幸せ能力の劣化
この物が売れない時代に飛ぶように売れているi-Phoneやi-Pad。生活必需品ではないが便利で楽しい。つまり幸せの代用品である。誰もが幸せになりたいと願って知恵を身につけ、経験を積み、自分を磨いている。ところが、世の中が進めば進むほど、逆に幸せから遠のいている。精神的・肉体的免疫力が低下し、ワケのわからに病が蔓延しているように、人は幸せになるための能力がどんどん劣化している。
例えば、人を赦す能力。幼い頃はどんなに兄弟喧嘩しても、30分もすれば仲直りして、手をつないで寝ているのに、成長して大人になればなるほど、知恵が益せば益すほど、人をゆるすことが難しくなる。感謝が出来なかったり、ごめんなさいの一言が言えなかったり、この性質はいったい何時から始まったのか?
生まれ持った罪
赤ちゃんの「赤」の意味ご存知か?「赤の他人」は全く関係ない人のこと、「赤貧」は全く何もない貧しさ。赤ちゃんの「赤」は「全くない」という意味で、何の罪も汚れもないという意味。ところが、この赤ちゃんも、ちゃんと罪の性質を持っているのだ。
友人のある牧師家庭のお話し。奥さんが実家で次男を産み、無事出産を終えて家に戻った時、2才の長男は久しぶりに母親に会える喜び一杯でいざ母親と対面した時、彼は抱き付きに行かなかった。抱き付きに行こうにも、別の子どもが母に抱かれていたから。彼はこの弟という見知らぬ生き物を睨み倒し、彼の目には愛情どころか嫉妬の炎がめらめらと燃え上がっていた。次に3番目の子どもを授かった時、今度は上の二人が新参者を睨み倒していた。つぶらな瞳が憎しみの目になるのを見ながら、あぁ、人間には生まれ持った罪の性質が宿っていることを認めざるを得なかった。
光が見えないのは、光がなくなったのではなく、光を遮るものがあるから
学生時代、私の部屋は東向きの日当たりの良い部屋で、よく友人たちのたまり場になっていた。ところが、ある日突然、日当たりが悪くなり、環境が変わってしまった。部屋の直ぐ隣に4階建ての建物が立てられたのだ。それは、太陽が暗くなったのではなく、太陽と部屋の間に遮蔽物が立ちはだかったためである。この世の中のどんな人も、どのような状況にある人でも、神の光や神の祝福がなくなってしまったという人は誰もいない。ただ神とその人との間にある罪と言う遮蔽物が、光を遮ってしまっているのだ。この遮蔽物を取り除くために、この世に来てくださったのがイエス・キリストである。
人は神から離れると、人間は3つのものを失い空しくなる。
目的 (自分が出発点)
日本ではネットで調べておいても、実際に随分迷うことがある。駅の改札口を間違うと、最初のスタート地点を間違うと、ゴールにたどり着けなくなる。人生も同じ。人は人生の目的を自分を出発点にして考える。自分は何に向いてるのか。何に興味があるのか?何をやりたいのか?それを見つけることが人生の目的!しかし、好きなことをやっているはずなのに、空しさを抱えている人はいくらでもいる。
人間を出発点に人生の目的を探っても、本当のゴールには行き着くことは出来ない。それは出発点が間違っているからだ。椅子が出来てから椅子の用途が考えられたのではなく、用途があったから椅子がつくられたのだ。あなたをつくられた作者の意図を知ることが、自分の人生の目的を知る第一歩なのである。
愛 (どうしたら愛されるか?)
日本の本屋には、どうしたら愛される人になれるか。愛される女性になるためには、頼りになる男性とは?リーダーの心得とは?そんなマニュアル本ばかり。ところが、「愛するにはどうしたらよいか」について語る本はない。人は自分を愛してくれる人を愛するのだから、愛することが出来る人になればいい。
では、愛の人とはどのような人なのか?それは無条件で、途中で切れることなく、いつまでも続き、どんな状況であろう愛し続けられる人のこと。しかし、そんな人は誰もいない。ただ、神だけがあなたを永遠に変わらない愛で愛しておられるのだ。その愛を示すために、人となってこの世に生まれ、罪なき生涯を送り、十字架であなたの代わりに罰を受けて下さったキリストこそ、神の変わらない愛の証拠なのである。
命 (死と分離させている)
多くの人々は神なんかなくても十分幸せで、人生をエンジョイしているが、死ぬまでの間が充実していればいるほど、人生の最終地点である「死」とのギャップが大きくなるのではないか。人は幸せなのではない。不幸せに気付いていないだけなのだ。死という事実を否定出来ないとするならば、その途中経過がどれだけ幸せであろうとも、それは真の幸せにはなりえない。
失うために得、別れるために出会い、苦しむために愛するのなら、何と人生は空しいものか。実は、生きるということは死ぬこと。死ぬということは生きること。人は正しい生死観を持って始めて、人生を前向き・肯定的に生きることが出来るのだ。キリストは死からよみがえられ、死を滅ぼされた。このキリストの中に、人生の真の目的と、真の愛と、真の命が備わっているのだ!
それを取り戻すためには、3つの考え方を改める必要がある。
神なんかないという考えを変える。
ジョン・レノンのイマジン「神なんかいないって想像してご覧、天国も地獄もないってイメージしてごらん」そうイメージするとそういう生き方になる。世の中にある問題の根本原因は、神の存在を認めないことにある。借金が山のようにある人が、借金がないと考えて行動したら、借金を増やす生活を続けてしまい、やがて返済に苦しむことになる。もし、あなたに夫がいるのに、夫などいないかのように考え、行動したら、夫婦生活は必ず破綻する。
自然や生物の細部を緻密に描く細密画法で50年以上描き続けてきた熊田千佳慕。99才で昇天した彼は、「もういつ死ぬか分からないと思うと、もう一度物をよーく見てみよう」と決心すると、年を取れば取るほど、自然がよく見えてきた。若い頃はバラの花びらはつるつるだと思っていたが、実は縮緬のようだった。その発見に彼は感動し、そう描く。彼の目には花や虫は美の極致だった。「根本は愛なんです。美しいから愛しているのではなくて、愛しているから美しいのです。」一人の画家が花びら1枚1枚を慈しんで見つめ続けたように、神は可愛い自分の子供であるあなたを愛の眼差しで見守り続けておられる方。そんな神などはいない!という捨て鉢な考え方を改め、私を愛しておられる方がいるのだという考えに変える。
自力で神の元に行こうという考えを変える。
先程の牧師家庭の長男が事故で入院したことがあった。その時、家族は勿論、沢山のお友だちが病院にお見舞いに来た。ところが、末っ子だけは、お兄ちゃんをお見舞いに行くことが出来なかった。何故なら、彼はその時、新型インフルに罹っていたから。彼は「お兄ちゃんの所へ行く!」と切望したが、自分の病気が完治するまでは、病室に入ることは許されなかった。それと同様、100%聖い神の前に人は罪を持ったままで近づくことは出来ないのだ。いくら努力しても世の中には自分の努力だけでは通用しないことがあるのだ。自分の力で何でも出来るという、無知で傲慢な考えを改める。
キリストについての考えを変える。
この世で世界一有名で、世界一誤解されているのがイエス・キリストである。彼はキリスト教の開祖、立派な人、偉い人、教師、哲学者等々。しかしその実体は、彼はあなたと神の間に立ちはだかる「罪」を取り除くために、この世に来られた生ける神の子。キリストはあなたの罪のすべてを背負ってあの十字架に架かり、あなたの代わりに罪の刑罰を引き受け、いのちをもって償って下った。そして、死んで三日目に復活し、人間の努力では解決出来ない罪と死の問題に決着をつけた。誰でも、このイエス・キリストを自分の救い主として信じるなら、神はその人の心の内に新しい命と救いを与えて下さるのだ!
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世で偉大な成功を修めた人、巨万の富を得た人、容姿才能に恵まれた人、そんな人たちでも、一般に考えられる幸せの必須要素を余り得て尚、「空しい」「生きる意味がわからない」と言う。何を得ても、死からの解放感、生きている実感がないからだ。自分自身が何のためにここにいるか、誰がそれを望んでいてくれるか、そしてそれはこれから先、遥か永遠にまで至る人生にどれほど必要なことなのか。創造主の存在、父なる神様の愛、そして人生の意味を知らないままで人が満たされることはない。
過ぎたことをなかったことにはできない。自己中心性は一度ならず失敗を引き起こす。しかし、してしまったこと、壊してしまった愛の回復を心から求める時、人は変えられる。自分の力だけでは到底できなかったことでも、可能になる。それがイエス・キリストの前に願い出た者すべてに神様が与えてくださった回復の約束。世の中の書物は、「悲しむこと」「信じないこと」「逃げること」で幸せを説く。でも私は、聖霊様によって「喜ぶこと」「信じること」「立ち向かうこと」で幸せを回復した。そして「私は生きている」と言える。すべて、創造主神様のもとに戻ることによって成ったこと。その導きにあらためて感謝したメッセージでした。主に感謝します。
イエスキリストは、私たちの罪の身代わりになって死んでくださった、全人類の神であること、この事実をはっきり大胆に神様を信じておられない方へ伝えていくことを改めて思いました。
□ケントの交通事故で考えさせられるのは、人間というものは、“一皮むけばそのような存在である”という実例から、最近自分の身の回りで起っている問題等を考えた時、一般の人達のみならず、周りのクリスチャンに対しても、そのように考えてしまう状況に遭遇しています。自分のことは棚に上げられませんが、そういった時に、忍耐を持ってイエス・キリストの愛を貫き通す姿勢がなければ、自分も彼らと同類となり、悪魔の思う壷に陥ってしまうとつくずく考えさせられました。
□“正しいことと知りながら、それを周辺の人に伝えないのは、それは罪だ。” 家庭、職場、全ての生活の中で、それを実践していくことが、私の使命です。