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☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

天国への橋渡し ルカ23:32-49

2008年01月27日 | Celebration
 クリスチャンにもいろいろな人がいます。また、教会もいろいろな教会があります。しかし、イエス様の十字架の理解は、同じである必要があります。イエス様の十字架こそが「天国への橋渡し」です。今日は、ルカによる福音書23章32-49節を通して、イエス様が十字架にかかられた時、発せられた7つの言葉を通して、十字架=救いの本質を田中啓介牧師に語っていただきました。

 イエス様の十字架上の7つの言葉は、福音の本質でもあります。ですから、もし、信仰生活の中で、イエス様に対する疑いや失望を感じた時、イエス様を知らない人からイエス様のことを聞かれた時、この7つの言葉によってイエス様がどれだけ私たちを愛してくださっているかを理解し、豊かな信仰生活、また一人でも多くの方に福音を伝えて歩んでいくことができるのです。

父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」(ルカ23:34)

 この言葉は、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれたものなら、自分を救うがよい。」と言った、議員や民衆、すなわち、神を冒涜し、神様であるイエス様を今、まさに殺そうとしている人々に対して発せられた言葉でした。この言葉から、イエス様は、自分を冒涜している人々、敵対している人々に対しても、とりなしをされています。イエス様は、まさに全人類のとりなしをされたことがわかります。

はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)

 この言葉は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った、一緒に十字架につけられた犯罪人に対して発せられた言葉でした。死ぬ間際に人間は、その人の持っている本質が出ると、よく言われます。イエス様の右の十字架に架かった犯罪人は、自分のやったことの報いを受けていることを認め、悔い改め、イエス様に告白をします。彼には、利害関係の計算は、ありませんでした。イエス様の左の十字架に架かった犯罪人のように、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と毒づくこともできました。しかし、彼は、真の悔い改めに導かれたのです。そして、イエス様は、彼に対してこの言葉をかけました。まさに「主の御名を呼ぶ者は、皆、救われる」(ヨエル3:5)と言う御言葉の成就でした。

婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」 「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)

 この言葉は、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、発せられた言葉です。この弟子は、一般的にヨハネであると言われていますが、定かではありません。ヨハネの黙示録12章を注意深く読むと「母」は、「教会」を意味します。イエス様は、固有名詞で記されていない弟子に「母」を託されたのは、ご自分の弟子(現代の私たちも含む)、全てに「教会=イエス様のご自身の働き、伝道」を託されたのです。それは、私たち、クリスチャンが「互いに愛し合うこと」をイエス様が十字架の死に至るまで望んでいたことです。

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)
(マルコ15:34にも同じ言葉が記されていますが、マタイはヘブル語、マルコはアラム語で記されています。)

 イエス様が十字架につけられたのは、神様の計画でした。それは、全人類の罪の贖いを罪のない神の御子であるイエス様の命を捧げることになされたものです。イエス様が十字架につけられた時、イエス様は、人間として十字架の痛みを体験されました。また、父である神様の全人類の罪に対する怒りを体験されました。父である神様と子であるイエス様は、どんな時も一緒でした。しかし、十字架につけられている時のイエス様は、私たちの罪を負われていたため、聖であり、義である神様は、はじめて父である神様と子であるイエス様の関係を断たれたのです。聖書の中に、昼の12時ごろであるはずなのに全地が暗くなり、それが3時まで続いたと書かれています。(ルカ23:44)光である神がご自身を隠されたことにより、全地が暗くなったのです。

渇く」(ヨハネ19:28)

 イエス様の十字架上の痛み、苦しみは、人間の持つ肉体的な痛み、苦しみと共に、いつも共にいた父である神様との関係の断絶による精神的な痛み、苦しみでもありました。そのことが、「渇く」と言う言葉に表されたのです。私たちは、自分の救いに関してよく考えます。それでは、神様の私たちに対する救いに関してどうでしょう?救われることは、恵みです。良い行いも、多額な献金も必要ありません。ただ、イエス様に自分の罪を告白し、悔い改め、イエス様に共にこれからの人生を歩んでいただくことをお願いすればいいのです。そのために神様が払った犠牲は、どんなに大きいものだったのでしょうか?イエス様が十字架に架からなければならなかったほどの私たちの罪の大きさ、重さ、深さはどれほどだったのでしょうか?

 神様は、「義」です。ですから、人間の罪を見過ごすことはできません。しかし、神様は、「愛」です。ですから、愛する人間を滅ぼすことはできません。この二つの事実の中で神様は、どれだけ苦しまれたことでしょう。神様は、義を立てると共に人間を滅ぼさないために神ご自身が自ら(イエス・キリスト様)を罰せられたのです。真の愛は「義」に裏付けられています。「愛」には、責任が伴っています。神様の「愛」は、私たちの考えや思いをはるかに超える形で表されています。それが、十字架上のイエス様です。自らの命さえも犠牲にされる愛なのです。

成し遂げられた。」(ヨハネ19:30)

 この言葉は、ギリシア語の会計用語、「テテレスタイ=完済した」が使われています。完済、すなわち、「全ての負債が一銭残らず完全に支払われた」。それは、私たちの罪が、イエス様の十字架上の贖いによって完全に赦されたと言うことを意味しています。十字架上の出来事は、全て旧約聖書の詩篇22編に記されていることです。イエス様の十字架上の贖いは、神様の計画であったことがここで明白にされています。十字架は、義の勝利、復活は、勝利の宣言なのです。

父よ、私の霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)

 イエス様が十字架上の贖いを終えられた時、イエス様は、地上での目的を果たされました。そして、再び、父である神様の元にイエス様の霊は戻られました。それは、十字架にかかられていた時に4番目に発せられた「わが神、わが神、…」と父である神様におっしゃった言葉とは、違い、「父よ」といつもイエス様がおっしゃる言葉になっています。その時、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」と聖書に書かれています。神殿の垂れ幕の向こうは、大祭司しか、それも、決められた時にしか、神様に捧げ物を捧げるために行くことができませんでした。垂れ幕は、神様と私たちの間を隔てていたものです。しかし、イエス様が十字架上の贖いを完了された直後、神様と私たちの間を隔てていた垂れ幕が真ん中から避けたと言うことは、「私たちと神様の間を隔てる物は、何もなくなった」と言うことの象徴です。イエス様の十字架上の贖いによって、私たちは、大祭司を立てる必要もなく、自ら、神様の御前に行くことができるのです。

 今週も、イエス様の十字架上の7つの御言葉とその内にある神様の深い愛を覚えつつ、神様に仕えつつ、イエス様のことを来るべき代に語り伝え、その成し遂げてくださった恵みの御業を全ての人に告げ知らせましょう

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