Good News Celebration!

☆田中啓介牧師による礼拝メッセージをお届けしています。

クリスチャンのABC Ⅰコリント6:12-20

2010年08月15日 | Celebration


 2010年8月10日、管首相が、日韓併合100年を機に、日本国政府としては初めて、韓国に対する公式謝罪を行なった。韓国政府はこの声明を受け、「今後の対応に期待する」と応えた。しかし、この謝罪に対しては、日本、韓国双方共、否定的な意見の方が圧倒的に多い。勿論、これから、日本政府の実質的な対応が問われることになるが、とにもかくにも、戦後65年を経て、クリスチャンである李大統領政権下で、日本の管首相が、このような謝罪を発表したことは非常に大きな意味を持つ。

 何故なら、日本にリバイバルが起こる前に、日本がしておかなければならないことがいくつかあるからなのだ。その一つが、日本が韓国に対して公式謝罪することであった。確かにこのニュースは、私たちにとって、良い知らせであったことには違いない。そしてもう一つ特筆すべきことは、今年の原爆平和式典に、アメリカが初めて始公式参加したことである。これに関しても、式典参加に否定的な意見が圧倒的に多い。

 人にはそれぞれ自分の主張というものを持っている。それは、その人自身の生き方、生きることへの主張である。そしてその背景には、複雑な歴史的要因が絡んでいる。では、クリスチャンの生き方とは何か?それは、様々な歴史的、民族的、時代的要因を超えて、『イエスを主として生きる』ということに要約される。そしてその生き方は、決して複雑なものではなく、実にシンプルな生き方である。

「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。(Ⅰコリント6:12)

 ノン・クリスチャンにとってクリスチャンは、酒を飲まない、煙草も吸わない、日曜はゴルフではなくて教会、所得の十分の一は献金。「何と窮屈な生活であろうか!?」と思われるかも知れない。しかし、クリスチャンは、規則に縛られて生きているのでも、自分勝手に生きているのでも、社会や人に認められるために生きているのでもない。ましてや、過去の過ちや、誰かへの憎しみに囚われて生きているのではない。クリスチャンとは、神の絶対の愛と義の中で生きる、一元に生きている存在である。今日はクリスチャンとしての基本的生き方ABCについてお話しする。


■原爆の恐ろしさを訴え続けたアメリカ人 Joe O'Donnell (1922-2007 8/9)

 この時期になると、多くのメディアが原爆の特集を組むが、彼の名前は日本でも、特にこのアメリカにおいては、ほとんど知られていない。何故なら、彼は原爆の恐ろしさを現地で体験し、原爆の恐ろしさを訴え続けた唯一のアメリカ人の被爆者だからである。

 ジョー・オダネルは、19歳の時、真珠湾攻撃をした日本と戦うために海兵隊に志願した。彼は戦地の状況を記録する写真班に配属され、長崎の原爆の破壊力を記録するために長崎へ送られた。被災地のあまりの凄惨さに衝撃を受けた彼は、軍の命令に反して被爆者の人々の現状を撮影し、その写真を封印した。

 その後彼は、米国文化情報局に勤務したが、長崎滞在中に被爆し、肉体的にも精神的にも病んでしまった。それから45年後の1989年、彼は治療のために訪れたケンタッキーの療養所で、反核のために建てられたキリスト像を見て衝撃を受ける。そのキリスト像には、被爆した子供達の写真や絵が張られていたのだ。そしてその時、「お前も、この核戦争の恐ろしさを人々に伝える義務があるのではないか?」という神の声を聞いたのである。

 それから彼は自分が撮った写真を持ち、35社の出版社を回ったが全て断られた。だが、彼は諦めることなく、写真を人々に公開する機会を探し続けた。そして戦後50年が経過した1995年、遂にスミソニアン博物館での展示会が決定した。ところが、地元の退役軍人たちの激しい反対に遭い、展示会は中止に追い込まれてしまう。

 その後、彼はあらゆるメディアから批判され、嫌がらせの電話や投稿が後を断たず、激しい迫害に曝されることになる。そして、妻からの理解を得られずに離婚をされた。彼は写真が入ったトランクを開けたばかりに、彼の家庭は一気に崩壊してした。「原爆投下はアメリカの正義であり、それによって、戦争犠牲者を減らすことができたのだ」このアメリカ流の正義の前に、オダネル氏はただ一人孤立してしまったのである。しかし、彼はこう言った。

 「誤解しないで欲しい、私はアメリカ人で、アメリカを愛し、アメリカのために戦った。しかし、私はアメリカが犯した過ちを、過ちではなかったということには出来なかった。退役軍人が私のことを理解出来ないのは分かる。しかし、私はこの足で、死の灰の上を歩き、原爆の惨状をこの目で見たのだ。確かに日本軍は、中国や韓国を占領し、酷いことをした。しかし、あの小さな子供たちがいったい何をしたというのだ。戦争に勝つために、アメリカはあの母と子を一緒に殺す必要があったのか。戦争が終わってからずっと私は考え続けてきた。しかし、原爆はやはり間違っていた。それはこれから後100年考えても結論は変わらない。原爆は絶対に間違っている。絶対に。」

 70歳を過ぎた時、彼は写真を日本で公開し、原爆の恐ろしさを、生涯証言し続けた。そして2007年8月9日、長崎の原爆が落とされた同じ日、彼は85歳で昇天した。彼の息子は父親についてこう語った。「父は、本当の平和を目指して一人で戦いました。真の平和は、決して人を殺すことによって実現するものではないのです!」

 人は誰でも失敗する。日本もアメリカも失敗した。そして私たちも。しかし、過去の失敗をいくら後悔したところで何も始まらない。自分の失敗に気付いた時点で、悔い改め、全てのことに神の愛の御手が働いていることを信じて、世のため、人のため、神の御国実現のために努力する人生を、神は愛し、理解してくださるのである。過去の失敗をいくら後悔したところで何も始まらない。私たちはありのままで愛され、救われたのだから、その後は真っ直ぐに前を見て歩けば良いのである。


クリスチャニティーを日本文化に結晶させた千利休 (1522-1591)

 日本文化の結晶と言われる茶道における教えは、『野に咲く花のごとし』である。千利休は、決して「自然のまま」という意味で言ったのではない。野に咲く自然の花の美しさを損なうこがとないように、自然の美を引き出そうとすること。手を加えながらも、自然に咲く花のように輝かせるために必要なことは、心配り、気配り、目配りである。

飛び石のある狭い路地:自分の鎧、罪や虚飾を捨てて、一人一人渡る求道の道
蹲(つくばい):身を聖め、渇くことのない永遠の命の水。
灯篭:暗闇を照らす世の光。(神社仏閣にある飾りではない)
茶室の入り口(にじり口):身を低くして入る狭き門。
茶室内には一切の身分の差はない。(武士も刀を持っては入れない)
定刻30分前には水打ちをして清め、掛け軸には今日の主題を掲げる。
利休は袱紗(ふくさ)を腰に付けて客をもてなした。
お茶を回して飲む作法は、当時の聖餐式におけるぶどう酒の飲み方。
茶道とはキリシタンの聖餐式であり、己を空しくし、人に仕えることを学ぶ場所。
利休の妻(お力)と娘、高弟7人中5人がキリシタン。

 利休がクリスチャンであったという歴史的記述はない。しかし、このような状況証拠からすると、利休がクリスチャンであったことは、否定出来ない事実である。三浦綾子は、利休の子孫である千宗室とのインタビューでに、秀吉が利休を殺害した理由を聞かれ、「それは千利がキリシタンだったからです。」と明確に答えている。実は、千利休の名は、St.Lukeの日本語の音読みなのである。

 一切化粧をしない素肌美人の方もおられるが、上手に化粧をされる人は、化粧の跡を感じさせない、美しく自然な感じを周囲に与える。ありのまま、自然のままとは、決して、何も手をかけてはいけないということではない。3-4歳の子供の可愛さは、言葉に表せない。しかし、どれだけ可愛くても、ずっと3のままでいて欲しいなどと願う親はいない。正常な親なら、子供の成長を願わないはずはない。それと同じように、神は私たちをそのままの姿で愛してくださり、救ってくださった。しかし、そのままでいいなどとは言われていない。神は私たち一人一人の成長を切に願われているのである。つまり、「ありのままでいい」とは、「何もしなくていい」ということではないのである。


戦後の日本を救った賀川豊彦 (1988-1960)

 シュバイッツアー、ガンジーと共に20世紀の三大偉人と評された賀川豊彦は、大正・昭和期にキリスト教精神を実践した牧師兼、社会事業家であり、戦前日本の労働運動、農民運動、生活協同組合運動等において重要な役割を担った人物である。彼の著作、「死線を越えて」は、100万部を売る当時の日本文学界最大のベストセラーとなり、世界13カ国語に翻訳された。その印税10億円は全額、慈善事業に回された。

 1941年4月、賀川は日米開戦を阻止するため、単身渡米してワシントンで米国の政府要人達と話し合いをしている。また、民間人として初めてマッカーサーに会った人物でもある。1955年、賀川はノーベル平和賞の候補者となり、それから幾度も候補になっている。そして彼は、資本主義社会の不平等と、社会主義の排他性と暴力性を真っ向から否定し、家族間においては、互いにどのような経済的配慮が必要なのかという、聖書の基本的な教えに則った「Brotherhood Economics(キリスト教兄弟愛と経済構造)」を提唱した。この教えは、EC設立の基礎概念となっている。

 原爆投下後に参戦したソ連は、戦後の日本を4つに分割して、米、中、英で山分けしようと提案した。しかし、その提案に蒋介石(Chiang Kai-shek)が反対した。それは蒋介石婦人の宋美齢(Madame Chiang Kai-shek 1897-2003)が、未だ戦場の傷跡が生々しい1939年、「私は日本が憎い。だが、日本を滅ぼしてくださいと祈ることは出来ない。何故なら、日本には血の涙を流しながら、中国国民のために祈られているDr.カガワがいるからです!」と、ラジオで演説していたからである。

 宋美齢は、蒋介石との結婚を、最初の妻と愛人と別れ、キリスト教に改宗することを条件とした。実際、結婚後の1929年、蒋介石はメソジストの教会で洗礼を受けている。英語が堪能で弁舌家の彼女は、Ⅱ対戦下でアメリカ対日戦略のアドバイザーとして務めた。彼女は106歳まで生き、2003年、NYで死去した。

 日本分割の危機を救い、現在私たちが恩恵を受けている、国民健康保険や生協などの社会福祉制度の基礎を構築したのが、他ならぬ賀川豊彦である。つまり、戦後の日本を救ったのは、賀川豊彦という神の器が日本に存在していたからである。

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。。(Ⅰコリント6:19)

 グノーシス(Gnosticism/知恵)霊肉二元論とは、初代教会に入り込み、最も教会を悩ませ混乱させた異端の教えである。(コロサイ 2:8-23) 彼らは霊的キリストと、肉体的イエスとは別であり、天地創造の神も、旧約聖書も否定した。このヘレニズム的哲学は、当時の知識人の間ではかなり一般的に普及しており、肉体を持っているのだから、食欲や性欲が起こるのは当然。従って、娼婦とSexしても、それは霊的な信仰とは別に起こっていることなのだから、信仰とは関係がない。

 この考え方は、2千年前の過去の問題ではなく、実は、現代の教会も同じ問題を抱えている。つまり、仕事は仕事、家庭は家庭、教会は教会と、自分の生活の中で別々に考え分けて行動している人は、この霊肉二元論に生きているのであり、当時のグノーシス主義者と基本的には何の変わりもないのである。しかし、聖書は私たちにこう忠告している。「あなた方の体は、聖霊が宿ってくださっている神殿なのです」と。

 神の恵みの元で生きるクリスチャンは、日々の仕事、娯楽、家事、子育て、食事、友人と語り合い等々、全て神の御手の中で行われているという意識を忘れてはいけないのである。賀川豊彦が幾度もノーベル平和賞の候補者となった理由は、彼が単なる平和主義者ではなく、平和実現のためには具体的にどのような政治体制が必要なのか、どのような経済改革をしなければならいのかを終生取り組み続けた功績に対する評価だった。

 「天のお父様、教会を強めて下さい。日本を救って下さい。世界を平和にして下さい。

 これが賀川豊彦の最後の祈りであった。彼は聖書の教えを現実の社会制度に反映させ、実践することに生涯を奉げた人物であった。それは、私たちクリスチャンに課せられた義務でもある。教会を強めることが、日本の救いにつながり、日本が救われることが、神の御国実現につながる。クリスチャンとは、このような神の絶対の中で生きる、一元に生きている存在なのである。

A.ありのままで愛され、救われたのだから、真っ直ぐに前を見て歩く。(全ての要因を超越)
B.「ありのままでいい」とは、「何もしなくていい」ということではない。(絶えず成長)
C.クリスチャンは、何をしていてもクリスチャンでなければならない。(神の絶対の中で生きる)

 この「A当たり前のこと」を、「Bバカになって」、「Cちゃんとやる」!

 これがクリスチャンとしての生き方のベ-スであり、GNSの指針である。(執筆担当:Ako)




GNSのメッセージ(音声)はこのバナーをクリック!



GNSのメインページはこちら!

最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
感想 (Ako)
2010-08-21 07:24:08
「一元に生きる」とは、何時でも何処でも神様の絶対の中で生きるということ、神様と他の事を分けることはできない。「そうか、当たり前のことだったんだ!」と思うと同時に、一元に生きておられるクリスチャンの方々の生き様に感動しました。迫害の中で一人アメリカで反核を訴え続けたジョー・オダネル。大迫害時代の中でキリシタンとしても生き方を貫いた千利休。戦後の日本を作った賀川豊彦とその賀川師の中国への祈りを知っていた宋美齢。「当たり前のことを」、「馬鹿になって」、「ちゃんとやる!」問題の中に在ると、当たり前のことが見えなくなり、馬鹿にも素直にもなれずに、何もできないことがあります。どんな時にもイエス様がおられる一元の生きるを実践して行きたいと思いました。ありがとうございました。
返信する
感想 (ノブオ)
2010-08-22 02:33:57
 ”クリスチャンは、何事にも支配されることは無い”とは、実に私に、我々に自信を与えてくれる言葉です。中途半端な信仰を持ったってこれが実現できるわけではない、クリスチャンという特権を自分に視点を置いて都合のいいように用いても出来るわけでもないのです。これは、あくまで信仰という自信を聖霊様の力を借りてすれば、実際に可能であるとおっしゃってると思います。自分の体は、聖霊様の住まいであるとは、常に聖霊様を呼び求めることによって出来ることで、また来て頂く為の自分の心と体の準備が出来ていなければ、不可能なことであります。そうすれば、何事に対しても恐れることなく、自信を持って何事にも対処できるはずです。これは、私のチャレンジです。
返信する
感想 (睦美)
2010-08-25 04:48:27
「真の平和は決して人を殺すことによって実現することではない。」今週の礼拝メッセージを何度繰り返して聞いても、ジョー・オダネルさんの心からの叫びに涙が出てきます。真珠湾攻撃を聞いて軍人になった彼は、少なからず日本や日本人への怒りを抱いていたはずです。祖国を愛していればこそ、愛するものを傷つけるものを憎む思い。私たちはそれを当然のことと思い、そんな自分自身の怒りをも義としていることは多々あります。しかし、神様の愛はそんな民族的、時代的、社会的な思いを超越して、「愛」を語るのです。オダネルさんは、その愛に触れて変えられました。スラム街で伝道をした賀川豊彦先生も同じ、現代では考えられない差別が横行した古い時代に生きた千利休然りです。

「一元に生きる」意味は、私もまだ霊ではわかっていません。ただ、この礼拝で、神の愛だけに生きることがどれほど素晴らしいか、どれほど感動をもたらすか、そして触れられてどれほど変えられるか、神様の偉大さを知りました。始めるべきは、過ちを見過ごさないこと、過ちを過ちと認める力を求めること。まさに「あたり前のことをバカになってちゃんとする。」こと。聖霊様は私たちの傍で「罪」を自覚させてくださる助け手です。この御方に頼る時、私が一元に生きる一歩を踏み出すことができる!そして一元に生きることを、霊で知っていくことができるのだ、と示されました。
返信する
日野原先生 (Yoko)
2010-08-28 03:52:50
 こんにちわ。いつも教会のサイトでメッセージを聞いていますが、日野原先生のお話をされていましたね。NHK英会話のサイトに、今日先生のニュースが出ていてビックリしました。以下に英文の和文訳のニュースを添付しました。ニュースは1週間遅れなのでちょっとっと古いのですが。もうご存知かもしれませんが…お話されていた通り98才のお年にもかかわらず福音を伝え続けていらっしゃるのですね。こんな目的に燃えた人生って本当にすばらしいですね。

『日本でもっとも高名な医師の一人が、ニューヨーク市で舞台デビューを果たしました。98歳の日野原重明さんは、世界でも有数の長いキャリアを持つ現役の医師です。日野原さんは8月13日、ミュージカル「葉っぱのフレディ」の初日に舞台に上がり、子どもたちと一緒に踊りを披露しました。およそ300人の観客が、英語の字幕付きでミュージカルを鑑賞し、日野原さんの演技に声援を送りました。日野原さんは、レオ・バスカーリアのベストセラー小説をもとにこのミュージカルを企画しました。この物語は、フレディという名の葉っぱの短い一生を描き、終盤で自分の死を受け入ることを通じて、命の大切さを伝えるものです。この劇は日本でこれまで10年間にわたって上演されてきました。しかし今年、日野原さんはこの作品をアメリカで上演しようと決めました。劇を鑑賞した女性は「すばらしい劇でした。人生はひとつの輪のようにめぐっていくということが、よく描けていると思います」と話していました。
返信する

コメントを投稿