していたんだろうか。以前、日記に書いたので、省略。
 佃島には以前、昔の同僚が句会へ行っていたという。ほんとうに文学が好きだったの
だろう。今はどうしているか、たぶん、アルバイトではなく、学者になったはず。
ここも以前、日記に記載したので、以下省略。

 亀島橋付近。堀部安兵衛は、赤穂浪士の吉良邸への討ち入り参加をした武士。剣豪。その碑がある。
 新川あたりに、河村瑞賢の屋敷跡あり。今は国民金融公庫のビルだったか、面影はない。
海運治水の功労者。紀伊国屋文左衛門も同じく、伊勢の貧家から富豪になった。
 やがて水天宮へ。ここでも七五三の人が多い。
 自分には一生子どもを産むこととは縁がなかったから、親の気持ちを推し量ってみた。
 また、漬け物を買ったり、粕漬けを購入したり、お土産も購入して楽しんだ。
漬け物、近為おいしかった、翌朝、ご飯充実。満足した。
 

 
 


初冬の新宿御苑

2007年08月24日 10時17分38秒 | 日記・エッセイ・コラム

初冬の新宿御苑

場所(地域) 東京方面
場所(詳細) 新宿
時期 2004年11月15日
ワンポイント 都会のオアシス

「初冬の新宿御苑」

 初冬のある日、新宿御苑で最後の紅葉を眺めて、日本庭園をパステル画に描いていましたら、40分も外でじっとしていたため、身体が凄く寒くなりました。
 御苑は昔から馴染みがあります。

 もう25年前のこと、まだ高校生の時は水彩画を御苑で描いていました。ランニングハイというものがありますが、絵を描いていても途中から気持ちがハイになります。

 油絵の制作もしましたが、塗り重ねる時間がかかりますので、ほとんど学業放棄に近い形で、受験勉強もせずに描いていました。ロートレックの管弦楽団の絵を見ていて、楽器の演奏ができないために、絵を描くことだけはしました。
 水仙が柔らかな香りを漂わせて、初冬の訪れを告げていました。樋口一葉の「たけくらべ」の最後のシーンを思い出しました。

 学生時代は、「たけくらべ」を研究するため、遊郭について雑誌をかなり読みふけりました。すばやくめくって必要な箇所だけを読み進めるので、図書請求するたびに司書の職員にいたづらしているのかとむっとされましたが、自分の必要な情報を得るのに致し方ありませんでした。
 当時の過酷な女性の境遇に触れているうちに、女性が今参政権を得て、男性と対等に話せる時代が到来するまで、実は非常に長い道のりであったことに思いあたり、現代自分がどれほど恵まれているか感謝の念が沸きました。

 また、遊郭における男性の性本能の形に、当時まだ異性体験がない自分には特殊な世界であり、自分とは縁遠い世界だとしか思えませんでしたが、この年齢になって思案しても、実は何も解決していない問題であることを実感します。

 和辻哲郎の夫人は、ご主人が欧州へ出かけて行った際に、「そちらでは芸者もいなくて遊び相手もなく、お寂しいことでしょう」と述べています。政界では、日本で初めて教育で勲章をお受けになった鳩山薫子先生は、一郎首相が女性問題で騒がれた時、「わたくしが忙しくしているので、遊んでいただいているのです」と述べられた女傑だと、父から話を聞いたことがあります。

 これをよしとするわけでもないのですが、芸者も遊郭の女性も、昔は士族の没落した女性や貧しい家庭の子女が、家族のために身を沈めた場所でした。
 当時の遊郭の女性の写真を見ていて、意志の強そうな、くっと結んだ紅の唇に、その覚悟と意志の強さを見てとります。男性にはきっと天国みたいなところだったんでしょうね。
 しかし、イギリス人が非常に驚いて、衛生面や精神的なケアを心配し、当時の様子を描写していました。
 一葉さんは、イギリスのエミリー・ブロンテのような人だと、述べている人もいました。
今の性風俗は明るいとも言われていますが、ほんとうにそうなんでしょうか。
おそらく違う面があると思います。
性風俗犯罪が後を絶たないのはそのいい例です。

一様処女説にこだわっている男性もいましたが、当時瀬戸内晴海さんが、新説で異性関係があったことを述べていました。女性・男性の性の問題は、今でも、実は誰もが深刻に持っているのです。

 一葉さんの件にしては、事実ではしかたなくても、一葉さんという人は、彼女のいやがった艶聞を隠してあげたくなるような、つましやかな生き方をした人でした。「たけくらべ」の文章描写の見事さは日本文学史上燦然としていて、あの赤い鼻緒の切れる場面と、水仙の置かれた最後の場面に、繊細な息づかいを感じます。

 わたしは、あの水仙の花に、僧侶となるべく街を去る信如が、花魁になる運命の美登利に託した最後の励ましの言葉と取れました。人間のむき出しの欲望が晒される日常で、心はこの花のようにあれよ、とメッセージを残したのではなかと思いました。
 わたしは一葉さんが男にしたたかな女だったと言う説に関しては、非常に悲しく拝見しまして、一葉さんの言われたくないテーマであったと思います。そのため、わたしはこと、男女関係の暴露記事というものを非常に嫌っています。
 たぶん、彼女は半井桃水とは一葉日記で読む限り、なんらか接触があったかも知れないと思いましたが、ほかの男性の場合は違うと確信しています。かなりの耳年増だったような気がします。
 わたしは、若い頃は、桃水に怒りを覚えていました。まあ、若気の至りです。
一葉日記を読むと、恋をしている一葉に自分の子供を抱かせたり、一葉の萎縮した姿を冷静な眼差しで観察していたことなどがわかります。読めば読むほど、女性として同情に堪えないのです。一葉さんは、今文壇に残されたものとは別である大事な日記を、斎藤緑雨に死後託して燃やしてもらいました。

 一葉さんは、きまじめな女性でした。だから明治の文壇で島崎藤村も姉のように慕っていたし、森鴎外も一葉女史の葬式に参列したのです。

*訂正・・森鴎外は正装をして臨もうとして、丁重に列席を断られたらしい。

 一葉さんは、実は貧乏をしながらも武家の出身です。頼山陽を知らないはずがありません。姫路城に以前旅行に行った際、頼山陽の「日本外史」についての記述が天守閣に残っていたので、興味を持って、頼山陽について書かれた本を気軽に読んだことがありました。その時、頼山陽は当時変人として見られていたが、水仙の花をこよなく愛していたと言います。現代の日本で頼山陽を褒める人はいませんが、武家社会・尊皇攘夷を考察する上では重要な人物で、水仙という花は様々な憶測を呼び起こす花だと思いました。

 単純に推測すると、水仙の花のように楚々と心は清く、たとえ女郎と人から卑しめられようとも、自分の人間としての矜持を捨てるな、と言うことではないかと感じました。

 御苑の池には、睡蓮の花もありますが、蓮の花はぽーんと鳴って咲くんだという話を聞いたことがあります。朝早い時間帯に綺麗に開くそうです。お釈迦様が蓮の花のレンゲに立っていらっしゃるのは、人間の住んでいる現世が泥の池のように醜く穢れていても、心の持ちようによっては綺麗に花が咲くんだよ、という教えのようで心現われます
。日本人が好きな花に、ほかには菖蒲・水芭蕉もありますが、なぜかみんな泥から顔を出すので不思議です。

 美登利さん谷中の霊園漂いて墓にもたれし清方の絵か

 一葉の『おおつごもり』に人の世の機微情けをも描かれており
 
 御苑は、もう冬枯れていましたが、奥の大木戸門のほうはまだ美しい紅葉が残っていて、オーロラのカーテンに包まれたようにオレンジや黄色や朱の色の葉が天上から地上へ降り注ぐような感じで、 妖しくも不思議な世界でした。

 この絵の世界を音楽に例えるとすれば、ブルックナーの交響曲第八番を流してみたいと思いました。
 55歳くらいの女性が見上げて長い間佇んでいました。彼女にもきっといろいろな過去があり、黙って人生のひとときを一人で味わっていたのだと思います。

 御苑の紅葉は、一番奥に行かないとそのすばらしさはわかりません。
 桜の時期も、実はその奥の池の辺りが最高のしだれ桜の名所なのです。
 春の御苑の風景はソメイヨシノだけでなく、たくさんの美しい桜が咲き乱れていました。しだれ桜は少し濃いピンク色で簪のぼんぼんのような飾りが可愛らしく垂れ下がっているような美しさでした。淡い桜の花は日の光を受けて輝いていました。けぶるように桜が咲き乱れて、モネの印象画のように柔らかな明るい雰囲気でした。ベンチに座ったご老人はゆっくりと顔を上げて、目元は幸せそうに桜の花々を見上げて、口元にくつろぎの笑顔を見せていました。平和な時間が流れていました。夢のような美しい時間と場所でした。

 初冬の御苑も、枯れ木を見て引き返してしまう人々は、人間もそうですが、奥のほうまで見なければ本質に触れられません。春の櫻の鑑賞会で有名な時期だけではなく、すばらしい時期が初冬にもあります。
 奥を知るには、何度も足を運ばなければなりません。
 「三国志」の諸葛亮を劉備玄徳が三顧の礼として迎えるのは、そうしたことを物語っているような気がします。
 わたしはノーベルがダイナマイトを発明した以前、 諸葛亮が同じ威力のあるダイナマイトを発明し、これは人間が使用してはいけないものだと封印したという記述を「三国志演義」で読んで、知性とはこうあるべきものだと尊敬しました。
 学生時代、誰かデートに誘ってくれないかな、暇だなあと思いながら、長い冬休みや夏休みを読書で時間つぶしをしていた自分が滑稽でもあり、貴重な時間であったような気がします。
 
 御苑の名所は、昔自分が学生時代水彩画を描いた場所を探して、ふらふらしていて、最高の場所を見つけたのでした。
 ちょっと昔を振り返る菱川師宣風の絵姿が伝統ある日本風なのです


奥日光女きまま旅

2007年08月24日 09時53分27秒 | 旅行記

奥日光女きまま旅

場所(地域) 栃木
場所(詳細) 那須高原
時期 2001年8月1日
費用 ~40000円
ワンポイント 女性の感性

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆☆☆ ☆☆ ☆☆
「奥日光女ふたり旅」

 先日、奥日光から帰宅しました。
一泊二日の旅でした。

華厳の瀧はさすがに水しぶきが涼しそうでした。
その見学のあと、中禅寺湖を遊覧しました。
箱根の湖よりも大きく、周遊60分でした。
明治天皇が「幸の湖」と名付けたそうです。
湖面が天気の良い青空を反映して紺碧だったりエメラルドブルーだったりしました。

宿は湖畔に取りました。
比較的早く到着し、友人とふたりで温泉に入り、乳白色の硫黄のお湯でじっくり温まったあと、部屋でお茶に氷をグラスに浮かべて、部屋のベランダの木の椅子に腰掛け、緑の林の隙間からきらきらと輝いている様をぼっと眺めていました。
彼女は赤い日傘を差して、直射日光を避け、その傘の上に赤トンボ が止まっていました。
彼女はグラスを日に透かして、
「川端康成の作品で『朝の光の中で』と言うものがあって、朝の光の中でグラスの氷がきらきらと輝くという言葉があって 思い出したわ。」
と言うので、とても文学的な気分になりました。
片手に持ったグラスを日に翳すと、なるほど涼しげな感じでした。
日傘が情緒的な雰囲気を高めたのか、
「泉鏡花の『外科室』の奥さんたちを思い出すわね。」
とも彼女が言うので、不思議な気分で彼女が『外科室』のストーリー を語るのを聞いていました。
「川端康成と言えば、『雪国』の芸者の駒子を思い出すけれど、 ・・・・・・」
と、わたしは徒然に日経新聞に連載されて書いてあった小説の主人公の青年が、「おばさん」と若い芸者との逢瀬で呼ぶのだと話したら、よくよく話を聞いていた彼女は「そのおばさんって、その主人が慕っている恩人のおばさんのことで、違う女性を抱きながら、ほんとうに好きな人のことを呼んでみたのよ。」
と言うので、そうかなと思うと言うと、彼女は
「男性って、そういうところもあるのよ。」
と言うので、
「では、まるで源氏物語を下地にしているみたいね。」
とわたしが言ったら、彼女は源氏物語をほとんど知らないというので、しばらく藤壺を義母ながら慕って恋愛し、似ていた紫の上を奥さんにし、因果応報で後に薫の右大将が生まれたいきさつまで 話したら、彼女は複雑な話に驚いていました。

麦酒を風呂上がりに飲み干して、部屋に入ってみると、ピンクのタイルの可愛らしい
シャワールームに木漏れ日が燦々と注いでいたので、白いブラインドを少し下ろしました。
そして、そこで髪を洗いました。

夕食は白ワインをグラスで頼み、緑の装飾カーテンがまだ夕明かりの中木々の緑を見せるため、少し巻き上げられていて、高原の中の宿にいるのだと涼やかな気分になりました。
木の香りと雰囲気のダイニングで友人の仕事関係のお食事会の話をじっと聞いていました。
彼女はお茶もお花もできて、英語さえでき、PCさえ習っていたのに、再婚したらもうパートしかしないと言うので、残念な気がしました。
彼女のお茶席の話などは少し現実離れして興味を惹きました。
静かにダイニングルームにドボルザークの「スラブ舞曲」の曲がかかっていたので、彼女に言うと彼女は
「よくわかるのね」
と感心してくれました。
「トゥーランドット」という中華店の名前の由来を聞かれたので、オペラの名前で、中国の皇帝の名前だと言うとまた感心したので、「わたしはあなたのようにお茶やお花の嗜みもないのに褒めてくれて嬉しいわ。わたしの知識は仕事にならないものなの。」
と言うと、彼女は
「生活に関係ないことが教養なのよ。」
と微笑んでいました。
とてもこんなわたしでも話していて楽しいと言われて嬉しく感じました。
ふたりで話しているうちに静かに夜の帳が下りて行きました。

その後宿の外で煌めく星星を眺めて、全く物音のしない夜のしじまの中でしばらくたわいのない話をして部屋に戻りました。
途中ロビーで日経の小説を確認し、
「やはりおばさんが好きな青年だったわね」
と言いながら、視線はその上の記事に目が行き、
「知者は流れる水を愛し、仁者は動かざる山を愛す」という論語の言葉をおもしろく読みました。

明くる朝、ランチボックスを持って宿を出ました。
戦場ヶ原を見て、ここで天の神が戦争したのかと、のどかな広々とした風景をぼんやり眺めました。

公徳牧場を目指して二キロほど歩いて、やっと牧場に着くと、アイスを食べてランチをしたら、友人は木陰の椅子に横になって疲れたので昼寝をしたいと言い出したので、ひとりで公徳周辺を散策することにしました。

牧場には牛がたくさんいて、中に栗色の馬が二頭混ざっていました。
ただ素朴な牧場があるだけのところをぐるりと柵に沿って歩いていたから、櫻の木の下のために、わたしのブラウスの袖に青虫がぶるさがって来て、仕方なく手で掴んだら、ふにゅと段ボールを摘んだような感触でした。
「堤中納言物語」に「虫愛づる姫」という話があり、その姫の気持ちを少し思いやりました。
どんどん歩いているうちに、公徳沼にたどり着き、山を背景に泥の上澄みの水が綺麗に澄んでいました。
緑の水草が鮮やかにしゅーと弧を描いて一束になったものが幾つもマリモのような感じで生えていました。
沼に手を浸すと、とても冷たい感触でした。
沼には鴨が六羽餌を求めて、素潜りをしてすいすい泳いでいました。
近くを通りかかった小学生たちが沼に大きな魚がいるとはしゃいでいましたが、わたしは見ることはできませんでした。
友人の元に戻ろうとする道すがら、トンボが何羽も近くを飛んで来ていたので、牧場の柵に止まっていた大きな綺麗な赤トンボに興味をもって、指をすっと差し出したら、おつなしく手の上に乗り、まるで手乗り文庫という鳥のようにおとなしく歩いているわたしの手にいつまでも止まっていましたので、じっと観察していました。
足は六本、大きな目、赤い唐辛子のようだがすっとスマートで細い身体、
「おまえはトンボでもハンサムなほうね」
と話してみました。
こんな格好で牧場を歩いていたら、通りがかる小学生の集団がへーっと眺めて通り過ぎて行きました。

長い時間翅を休めていたトンボに愛着が沸きました。
ふっと誇らしげな気分がしたら、傲慢な気になったわたしに気づいたのか、トンボは
すーっと飛び去って行きました。

友人と合流し、近くのホテルの露天温泉に浸かっていたらもうじきにバスの時間になってしまいました。

自然に心和む二日間でした。