ひとり言

日記のように、出かけた事や思った事をひとり言で書いてみます。

恭仁京でひとり言

2013年02月24日 | Weblog
聖武天皇は、藤原広嗣の乱など国の内情に疲れたのか、理由は分かっていないが、740年に藤原不比等が造った平城京を離れ、京都・恭仁京への遷都を行います。この土地が新都として選ばれたのは、時の左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)の領地があったこと、木津川沿いで交通の要所だったことなどが理由と考えられている。

「今造る 久邇の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし」大伴家持 万葉集
「今新たに造っている久邇(くに)の都は、めぐる山や川がすがすがしいのを見ると、なるほど、ここに都をお定めになるのももっともなことだ」と、造営中の恭仁京を見て、大伴家持が褒めたたえた歌です。しかし、この翌年に紫香楽宮へ遷都され、わずか四年で廃都になっています。
 この時代は、藤原不比等の四兄弟が天然痘に没し、三男 藤原宇合(うまかい)の子、藤原広嗣が大宰府に左遷された後、聖武天皇の側近であった、玄と吉備真備らを朝廷から排除するよう上告し、反乱を起こした。その騒乱の中、聖武天皇は東国へ逃避行を開始する。伊賀・伊勢・美濃・近江を回り、その後は山城恭仁京・近江紫香楽宮・摂津難波宮へ転々と遷都した。逃避行なのか、壬申の乱の天武天皇の真似をしたのか、不思議な行動だ。聖武天皇は崩御する前に東大寺大仏を建立し、彼の遺品は光明皇后の希望で東大寺に納められ、一部が正倉院に保存されている。1300年以上経った我々が、年に一度だけ「正倉院展」で見ることが出来る宝物である。
今日は、木津川にある海住山寺の国宝五重塔、岩船寺の重文三重塔、浄瑠璃寺の国宝三重塔、本殿など、聖武天皇と行基ゆかりの国宝づくしの古代妄想の旅だった。晴れ男初めての降雪でおどろいたが、お陰で素晴らしく幻想的な景色を見ることができた。京都と奈良の県境にあるこの地は、木津川が湾曲する平野部で、縄文遺跡もあり、古くから栄えていた地域。家持が万葉集で讃えた通りのすばらしい土地だった。暖かくなったら、岩船寺と浄瑠璃寺を結ぶ当麻の里の小道を、石仏探しでもしながら歩いてみたい。きっと心のキズが癒せるでしょう。



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